第3話 思い出
一人で飲んだ帰り道、私は小柄なかわいらしいショート髪の女の子を拾ってしまった。彼女のことを野良猫みたいに考えていた私は、きっと酔っていたに違いない。深夜に独りでバス停で泣いていたので、思わず声をかけてしまったまでは良かった。だけど勢いで家に連れてきたのはさすがに失敗だった。
少女は余程疲れていたのだろう。プラスチック製の安っぽいドアに寄りかかり、彼女は静かに寝息をたてていた。年相応の少女の寝顔は、どこか私を安心させてくれるようだった。
間借りしているマンションの下にタクシーを止めてもらった私は、すっかり忘れていた料金のメーターに目をやった。深酒をして終電を逃した結果ではあるけれど、随分走ってしまったせいでなかなかに痛い金額が表示されている。
「お客さん、領収書はどうしますか?」
「あーえっと、大丈夫です。レシートだけお願いします」
私は頭を抱えると、使い古したコーチの財布から今夜の飲み代と変わらない額の紙幣を運転手に渡した。全く年末だっていうのに、これじゃ出費が嵩む一方だ。
断腸の思いで会計を済ませると、申し訳ないと思いつつも少女を起こすことにした。運転手だってこんな遠くまで走ったのだから早く帰りたいはずだ。逆手に付けた腕時計に目をやると、針は三時を回ろうとしていた。
「
私は彼女の華奢な身体を優しく揺すった。肩は骨ばっていて、ちゃんと食べてないんじゃないかと心配になった。
やがて、
「ごめんなさい、佐々木さんに乗せてもらって……」
どうやら寝起きは決して強いわけでは無いようだ。お酒が入っていたようだし無理も無いけれど、彼女の青白い頬はアルコールに耐性がないと言っているようなものだ。おまけに同性とはいえ、見ず知らずの人間の前で寝てしまうだなんて。大人に対する耐性というか、危機感をもう少し持ったほうが良いんじゃないかと老婆心ながら思ってしまう。
最初話したときは、どことなく雰囲気のある子だなんて思ったけれど、彼女は年相応に子供だったようで、不思議と安心してしまった。
「良いの。それより早く降りないと、運転手さんに悪いから」
私がちらっと横目で運転手を見ると、人付き合いの苦手そうな人相の彼は、薄っすらと愛想笑いを浮かべてくれた。もしかすると私と柊さんは年の離れた姉妹か親戚にでも見えるのかもしれない。もちろん、そんなに親しい関係なら名字で呼び合ったりしないだろうけれど。むしろ、いかがわしい目的で連れているとか、ありもしない目で見られてるんじゃないかと私は苦笑する。
柊さんはまだ少し酔いが残っているのか、降りるのに足元を確認しながらもたついていた。見かねた私は、彼女の手を引いて足早に車内を後にした。
タクシーがゆっくりと住宅街を後にしていくのを尻目に、珍しく親切心で助けてしまった彼女を私は呆れた顔で眺めていた。柊さんは寒いのか、震える手を摩りながら、どこか遠くの何かを見ている。先程までの幼い寝顔は一転して、どこか影の射した冷たい表情を浮かべていた。
私は考えるよりも先に彼女の肩に手をやり、自分の方へと抱き寄せていた。
「あっ」
「ほら……うちに入ろ。風邪、ひいちゃうから」
彼女は何も言わず、私に身体を預けていた。
安堵からなのか、彼女はホッと息を吐く。私はそれを見て、少しだけ心が温かい気持ちに包まれるのがわかった。上手く言葉に出来ないけれど、子供の頃に感じた、良いことをして誰かに褒められた時みたいな、そんなこそばゆさだった。
*
独身女性には広すぎる2LDKの部屋は、まるでテレビで特集されるゴミ屋敷一歩手前のように散らかっていて目も当てられない。コンビニ弁当や惣菜のゴミはいつも片付けていたけれど、空いた酒瓶や雑誌、貰い物の服や靴なんかはそのまま放置されていて、店長が夜逃げしたお店っていう表現がぴったりだった。
柊さんが部屋に入る前に足の踏み場は作ろうと簡単に掃除はしたけれど、果たして人に見せられるレベルの部屋かと言われると怪しい。
成人してもう何年も経つのに、仕事を言い訳にして家事を疎かにする私。実際忙しいのだけど、こんなんだから友人や両親からも心配され続けているのだと思う。
「上着はこっち。適当に座っていいよ」
