第2話 馴れ合い


 起きる気配のないユカを置いて、わたしはシャワーを浴びることにした。熱めの湯船に浸かりたかったけれど、一人で入るのに、浴槽をいっぱいにするのは何だか勿体ない気がして出来なかった。意外とわたしは倹約家なのかもしれない。

 洗面台の前に立ったわたしは、着ていたスウェットを脱いで、脇に置いてある洗濯カゴへと放り投げた。

 裸になると、脱衣所の刺すような寒さが身に沁みる。どのみち入るのだから、浴室の暖房をつけておけば良かったと後悔した。


 はぁ、だるい。


 独り言をつぶやきながら、洗面台の鏡に映った自分を眺めてみる。寝不足のせいで目つきの悪い顔。おまけに肋の浮いた身体は酷く不健康そうに見えるし、片手に収まる小さな胸は子供のようで、誰かに見せられるようなものではない。

 わたしは無駄と知りつつ、鏡の前で自分の胸を寄せて上げてみる。何とか頑張ってそれらしい形にしてみたが、以前に見たユカの身体が思い浮かんで情けなくなってやめる。何を食べたら胸が大きくなるんだろう。

 考えてみたが無駄な気がして、わたしは蛇口を捻って出てきた水を、これでもかという勢いで顔にぶちまけた。



 シャワーを浴び終えたわたしは、タンクトップと下着を着てリビングへと戻った。下着以外は基本ユカからの貰い物と言えば聞こえは良いけれど、実際は彼女の着なくなった服を使っているだけだ。しかも、わたしが着ると服の裾がショーツをすっぽりと隠してしまい、なんだか特定の性癖を持った男を狙ったファッションのようだ。

 ユカはそんなわたしの姿を可愛いよと言っているけれど、それはきっと着せ替え人形で遊ぶ子供のような気持ちだと思う。

 わたしは、肩からずり落ちそうなタンクトップを引っ張りながらため息を吐く。リビングの引き出しからラルフローレンのタオルを取り出して、ショートボブの髪を掻き上げると、ユカの匂いがして安心した。

 人はよく、好きな人間を匂いで選んでいるだなんて聞いたことがあるけれど、それはあながち間違っていないのかもしれない。

 わたしはタオルを首にかけると、キッチンへと向かった。ユカの家には一人暮らしでは持て余しそうなサイズの冷蔵庫があって、酒が好きな彼女はアルコールならなんでもと言わんばかりに満載している。わたしはそこまで酒に詳しくないので、彼女がよくスコッチだのアイラだの言うと、てっきり映画か何かの登場人物だと思っていたが、どうやら違うらしい。

 冷蔵庫の前まで来ると、仕事のメモだろうか、ユカが貼り付けたらしいポストイットが何枚もあった。ユカが病院で働いているということは知っているけれど、実はそこでどんな仕事をしているかについてはわたしは知らない。医者にしては結構休みがある気がするし、看護師、はたまた薬剤師だったりして。

 大学生のわたしが思い浮かぶ仕事なんて、そんなありきたりな物しかない。教えてくれれば良いのになとは思うけれど、ユカはあまり仕事のことを話したがらないのでわたしも聞くに聞けなかった。家事は全く出来ないし、ダラダラ甘えてくるただの酔っ払いは、一体どんな顔で仕事をしているのだろう。以前に包丁の練習だと言って野菜を切ってもらったことがあったけれど、その時なんてトマトがスプラッター映画の死体みたいにグチャグチャになってしまった。

 最近は炒めものくらいは作れるようになってきたけれど、きっとそこいらの女子高生のほうが上手に作れるんじゃないかとわたしは思う。

 そんな事もあったなと苦笑しながら、わたしは冷蔵庫から一本の酒瓶を取り出す。黒のラベルにはバラの模様があしらわれていて、無骨なイメージのあるウイスキーにしてはオシャレな見た目をしている一品だ。


「少しだけいただきますっと」


 わたしはまるで悪さをする子供のように、寝ているユカが起きていないのを確認しつつ、こっそりとそれを飲むことにした。四枚のバラが刷られたその酒は、名前の由来もバラにまつわる話なのだと以前ユカが言っていた気がする。生憎、そういう薀蓄に興味のないわたしは、話を聞き流していたのでよく覚えていないけれど、彼女が気に入っている酒という事は覚えていた。

 食器入れから小ぶりのグラスを選ぶと、冷凍庫にある角氷を半分ほど入れ、そしてアルミのキャップを開いてゆっくりと茶色い液体をグラスに注ぎ込んだ。半分くらい入れたところでグラスを軽く回し、酒を氷に馴染ませる。


