第5話 雨
換気扇に吸い込まれていく紫煙を眺めながら、私は一人物思いに耽っていた。葵がいなくなってちょうど一週間が経つ。
あの夜、葵に拒絶された私は、彼女を追いかけることをしなかった。諦めたというより、きっと追いかけても、より強い言葉で別れを伝えられると思ってしまったからだ。
「本日の天気は雨、関東地方は平野部を中心に……」
部屋に音がないのが寂しくて、とりあえず点けているテレビからは、今日の気象情報が流れていた。酷かった雪が止んだと思えば、今度は雨だ。
「あーあ……完全に病んでる」
暖房の効いた部屋で、Tシャツ一枚のだらしない格好で煙草を飲む私。思わず口にしてしまうくらい、最近の私は堕落していた。
葵が出ていってからというもの、酒の量も増えたし、足の踏み場も随分と減ってしまった。
親しかった友人……友人がいなくなっただけで、こんなに堪えるなんて思っても見なかった。
学生の頃だって、友人と仲違いをすることなんていくらでもあった。それっきりになってしまう事だって別に珍しくもない。
でもそんなことを考え続けているうちに、自分がいかに傷つかないかという、自分を守り、正当化することばかり意識するようになっていた。
「そんな気持ちが、あの子を傷つけた……」
私は自分が傷つきたくないから、必要以上に仲良くなって、そして捨てられるのが怖いから、だからあの子の気持ちに気づいていない振りをしていた。
全部自分のために。あの子の気持ちを分かったようなつもりで。
フィルター近くまで吸った煙草を灰皿に押し込んだ私は、細めた瞳で窓の外を眺めた。
とうぶん晴れそうにない厚い雲から降りしきる雨は、まるで金管楽器のように小気味よく、ベランダの鉢を鳴らしていた。
久しぶりに帰ってきた1Kの借家は、何だか自分の家じゃないみたいだった。
締め切っていた部屋は少し埃臭いし、夕方なのもあって、まるで冷蔵庫のように冷え切っていた。
ユカと喧嘩別れをしてから三日、家にも帰らずにネカフェで寝泊まりをして、昼間は借家から近い繁華街をブラブラと歩いていた。
ナンパでもされたら付いていこうかな。
そんな軽い気持ちでいたけれど、わたしに声をかけてくれるのはケバブ売りのトルコ人と飲み屋の客引きくらいだった。
わたしは靴を脱ぐと、浴室に行き、着ていたダッフルコート投げ捨てる。
生まれたままの姿になると、痩せたひどい姿の女が鏡の向こうに立っていた。
「うわ、クマが凄いし……なんか臭う」
思えばユカの家を出てから、服を着替えていない。
ショーツだけは気持ち悪くて交換したけれど、それ以外は何も変わっていなかった。
「シャワーだけじゃだめだな。ううっ……寒いっ」
震える身体を両手で抱き、わたしはシャワーのバルブを回した。一瞬、凍るような冷水が頭に降り注いだので小さく身体を震わせたが、徐々に身体が熱を取り戻してきた。
目覚めそうになったのは、ほんの一瞬だけだった。
シャワーを浴び、なにを着ようかと迷っていると、コートに突っ込んでいた携帯が小刻みに震えていた。
誰だろうかと思い、ここにいない女性のことを考えたが、すぐに頭の中から消し去った。
もう彼女はいないのだ。いつまでもくよくよするんじゃない。
わたしは携帯を手に取る、すると着信相手は大学の友人からだった。
「もしもし」
「あっ、柊? いま大丈夫?」
プラスチックのクローゼットから新しいショーツを取り出しながら、わたしは電話の相手に受け答えをする。
彼は結城くん。物静かで小柄な、同じ学部の男の子だった。
「……大丈夫」
「そっかよかった……あのさ……」
「結城くん」
彼が言いかけたところで、私は言葉を遮った。
なぜだろう。咄嗟に口から言葉が飛び出してしまった。
「……うちに来てほしいんだ」
「えっ?」
困惑する結城くん。
二人の間にしばしの沈黙が流れ、そして唾を呑むような音の後に結城くんは口を開いた。
「……いいけど」
「ありがと。そしたら片付けしてるから……1時間くらいしたら来て」
「それは良いけど、夜なのに大丈夫?」
「大丈夫、良かったら泊まっていって」
「えっ……」
「もう、映画が見たいだけ。変な勘違いしないで」
「そうだよね……わかった」
気まぐれ。
そう表現するのが一番的確だと思う。
貧困のドキュメンタリーを見た後に募金とかしたくなるような、そんな何かに流されたような感覚だった。
呼ぶ相手を女友達にしなかったのは、同性よりも異性のほうが、どうでも良い話には向いているから。そう自分を納得させた。
やがてインターホンが鳴り、備え付けの小型の液晶に、彼の子供っぽい顔が映った。
「……こんばんは」
結城くんは男の子なのにどこか中性的で、男性に苦手意識のあるわたしでも、普通に付き合うことができる数少ない人物だった。
「こんばんは結城くん、いま開けるからそのまま上がってきて」
