やさしいあなたの花でありたい
積鯨
第1話 出会い
いつもの「ただいま」という声がなかった。バタンと勢い良くドアを閉める音が薄暗く冷たい廊下にこだまして、それから疲れた足取りがこちらに向かってくることにわたしは気づいた。
やがてリビングの扉が開き、寒さで耳を真っ赤にしたユカが部屋へと入って来る。黒地のチェスターコートには、帰り道に降った雪が少しだけ残っていた。開いた扉から漂ってくる香水の匂いに違和感を覚えたけれど、きっと新しい物に変えたのかもしれない。わたしの趣味じゃないけれど。
「おかえり」
炬燵に足を入れたまま、わたしは一瞬だけ振り返りそっけなく言う。ユカは何だか酷く疲れた表情をしていた。ユカは小さく「ただいま」と言うと、以前、誕生日に男から貰ったと話していたコートをテーブルの椅子にかけ、わたしの居る炬燵の方へと近づいてくる。そして膝を着くと、足を伸ばしたままテレビを眺めるわたしへと、端正な顔をそっと寄せてきた。
彼女はたまにこうやって甘えてくる事がある。わたしが文句を垂れなければ、ユカを拒むどころか、余計に。そんな関係がずっと続いている。
「……お酒臭いよ」
「あおちゃんはいい匂いがする。もうお風呂入ったの?」
「いや……まだ」
「……そっか」
わたしはダル絡みをしてくるユカを面倒臭そうにあしらうが、別に彼女のことが不快というわけではない。ただ、出会った頃からこういう仲なのだ。
ユカの口からは少しだけアルコールと煙草の匂いがして、帰りにどこかで寄り道をしてきたことが容易に想像できた。多分、今日は職場で何か嫌なことでもあったのだということも。
わたしは肩にユカを乗せたまま、テレビから流れてくる明日の大雪の予報をぼんやりと眺める。どうやらこれから本降りになるらしく、ユカのためにと多めに買ってきた食材が役に立ちそうであった。
やがてわたしが構う姿勢を見せないままでいると、ユカは我慢できなくなったのか、足を崩して後ろから抱きつくような姿勢でわたしの
だがユカは顔をわたしの肩に乗せたまま、母親に甘える子供のような仕草で話しかけてくる。
「やっぱり明日は雪凄いんだ……ねぇあおちゃん、今日泊まりに来てよかったの?」
「あのね……ユカ、こんな雪じゃコンビニ弁当も買いに行けないでしょ? だから来てあげたの。ユカは料理作れないんだから……」
「ちょっと、私だって簡単なものくらい作れるわよ」
「殻の入ったスクランブルエッグとか? あれは傑作だったよね」
「……あおちゃんの意地悪」
わたしは抱きついたまま駄々をこねる彼女をからかう。ユカは仕事が出来る代わりに、料理というか、家事全般が大の苦手だった。今日だってわたしが合鍵を使って部屋に入った時は、脱ぎ散らかされた衣服が部屋に散乱していて、たった一週間でこんなに汚くなるのかと呆れてしまうような有様だった。表情はわからないが、きっとユカは頬をハムスターのように膨らませているに違いないなとわたしは思う。
ふと気になって、振り返ってみる。すると疲れた眼を細め、こちらを見ているユカの端正な顔が、わたしの瞳に入ってきた。
「なに……?」
わたしはドキッとして、目を逸らす。彼女の顔に触れてしまいそうな危うい距離に、からかっていたわたしの余裕は、一気に無くなってしまった。
「……近い」
「ふふっ、そうだね。ドキッとした?」
「……してない」
ユカは笑いながら、空いている手でわたしの鼻を小突いて言う。完全にユカのペースだ。 わたしはユカから顔を逸すと、恥ずかしさを紛らわすように、結露した窓へと視線を移した。暖房の効いた部屋との温度差で濡れた窓は、なんだか今の自分のようでみっともない。
わたしはカーテンを閉めていない窓から外の景色を眺める。街は徐々に白銀の世界へと変わろうとしていた。きっと明日の朝には、この街の交通がストップして、何線が運休だの、怪我人が何人出ただの、そんなニュースであふれかえるんだと思う。