「ちょっとユカっぽいな」


 ユカは酒を飲む時、今のわたしのようにグラスを回していた。カラカラと氷の回る音が心地よくて、そんな仕草をするユカが好きだった。

 ある程度回したところで、わたしはそれを一口煽る。瞬時にアルコールが喉を焼き、その直後、ほんのりと甘い風味が口の中に残るのがわかった。決して酒に強くないわたしに、香りを楽しむ余裕なんか殆どなくて、すぐにアルコールが全身を駆け巡っていくような感覚に襲われる。


「美味しいけど……これはやばいかも」


 ユカの真似なんかして何をやっているんだろう思いつつ、くらっと来るようなアルコールの暴力は決して不快ではない。柔らかい何かが、身体の内側から突き上げてくるような、そんな感覚だった。

 わたしは身体が火照るのを感じ、小窓を開けて外の空気を入れることにした。思えば風呂上がりで汗もかいていたし、アルコールの入ったわたしの身体には暖房の効いた部屋は暑いくらいだった。窓からは冷たく刺すような外気が部屋に入ってくるが、今のわたしには心地よかった。

 まだ半分ほど残ったグラスをシンクの脇に置いて、わたしはキッチンの引き出しから自分の煙草を取り出した。口に咥えると、ガスコンロのつまみを回して、前髪を焦がさないようにそっと顔を近づける。ジュッという音がして、キッチンから漏れた紫煙が、小窓へと吸い込まれていった。


「うまい」


 つい心の声が口から溢れてしまう。酒を飲んだ後の煙草はどうしてこんなに美味いのだろうか。風呂上がりっていうのもあるのだろうけれど、きっと酒のせいで頭がきちんと働いていないからだ。

 わたしは少し多めに煙を吸うと、星の見えない空に向かって紫煙を吐き出した。

 上っていく煙とは反対に、降りしきる雪は徐々に勢いを増している。残念ながら先程の予報は現実になりそうだ。伸びた灰をシンクの近くにある灰皿に落とすと、ちょうど目に入った時計の針は二十三時を過ぎていた。窓の外、マンションの階下では、今だに会社帰りのサラリーマンや彼らを送ってきたタクシーの姿がある。こんなに寒いのに遅くまでご苦労なことで。

 ユカも遅い日はてっぺんを過ぎてから帰ってきたりするけれど、大概は飲み会だ。もしかしたらわたしの知らない誰かと会っているのかもしれないけれど、それをとやかく言うのは野暮ってものかもしれない。別に恋人じゃないんだし。

 わたしは独り言をつぶやきながら、グラスの残りを少しだけ煽ると、東京を象徴する真っ赤なタワーが遠方に見えるのがわかった。以前見た映画のワンシーンが頭の中に浮かぶ。群像劇で、表と裏の顔を使い分けるデリヘル嬢の女性に凄く同情した映画だった。  


「……さて」


 わたしは咥えていた煙草の火がもうフィルター近くまで来ていることに気づくと、煙草を灰皿に突っ込んでリビングへ戻ろうと顔を上げた。


「こら」

「うわっ?!」


 唐突に現れたユカに驚いて、わたしは思わず倒れそうになってしまう。


「ほら、危ない」

「……ありがと」


 倒れそうになったわたしの手を、ユカは咄嗟に掴んでくれた。アルコールでピリピリする手が、ユカの冷たい肌に触れて余計に熱くなっているように感じられた。


「また煙草吸って、それにそのバーボン私のでしょ」

「いいじゃん、ちょっとくらい」

「まぁいいけど……私にも一本ちょうだい」


 そう言うと、ユカはわたしの持っていた煙草を箱ごと受け取り、わたしと同じ要領でコンロを使って火をつけた。その様子は仕事で疲れでも溜まっているのか、なんだか機嫌が悪い気がする。


「煙草、控えるってこの前言ってたのに」

「……葵が吸ってるからいけないの。そう思うなら少しは協力して」


 いつしか呼び方が外行きになっている。小言を言ったからかな。多分、怒ってはいないんだろうけれど。

 ユカはわたしの隣まで来て小窓を開けると、空へと紫煙を吐き出していた。こういう時のユカは少し怖い。帰ってきて甘えていた時とは違う、少し根っこのほうのユカ。


「ごめん、わたし先に寝るね」

「どうして?」

「…………」


 黙りこくるわたし。少し上目遣いにユカの様子を覗いてみると、ユカは無関心という言葉がぴったりな冷たい目でわたしを見ていた。


「……」


 すぐに目を逸したわたしを見て、ユカは小さくため息を吐くと、一言、ごめんと呟いた。ずるいな、こういうやりかたは。


「あたるつもりはなかったの」

「うん」


 ユカはソフトパッケージを振って、わたしの前に茶色いフィルターを差し出した。わたしは頷いて、無言で顔を近づけてそれを咥えると、彼女の方へと顔を近づけた。ユカも意図を察したのか、無言で顔を近づけてくる。酔いが回ってきたわたしは、普段じゃ考えられないくらい胸が高鳴っていた。