わたしは入り口のロックを解除して、玄関の灯りを点けた。
あまり高くない階に住んでいるのもあって、結城くんはすぐに部屋にたどり着いてくれた。
「こんばんは……」
「ふふっ、さっき言ったじゃない。こういう時は、おじゃましますとかじゃないの?」
きっと女の子の部屋に上がるなんて滅多にないのだろう。緊張しているのがよくわかった。
少しだけ、彼が可愛いなと思ってしまうわたしがいた。
「それもそうだね……おじゃまします」
「はい、どうぞ。鼻が真っ赤だよ」
「寒かったから……トナカイみたいかな?」
「そういえばもうすぐサンタの季節だね。まぁ取り敢えず上がってよ」
「……うん」
会話のテンポが面白い結城くん。身の上話はあまり聞いたことが無いけれど、きっと幸せな家で、優しい両親に育てられたのだろうなと、以前から勝手に想像している。
靴を脱いだ結城くんとわたしは、寒さから逃げるようにリビングへ向かった。
「そういえば柊は晩ごはん食べたの?」
「いや、まだだけど」
そういえば夕飯のことをすっかり忘れていた。朝、ネカフェを出てから何も食べていない。
「そうだと思って……はいっ」
「えっ」
結城くんは持っていたトートバッグの中には、コンビニで買ったおにぎりやら、惣菜、スナック菓子が沢山入っていた。
「こんなにいっぱい……」
「泊まっても良いって言ってたから、つい買い込んじゃった……確かお菓子とか好きだったよね?」
「うん、好きだけど……」
「なら良かった!」
結城くんは顔を綻ばせると、鮭と唐揚げのおにぎりを渡してくれた。
「……唐揚げをくれるサンタなんて初めて見たよ」
「えっ、柊は唐揚げ嫌いだった? からあげ君も買ってきちゃったけど……」
見れば爪楊枝の刺さった唐揚げもテーブルに置かれていた。やれやれとわたしも思わず苦笑してしまった。
毒気を抜かれた。そんな気持ち。
「別に嫌いじゃないよ、むしろ結城くんのそういうところは好き」
「そう? ありがとう」
「深い意味じゃないから、ほらせっかくだし、映画でも見ながら食べよ。わたし映画いっぱい持ってるから」
「そ、そうだね! それじゃ何見ようか?」
わたしと結城くんは立ち上がり、壁際にあるDVDが収められてある棚を眺めた。
「結城くんはどういうのが見たい? アクションとかホラーとか?」
「いや、そういうのはあまり……どちらかというと泣けたり感動する映画のほうが好きかな」
「うわ、何か女子みたい」
「……女の子にそういう事言われると、何だか傷つくよ」
「まぁ良いけど……それじゃこれとかどうかな」
わたしは一本の映画を手に取り、彼の意見も聞かずに、プレーヤーに入れて再生ボタンを押してしまった。
本当はバカになれるような映画が見たかったけれど、彼のリクエストに応えることにした。
「何の映画にしたの?」
「それは秘密、ほら食べ物持ってこっちに来て。飲みかけで悪いけど、コーラならあるから」
「……うん」
わたしは小さな炬燵に足を突っ込むと彼を手招きした。
結城くんは緊張した様子で布団の中へと足を入れ、指先が少し触れただけで、ごめんとわたしに謝ってくる。
「いいよ、そんなに緊張しないでよ。わたしまで変な気分になっちゃうから」
わたしは目を細め、彼に向かって微笑む。
「ご、ごめんね……女の子の部屋ってあまり慣れてないから……」
「……知ってるよ」
「えっ?」
「……そうだ。映画見るときはいつもこうしてるから」
わたしはそう言うと、リモコンで部屋の灯りを常夜灯へ変える。
この映画館のような雰囲気をわたしは気に入っていたけれど、どうやら結城くんも同じだったようだ。
「凄いね、映画館みたい」
そう言われると、悪い気はしない。
初心な反応に、かえってわたしは恥ずかしい気持ちになってしまった。
「ほら、映画をちゃんと見て……」
「ごめんごめん……」
やがてわたしたちは思い思いに会話を楽しみながら映画を鑑賞した。
選んだ映画は感動系のラブロマンスだったが、結城くんも楽しんでいる様子で、時折笑い、ラストには涙していた。
「……ねぇ、結城くん」
エンドロールが流れていく。わたしは彼の手に自分の手を重ね、そして彼の耳元で囁いた。
彼は一瞬驚いた顔をしたけれど、言葉を交わさずに、わたしの手を強く握ってくれた。
わたしの愛しい人よ
長い孤独の中で
あなたのぬくもり求めてしまう
時は緩やかに過ぎていき
多くの事を為すだろう
あなたはまだ
わたしを好きでいてくれますか
話がしたいなんて、口ではそう言ったけれど、そんなのは真っ赤な嘘だ。
どうしようもなく、このポカンと空いた空白を埋める何かが欲しかった。たとえそれが、幻のように消えてしまう儚い想いであったとしても。
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