柊さんを部屋に上げた私は、自分と彼女の上着をスタンド式のハンガーにかけると、リビングにあるテーブルに腰掛けた。柊さんはちょこんと椅子に座ると、やっと一息吐いたとばかりに安堵の表情を見せていた。パッチリとした大きな瞳は周囲をキョロキョロと見回していて、知らない場所に来た猫のようだ。知らない女の家に来て不安なのか、それとも荒んだ私の生活の一部が気になって仕方がないのか。
「ホントごめん。普段はこんなんじゃないんだけどさ、私片付けるの苦手で……」
「ううん……別に気にしてないから」
私は苦しいと思いつつ嘘を吐いたが、どうやらすぐにバレたらしい。柊さんは目を細めると、頬杖をついて小さく笑っていた。
年上の威厳がなくなってしまったなと肩をすくめる私。でも彼女から感じていたどこか暗い気配とでも言うのだろうか、そんな雰囲気が和らいだような気がする。
「あと佐々木さん、わたしのことは
「えっ……そうなの? じゃあ私もユカでいいよ。そのほうが呼びやすいでしょ?」
「うん、そっちのほうがいい」
そっか。名字で呼ばれたくないんだ。
何故だろうと私は疑問に思ったけれど、詮索をするつもりはなかった。この子と一緒にいるのは今夜だけだろうし、この手の話題に突っ込んでロクな事になった試しはない。
それよりも、彼女が変に気を使わずにフランクに喋るようになったことのほうが嬉しかった。
「じゃあそれで決まり。年も離れてるって言っても四~五歳くらいでしょ? あと葵だと、恋人みたいでちょっと恥ずかしいから、あおちゃんって呼んでもいい?」
「いや……そっちのほうが恋人みたいで恥ずかしいんじゃ」
「じゃあ決まり! よろしくあおちゃん」
「…………」
私は少々強引かもしれないけれど、出来るだけ陽気な人間を演じて彼女を元気づけようとした。葵も少し不満そうな顔で私を見たけれど、満更でもないように思えたので、私は笑顔でそれを無視した。
「ところでさ、そろそろお風呂に入らない? あおちゃんも寒かったろうし、風邪ひくといけないから」
風邪と言ったところで、私は暖房をつけ忘れていたことに気づく。寒いのは当たり前だ。
葵に先に入るように促しつつ、私はエアコンのリモコンを探したけれど、相変わらず汚い部屋に阻まれて、どこに置いたのか皆目見当がつかなかった。
仕方なく壁際まで歩いていってスイッチを押す私を、葵は苦笑しながら眺めていた。なんだか小馬鹿にされている気分だ。
「そしたらさ、ユカが先に入ったら」
「どうして? 私は後でいいよ」
葵は恥ずかしそうに、私のことをユカと呼んだがすぐに顔を逸してしまった。
何だかこっちまで恥ずかしい気持ちになり、私は指先で頬を掻いた。まるで、学生時代に友達を作ろうと、勇気を出して隣の子に話しかけた時のような感覚だ。相手は年下の女の子だと言うのに。
「あおちゃんってさ、可愛いよね」
壁に背を預けて、私は不意にそんな言葉を葵に投げかけていた。葵は意外だったのか、戸惑うような表情をしてあたふたする。そんな顔をされては、私だって困ってしまうじゃないか。
「親切にしてもらってる人にこんなこと言いたくないけど、もしかしてそういう趣味?」
葵は思いつめた顔でそんなことを言い始める。まさかの返答に、私は変な声で笑ってしまった。別にそういう趣味はないけれど、でも考えてみればそうだ。見ず知らずの女の家に来た挙げ句、風呂に入るだの可愛いだのと言ったら、誘っていると思われても仕方がないか。
「あおちゃんが男の子ならちょっと考えても良いけど……って冗談、怖い顔しないでよ」
「…………」
「こんな時間にさ、女の子が一人で泣いてたから気になっちゃって。詳しいことは聞かないけどさ、何かあったんだろうなって思ったから声をかけたの。別にシたくて家に連れてきたわけじゃないってのはわかって欲しいな」
「…………」
少し言い訳がましい口調だったような気がするけれど、葵は頷くと、何を思ったか椅子から立ち上がり、窓の方へ向かって歩いていった。私も何気なしにテーブル脇から煙草とライターを取って彼女のに続く。ちょうど煙草が吸いたかったのもあるけれど、なんだか彼女が気になったというのが一番の理由だ。
「いいよ、早くお風呂入ってきて」
ついて来た私にぶっきらぼうに言う。ここは私の家だというのに、まるで彼女のほうが家主のようだ。
「あのさ、隣いいかな」
「…………」
