最終話 散りてぞ後に、匂う梅が香
「何故、人は、渇きを恐れ、避けようとしながら、自らを渇かせてゆくのでしょう」
咲耶が、一歩、祭の方へ近付いた。
「有るものを喜ばず、無いものばかりを求め、持つ者を妬み、生きることから逃げ出そうとし、それでもなお生きねばならぬことに絶望し」
祭が、後ずさる。一歩後ろに引くと、軒下の古びた長椅子である。祭の見たことのない、古い飲料のラベルがあしらわれて、擦り切れている。それに、引っ張られるように腰かけた。
「欲しいものを欲しがるために、持つものを捨て」
咲耶の濡れたままの髪。
花の匂い。
そして、それがまた揺れる。
「捨てたものと似たものを自ら作り──」
祭の眼に、涙が溜まってゆく。
「──これではない、とまた自ら壊し」
「やめて、咲耶さん」
「いいえ、やめるのは、あなた達の方」
また、一歩。草履の音が、濡れている。
「お願い、祭さん。もう、やめて」
「わたしは、どうすればいいの」
「どうすればよい? ──それは、自分で、考えて。自分で、決めて」
祭の眼の前にいるものは、もはや、清らかな巫女でも何でもなかった。
あえて言うなら、何かが濡れて、かたちを成したもの。
「わたしは、濡れてしまう。あなた達が渇けば渇くほど、わたしは、それを癒さなければならない。だから、わたしは、いつも、濡れたまま」
陽の光が、戻ってきた。
蝉の声も。咲耶はそれを少し聴き、その響きに合わせるようにしてまた口を開いた。
「だから、わたしは、渇いている。濡れたまま、渇いている」
びしょ濡れのままの巫女装束から、うっすらと美しい肌色が透けている。さらにその上に、黒髪が張り付いている。
「ねえ、祭さん。おねがい。わたしを、助けて。渇かないで」
祭は、咲耶を、そのいのちを、じっと見た。そして、ゆっくりと立ち上がり、彼女の立つ陽の光の中に踏み込んだ。
「咲耶さん」
何故か、咲耶は、ほんの一瞬、畏れたような眼をした。
「でもね、咲耶さん」
祭の言葉は、とても強い響きであった。
「それでも、あなたは、生きている。ここで、今、生きている。そのことに、意味がいる?」
「わたしは、あなた方とは違います。意味があって、作られたもの」
「そう。わたし達は、ただ意味もなく、生きているのね」
「それは、その人によるでしょう」
「そうね」
祭は、少し笑った。
そして、さらに、祭の方から咲耶に近付いた。
二人の距離は、僅かなもの。
それでも、その隔たりは、とても大きなもの。
それを、身体を寄せることで詰めた。
勇気をもって。
祭の鼻の中に、咲耶の花の香りが充満し、咲耶の鼻の中に、祭のシャンプーとワックスの香りが充満した。
「咲耶さん」
咲耶は、ん、と言葉にならない反応を祭の耳元で示した。
「わたしは、渇いてなんかいないわ。自分のことは、ちゃんと自分でするもの。ううん、お母さんと二人で、きちんとしてる。お父さんは、いないの。だから、お母さんと、わたし。すぐ怒るお母さんだけど、大好き」
祭は、何かに憑かれたように、話し続ける。
「就活とか、皆、いろいろ大変。あなたが言うように言えば、渇いてる。だけどね、許してあげて。皆、少し、疲れてるだけなの。甘えてるだけなの」
雨は止んだはずなのに、祭の安いシャツの肩口が濡れてゆく。その滴からも、やはり、花の香りがする。
「だから、許してあげて」
咲耶は、あっと声を上げた。濡れて、透けた白い巫女装束から、祭は、あの錦の小袋を抜き取っていた。
「駄目、祭さん。駄目」
祭は答えず、ただ笑った。
「駄目よ、お願い」
「わたしは、渇いてなんかいない」
祭の言葉が、なお強くなる。
「馬鹿にしないで」
砂利が一つ、また濡れた音を立てた。
「生きてやる。あなたが、わたしが渇かぬよう。明日の自分が、今日よりも素敵だって、証明してやる」
「お願い、祭さん。それを、返して」
「いいえ、駄目。だって──」
祭の笑顔が、悲しいものになった。
「──これは、あなたが望んだことでしょう?」
砂利が、いくつか鳴る。
祭は、石段のところへ。
降りかけて、振り向いた。
振り向いて、言った。
「──あなたの渇きを、癒しましょう」
咲耶。涙を、止めようともしない。
その場に、座り込んだ。
彼女は、従うしかない。
そういう風に作られているのだから。
だから、こう言った。
「──よい、お詣りでした」
二人の願いは、今ここでひとつになり、結ばれた。
陽が高くなっても泣き崩れたままの咲耶に、咲耶がおじいさん、と呼ぶ老人が声をかけてきた。
「あの娘に、裁きの小袋を、渡したのだね」
「おじいさん、どうして、わたしたちは、思うように生きられぬのでしょう」
「それが、生きるということだからだろう。儂にも、今もって分からんがね」
「どうして、こんなに悲しいのに、生きなければならぬのでしょう」
「それが、生きるということだからだろう」
「それでも、有ることを喜び、無いことを嘆いてはならぬ、と?」
「いいや、咲耶」
おじいさんの眼線が、やわらかなものになった。
「嘆いてよいのだ。求めてよいのだ。無様に、身勝手に、見苦しく、足掻いてよいのだ」
「それが、生きるということだから?」
「いや、そうしなければ、生きることができぬからだ」
「わたしたちは、そのために作られたと?」
「分からぬ。それは、儂らで、この先、決めればよい。彼らが選び、決めるように、儂らも、そうしようではないか」
咲耶は、それきり、何も言わなくなった。
祭がどうなったのかは、知らぬ。
彼女自身が決め、選んだことに、彼女は従ったのだ。それを追うことに、意味などあるまい。
「──散りてぞ後に、匂う梅が香」
厳しい冬の雪を越え、花は咲く。
その香りは、花が散っても、そこに留まる。
咲耶がいつも纏っているのは、そういう類いの香りであったのかもしれない。
世の倣いによって、藤代神社のことは、皆すぐに忘れ、また別のことに夢中になっている。
時代から取り残されたようになっている商店街の上、小高い丘にあるその渇きの社からは、今日も箒の音がしていることであろう。
完
渇きの社 増黒 豊 @tag510
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