第6話 古傷


 高校二年の七月。

 学校の屋上で寝転んでいた私の目には、雲ひとつない透き通った空が映っていた。


 貯水タンクの影は程よい涼しさで、心地よい初夏の風が首元を撫でている。

 私は頭に敷いたタオルの感触を感じながら、日が沈むまで、この一人の時間を感じていたかった。何もしないで、どうでもいい、荒唐無稽なことを考える幸せを噛み締めて。



 遠くからは生徒たちの声が、体育館からはスキール音が、校舎裏の木々からは雄蝉たちの求愛の歌が聞こえてきた。


 そして私の後ろからは、友人の呆れた声が聞こえた。


「……やっぱり、ここだったか」


 寝転ぶ私の視線を遮るように、友人の美咲が顔を覗かせた。


「……見つかっちゃった。ここさ、貯水槽が影になって涼しいんだよ」

「知ってるよ、あとそのセリフを聞くのも三回目。戸崎ちゃん、めっちゃ怒ってたよ」

「あれ、そうだっけ? まぁまぁいつものことだから、だいじょぶだいじょぶ……」

「全く……ユカはどうしようもないんだから」


 仕方がないといった様子で、美咲は可愛らしいボブの髪を耳にかけると、貯水タンクに背中を預けた。

 風でひらひらと揺れるスカートからは、淡い水色のショーツが見えたり見えなかったりしている。

 寝転がった私は、思春期の少年のような気持ちで、はためく紺色の生地を目で追いかけた。


「……覗き込んでも何も出ないわよ」

「むしろ何か出てきたら困るけどね。しかし、今日は随分と夏らしくて可愛いパンティを履いてるのね」

「……おっさんみたいなこと言わないで。良いでしょ別に、部活終わったらカレとデートなの」

「あら、それは気合い入れなきゃだね」


 美咲はため息を吐くと、短めに折ったスカートを手で押さえ、寝転ぶ私の側に腰を落とした。汗と制服の匂いが混ざった匂いが鼻孔をくすぐって、私はなんとも言えない気持ちになった。


 美咲が私を呼びに来たのは、先生から頼まれたのかもしれない。


 でもきっとここに来たのは、多分”あの”ことを聞きに来たはずだ。


 頼むからこの平穏を壊さないでくれと、全然見当違いの話を振ってくれと、私は願っていた。しかし、悪い予感は的中するものだ。


「あのさ」


 座った美咲は唐突に、私のほうを見ずに話し始めた。鼓動が激しくなるのが自分でも分かった。

 

「……”デキちゃった”って、本当?」


 重たくなっていた空気が完全に凍りついた。

 私は何と答えようかと逡巡し、短い沈黙が流れる。蝉たちの声が、さっきよりも幾分か大きくなったような気がした。


「……私には本当のこと、話してくれるよね?」


 美咲は口をつぐんだ私に追い打ちをかけてくる。覗き込まれた顔は、私を憐れむのではなく、真剣そのものだった。

 

「それを聞いてどうするの?」


 私は目を閉じ、先程までの陽気な声とは打って変わった、人を遠ざけるような、冷たい声で言い放った。

 すると意外にも、美咲は私の手をぎゅっと、力を込めて握っていた。

 彼女の熱が、薄皮一枚の向こうから伝わってくる。


「聞いて、私が助けてあげる。お金が必要なら一緒に稼いであげる。相手と話をするなら付いて行ってあげる。だから、お願いだから一人で抱え込まないで……」


 彼女はそう言うと、泣きこそはしなかったが、震える手で私に言い聞かせていた。

 どうしてここまでしてくれるのだろうか。

 私は美咲に何かしてあげたことがあっただろうか。

 いつもくだらない話をし、年相応に悪いことを一緒にしてきただけだ。


「……デートはキャンセルしてくれる?」


 私は身体を起こすと、彼女の手を握り返し、そっと肩を寄せる。

 うなずいた彼女からは、少しだけ鼻をすするような音が聞こえた。




 

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やさしいあなたの花でありたい 積鯨 @tumige39

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