私は窓から外の景色を眺める彼女の隣に立つと、返答を聞く前に窓を開けてベランダに出る。すると葵も何を思ったか、私に続いて窓の外へと出てきたので、私は室外機のそばに置いてあったサンダルを、足に引っ掛けて彼女の前に置いた。
「女っ気がないとか言われない?」
「人前じゃやらないよ」
呆れる葵を他所に、私はまぐれ当たりと書かれたソフトタイプの包装を揺すり、フィルターを口に咥える。安物の百円ライターを数回擦って火を点けると細い紫煙が上がり、雪がちらつく師走の空へと吸い込まれていった。
「優しいんだねユカは、疑ったりしてごめん」
「まぁ……そこらの男よりはね」
煙草のことは何も言ってこなかった。私の方を見ないまま、葵は言葉を紡いでいく。
「今日は色んなことがあったの、馬鹿みたいなことがいっぱい。だから少しだけ、人を信じられないの」
「それは大変だったね」
葵は淡々と話しているが、冷たい声色の向こうには、もう一人の少女の悲しみが潜んでいるように思われた。
「……セックスってさ、結構痛いんだね。それに案外特別なものでもなくて、わたし抱かれちゃってるんだって、そのくらいの感覚しかなかった」
「そっか」
「そもそも彼氏じゃないの。彼氏じゃないんだけどさ……」
「うん」
曖昧な言葉を葵は紡いでいく。明言はしなかったものの、何があったのかはおおよそ推測がついた。歩き方が少しぎこちなかったのもきっと。
葵は話しながら、いつしか涙を流していた。大したことじゃないと彼女は言うけれど、女にとってそれは決して簡単に流せるようなことではない。
空いた手で、葵の小さな頭を撫でるようにそっと擦ってみる。すると今度は、彼女の方から身体を預けてきた。私の肩までしかない少女をそっと抱き寄せると、葵は小さく震えながら子供のように泣きじゃくった。それは偽りのない、彼女の本当の声だったと思う。
しばしの時間がたった。私は葵を抱きながら、星なんて見えない厚い雲ばかりの空に目をやる。すると、帰り際に降っていた雨がいつしか粉雪へと変わり始めていた。
「あおちゃん……雪だよ」
たまには神様も仕事するもんだなんて、思わず柄にもない事を考えてしまう。私は手に持った煙草が随分減っている事に気づいた。
葵は何も言わなかったけれど、涙に腫らした目で、次第に眠りにつく街に降り積もる雪を眺めていた。この葵という少女ともう少し一緒にいてもいいかもしれない。残り少ない煙草を咥えたまま、私はそう思っていた。
*
あの頃が懐かしい。
私は普段よりも高く設定したシャワーを頭から被っていた。髪を梳きながら、時折バスルームの鏡に映る自分の顔を覗き込んでいた。
葵と出会ってからもう二年が経とうとしている。初めて出会ったのも、ちょうどこの時期だっただろうか。
「疲れてんのかなぁ……わたし」
職場に新人が入ってきたり、上司との軋轢が深まったりで最近ストレスを抱え込むことは確かに多かったと思う。その反動のせいか、葵には言えないようなこともしている自分がいる。
「葵には悪い事しちゃったな」
酔っていたせいもあったけど、少しその気にさせるようなことを言ったかもしれない。私だってあの子の気持ちには気づいているけれど、それが恋愛的な好意かと言われるとわからない。
葵はきっと”若いから”ただそれだけなんだと思う。誰だって好きになってしまうと、それが欲しくて仕方がないから。
別に葵とすることが嫌いなわけではない。けれどもその先に、私たちの関係は成立するのだろうか。
シャワーを止めた私は、ちょうど鏡に下腹部の古傷が映っている事に気づいた。もう何年も経ったけれど、思い悩む時に限ってこの大きな傷跡は、昔の痛みをひしひしと思い出させてくる。
そういえば、葵にはこの傷のことをちゃんと説明していない。場所が場所だけに、賢い彼女なら、身体を重ねたときにもう気づいているかもしれないけれど。
私は自嘲気味に傷跡をなぞる。ふと疲れていたのか、足がもたついてしまい、よろけた拍子にガラスに手をついた。
そこには酷く窶れた《やつれた》自分の顔が映っていた。
結局、葵には何も言い出すことは出来なかった。
答えのない問いが頭の中で渦巻いては消えていき、自分の気持ちを認められない私を、もう一人の自分が笑っているように思えてしまい、不快な気持ちを拭うことが出来なかった。
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