それからわたしは、テレビから流れる雑音をぼんやりと聞きながら、しんしんと降る雪をぼんやりと眺めていた。やがてふと自分の肩が重くなったなと思うと、抱きついていた年上の彼女は、静かな寝息をたてていた。
「まったく……どっちが年上なんだか」
わたしはユカを起こさないようそっと炬燵から出ると、テーブルで腕を枕に寝る格好にしてあげた。なんだか勉強途中で寝落ちしたみたいな姿になってしまったけれど、まぁ仕方がない。
ユカはわたしが動かしても、変わらずにすやすやと眠っていた。このままでは寒いかなと思い、わたしは手近な場所に置いてあった自分のダッフルコートをユカにかけてやる。これなら多少はマシになるだろう。
隣で肩を揺らすユカを見ていると、わたしは何だかほっとしてしまった。
わたしたちの関係は、親子でも姉妹でもなければ従姉妹でもない。恋人とも少し違うような、そんな感じがする。依存というか、互いに足りないものを埋めあっているからこそ、わたしたちの関係は成り立っているように思える。
わたしは眠りこけるユカの髪をそっと指で
「もう二年になるんだね……」
わたしは独り、ぽつんと呟く。
*
酷く飲みすぎて、何度もトイレで嘔吐したことまでは覚えている。それからはとてもぼんやりした記憶だ。
わたしはロクに話したこともないインカレの同期とホテルへ行き、大した感慨もないバージン卒業を迎えた。二月の終わり、とても寒い日だった。
やがてわたしは寝付いた男をほったらかして、シャワーも浴びずに深夜の歓楽街へと飛び出していた。
外気の冷たさに酔いが覚め、ひりひりと痛む下腹部を引きずるようにして、わたしは駅へ向かって歩いた。幼い容姿の自分が深夜にひとり歩きなど、いつ警官に補導されるだろうかと気が気でなかった。それに、初めては好きな男がよかったなとか、今となってはどうでも良いことばかりが、アルコールの抜け始めた頭の中を駆け巡って追い打ちをかけてくる。アスファルトを蹴る自分のスニーカーが、いつもより重いような気がした。
それでもわたしは歩き続け、やがて最寄りの駅に着いた。勿論、終電なんてものはとうにホームを発っていた。
回送や明日の始発の時間が電光掲示板に並び、構内にあるシャッターの閉まった店たちが、ここにはお前の居場所はないと語りかけてくるようにすら思えた。
途方に暮れたわたしは、とりあえず駅の階段を降りて、バスのターミナルへと向かった。しかし、タクシーを使おうにも生憎ターミナルにはその姿は一台もない。そうだ携帯で呼び出そうとバッグを漁るも、飲み会の前に充電を忘れていたせいか、何度電源のボタンを押してもディスプレイに明かりは灯らなかった。
もうやってられるかと、わたしはバスの待合所の椅子に乱暴に座った。
身体が背もたれに触れた瞬間、急に先程の体験がフラッシュバックしてきて、わたしは何も入っていない胃から何かを戻しそうになった。歩くのをやめたせいか、下腹部の痛みも余計に気になる。
どうして苦手な大人数の飲み会になんて参加したんだ。どうして好きでもない男に抱かれたんだ。どうして帰る電車もないのに、こんな馬鹿みたいに寒い外に飛び出したんだ。
そんな後悔が浮かんでは消えていく。
わたしは時折通り掛かる人の目なんて気にしないで、子供が転んだときのように泣いていた。痛いとか、悲しいとかじゃない。情けない自分に腹が立ったから泣いていた。
道行く人たちは、わたしを見るやいなや距離を空け、遠ざかるようにして去っていく。無理もない、わたしだって道端に大声で泣き叫ぶ女がいたら同じ態度を決め込むだろう。