「これで仲直り」


 煙草の先端が触れ合うと、ジュッという音と共にわたしの先端に火が移る。ユカは煙草を咥えたまま、わたしの顔をじっくりと覗き込んでいた。


「つけたよ?」

「うん」


 ユカの薄茶色の瞳は、不思議そうにわたしを捉えたままで、わたしの意図を探っているようだった。そんな彼女の瞳を見続けることはわたしには無理で、火照った頬を隠したくて、つい顔を背けてしまった。

 ユカのほうも少し照れ臭かったのか、ちょっと待っててと言って、わたしの飲みかけのグラスを手に取ると、冷蔵庫の奥から茶色い角ばった小さなボトルを取り出して来た。ユカは慣れた手付きでそのリキュールをわたしのグラスに注ぐと、手近にあったスプーンで軽くステアする。わたしはただじっと、彼女の様子を眺めていた。


「これ飲んでみて」


 ユカはそう言うと、頬を緩めてわたしに笑いかける。先程の冷たい雰囲気はどこへ行ってしまったのだろうか。

 わたしは頷きながら、そっとグラスに口をつける。すると杏仁豆腐のような、甘い香りが口の中を包んだ。


「凄く甘い……全然違う」

「でしょ、アマレットっていうイタリアのお酒を混ぜて作ったの。お酒同士のカクテルだから、多分後でどっと来ると思うけど、ロックよりはマシでしょ?」


 ユカは得意げに胸を張った。確かに飲み口は甘くて飲みやすいけれど、後から本当にバーボンの重さが口の中に広がってくるのがわかった。グラスを煽るわたしを、嬉しそうに眺める彼女。でも、その姿にはどこか影が落ちているような気がした。わたしが酔っているからだろうか。

 

 他愛もない話をしていたと思う。いつしか残り少なかった煙草もなくなっていて、ユカが口の前で指をちょんちょんと動かしているのが目に入った。

 先に吸い終わったユカは、自分のグラスに酒を注ぎ始めていた。わたしは煙草を灰皿に突っ込むと、ふらつく足でユカにすがりつく。


「あれ、あおちゃんもうダウンだ」

「うっさい……お酒ちょうだい」

「よしよし、お姉さんとお布団行きましょうね」

「……子供扱いしないで」


 ユカはわたしの頭をよしよしと撫で、仕事で着ていたワイシャツの胸元で抱いてくれた。鼻が彼女の下着と擦れて痛かったけれど、ユカの汗と柔軟剤の混じった匂いは凄く良い匂いだった。


「あんまり押し付けないで……ホックがバカになっちゃうよ」

「いい……馬鹿になりたい」

「だめだこりゃ。ほら、こっち行くよ」


 駄々をこねるわたしに苦笑しながら、ユカは寝室へと連れて行ってくれる。肩を貸してくれる彼女は、友人というよりも恋人のようであった。

 ゼミダブルのベッドに寝かされたわたしは、思わず切なげな瞳でユカを眺めてしまう。もうろくに思考が回らない。


「そんな寂しそうな顔をしないでよ……私お風呂入ってくるから。寝ててもいいよ」


 意地悪そうに彼女は言う。わたしが何をして欲しいのか知っているくせに。ユカのそういうところは嫌いだ。


「……いい、起きてる」

「ふふっ、じゃあ待っててね」


 ユカはじゃあと軽く手を振ると、先程までわたしが入っていた浴室へと消えていった。わたしは不機嫌な気持ちで枕に顔を埋める。


「……死ね」


 ユカのいなくなった部屋で、わたしは独り悪態をつく。足をバタバタさせて子供のように振る舞っても、彼女は帰ってこない。浴室からはシャワーの音と、ユカが身体を動かす音が漏れて来る。わたしは耐えられなくなって耳を塞いだ。

 いつしか階下から聴こえていた喧騒は消えていて、都心の街は静寂に満ちていた。

 しんしんと積もる雪がその厚さを増していく中で、声にならない叫びを枕にぶつけるわたし。アルコールのせいなのか、それとも熱っぽいわたしの気持ちがいけないのか。何かの拍子に、わたしの気持ちが決壊してしまいそうで怖い。ユカを追いかけて風呂場で襲ってしまおうかと思ったけれど、弱虫のわたしは結局何も出来なかった。彼女の匂いに包まれたベッドに顔を埋め、眠りへと落ちる以外は。

 



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