わたしは嗚咽を漏らしながら溢れた涙を手で拭った。なんて惨めなのだろう。上京して二年、ただ漫然と過ごしてきた生活に何か刺激が欲しかった。自分を変えたかった。そんなちっぽけな理由。
もういっその事、と。
そう暗い感情が心に芽生えた時、わたしは眼の前に人が立っていることに気づいた。ずっと下を見ていたので、いままで全く気が付かなかった。
「あなた……泣いてるの?」
背の高い、スーツ姿の若い女だった。肩にかからないくらいの髪をマフラーで包み、温かそうなトレンチコートを着ている。目鼻立ちも整っていて、素直に美人だと思った。
赤く腫れた目を擦りながら、わたしは泣いてないと子供のような嘘を女性へと叩きつける。すると彼女は目を細めたまま、感情のわからない、くすんだような瞳でわたしを見つめていた。
「もう電車ないけど、帰れるの?」
「…………うん」
「私、タクシーで帰るけど乗っていけば?」
彼女は腰を少しかがめ、わたしと同じ目線で話しかけてくる。まるで子供のように扱われているようでひどく不快だったが、このままここに居続けるわけにもいかないのも事実だった。
「……わたし、お金ないんで。それに初対面の人にそんなこと頼めません」
わたしはやんわりと、一緒に行きたくないという意志を言葉に込める。この優しい女性の好意はありがたかったが、今は誰かに迷惑なんてかけたくないし、誰かと一緒にいるのも嫌だった。
すると彼女はキョトンとした後、その大きな瞳で少し思いつめた様子で言葉を紡いでいった。
「そんなこと、気にしなくてもいいのに。今日はウチに泊まればいいじゃない」
「……いや」
「だってあなた高校生くらいでしょ? もう二時も過ぎてるし、どうせ明日も休みなんだろうから。それに大丈夫。私、独り身だし、気を使わなくていいから」
戸惑うわたしを尻目に、彼女はそう言うと手に持っていたブランドものらしい肩がけの鞄を漁りだす。そしてベージュ色の使い古したタンブラーを取り出した。
「ほら、とりあえずこれでも飲んで身体温めたら? さっきお店で貰ったばかりだから、温かいと思うけど」
わたしは目の前に出されたそれを、寒さに震える手で受け取った。
「これは……?」
「ふふっ、飲んでみれば分かるって」
女性は表情を和らげると、少しだけ得意げに言った。わたしも何だか毒気が抜けるような思いで、タンブラーを開けて口を付けた。舌先に程よい温かさの中身が触れる。
「……美味しい」
「でしょ、わたしの好きなお店のマスターがいつも帰りに淹れてくれるの」
中身はカフェオレで、ほろ苦さの中にミルクの甘さが結構はっきりしていて、苦いコーヒーが苦手なわたしにも飲みやすかった。思わず三分の一くらい、わたしは気づかないうちにそれを飲んでしまっていた。
「あら、気に入ってもらえたみたいね」
「……うん」
わたしは中身が減って軽くなったタンブラーを片手に、モヤモヤと自分を支配していた黒い感情が少し楽になったのがわかった。
上京してからというもの、どうやらわたしは誰かに優しくされるということを忘れていたような気がする。
それだけに、不意に現れた彼女の親切心は、わたしの深いところに優しく語りかけてくるような感じがした。
「……ありがとうございます。あの……あなたの名前は……?」
わたしは思わず女性の名前を尋ねていた。彼女の顔をまじまじと見ると、くすんでいると思った瞳は綺麗なブラウンで、黙っていると吸い込まれそうなそれは、わたしを捉えて離さなかった。
わたしの尋ねに、彼女は嬉しそうに微笑むとその綺麗な瞳を揺らめかせて言った。
「私はユカ、佐々木ユカ」
これが彼女とわたしの出会いの日。最悪な出来事の後には小さな幸福があるって誰かが言っていたけれど、どうやらそれは本当らしい。
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