名を与え、使い、奪う

「こんな早い時間から」

 咲耶は、いつものように美しい微笑みを強い陽射しの中に瞬かせた。それを見た祭は、黒髪には輪が浮かび上がって、神社なのに天使みたいだと思った。


「どうしても、来たかったんです」

「それはまあ──」

 と咲耶が見せる、とても純粋な、小さな驚きの顔を見た。そしてそれを、やはり美しいと思った。

「なにか、お願い事でも?」

 どういうわけか、ふと、咲耶の顔に悲しみの影がよぎった。

「ううん、学校が夏休みなので、暇をもて余してるんです」

 祭の顔には、夏休み、というところで何故か勝ち気な微笑みが浮かんだ。学生の身からすれば当然なのかもしれぬが、咲耶には分からない。


「そうですか、では、ごゆっくり」

 そう言って、咲耶は箒を持ち、石段を降りていった。おそらく、石段下の通りを掃き清めるつもりなのだろう。

 祭は、違和感を覚えた。いつもと、何かが違う。咲耶の綺麗な笑顔はいつも通りだったが、どこか、よそよそしいように思えたのだ。その咲耶を後ろにし、本殿へ向かい、参詣を済ませた。別に、何かお願いをしたわけではない。神様に対する社交辞令のようなものだ。


 一通りのことを終えると、咲耶のことがやはり気になり、石段のところまで行って下を見下ろした。

 咲耶が、箒を握ったまま、微動だにせず、見上げている。


 何故か、ぞっとした。

 見てはならないものを、見たような。

 その咲耶が、石段を上ってくる。

 ひとつ。

 ひとつ。

 草履の音はない。

 滑るように、祭の方へ向かって。

 ひとつ。

 ひとつ。

 上がってくる。

 祭りは、思わず後ろに退がった。

 かかとに、丸い砂利の感触。それが、祭の足を取った。

 夏の空が、前に来た。

 そのまま鈍い衝撃を感じ、くらくなった。



 声。

 蝉の声。

 いや、違う。これは、人の声。

 何かを、さかんに訴えかけている。

 聴き取ろうとするが、声が多すぎて聴き取れない。

 それでも、何かを訴えかけていることだけは分かる。

 祭は、意識を、声の一つに向けてみた。

 そうすると、蝉の声のように辺りに散らばって降るそれが、男性の声になった。

「何で、俺だけこんな目に。俺のことなんて、誰も評価しやしないんだ」


 また、別の声。こんどは、若い女性。

「あたしだけを見てよ。こんなに、好きなのに」

 それに、また別の声が重なる。

「ああ、どっかに一兆円落ちてねぇかな」

「次のレース、一発当てられますように」

 次々に重なってゆくそれらは、どれも、一つを取ってみれば、なんでもない声だった。しかし、それらはどんどん降り積もってゆき、祭の身体を埋めてゆく。


「やめて。息が、できない」

 そう言っても、声は止まない。

 別々に分かれ、祭に囁きかけていた声は、また一つになり、蝉の音に似たものに変わった。別のものに例えるなら、電車の駅を包む音のようでもあった。とにかく、あらゆる音が混ざり、騒音ですらなくなった一つの塊。それが、祭を覆い隠そうとしている。


 一匹の蝉が、何もない空間を飛んでゆく。

 その先には、木があった。蝉は、迷うことなく、その木に止まった。

 木の側には、井戸。どこかで見たような井戸だが、どこで見たのかは思い出せない。

 木に止まった蝉は、羽を震わせ、鳴き始める。

 けたたましく。

 そこへ、なにか影のような、もやのような、あるいは水滴のようなものが流れてきた。

 それは、なんとなく人の形をしているように思った。

 蝉が鳴くのをそれは眺め、を伸ばした。

 蝉は、鳴き疲れたのか、鳴くのをやめ、地面に落ちて死んだ。

 その死骸を、それは手に取った。

「鳴かねばよいものを、鳴かずにはいられませんか」

 哀れみの視線を蝉に投げかけるは、咲耶だった。



「──さん?祭さん?」

 眩しさと声で目を覚ますと、目の前に咲耶の顔があった。陽光を背負い、顔は影になっていて表情は分かりづらい。

 祭は、声を上げて跳ね起きた。

「あたし──?」

「驚きました。石段につまづいて転んで、頭を打ったんです」

「そういえば」

 後頭部が痛い。大したことはないのだろうが、病院にかかった方がいいかもしれない。


「痛みますか」

 売店の前の、古びたベンチ。そこに腰掛けた咲耶の膝で寝かされていたらしい。それほど長い時間ではなく、ごく僅かな時間だったようだ。

 ふわりと、花のようないい香りが漂ってきた。

「咲耶さん」

 それを感じた祭の口が、開く。それに合わせるように、咲耶の眼も、わずかに開く。

「夢──」

 言いかけて、やめた。


「祭さんは、渇いてはいません」

 祭が何も言わずとも、咲耶はいきなりそう言い出した。

「だけど、渇きかけている」

「渇きかけている?」

「ここには、水の神様が祀られています」

「ええ、おじいさんから聞きました」

「雨が降らぬとき、人は祈り、それを乞います」

 鈍く、後頭部が痛んだ。祭が後頭部に手をやる前に、咲耶が、だいじょうぶですか、と声をかけた。

「水が溢れれば、人は祈り、それを治めようとします」

 また、花の匂い。そして、水の匂い。


 視線の先にある古い木の脇に、朽ちかけた井戸。どこかで見たことがあると祭は思った。

 木に向かって、蝉が飛んでゆく。

 止まって、鳴きだした。

「人は、自らの力ではどうにもならぬ願いを叶えるのため、神を産んだ」

 人が、神を産む。その意味が、祭には分からなかった。

「名を与え、棲家を与え、たいせつにした」

 そして、崇めた。

「しかし、今は、どうでしょうか」

 咲耶は、祭に問う。

「本来、己のことは、己の力ですべきもの。そう思いませんか、祭さん?」

 風。咲耶の髪を、揺らしている。

「そう、思います」

 と答えざるを得ない。


 暫くの沈黙のあと、咲耶の声が、たん、たん、と鼓動を刻みながら、放たれてゆく。

「己の力が足りぬことを、人のせいにして」

「己の欲を、他者の力で叶えようとして」

「自らが正しいことをすると思い上がり、神様の静かな家を荒らし」

 何かを、誰かを思い出すような顔をしながら、咲耶はなお継ぐ。

「無いものを求め、己を使い古し、そして、わたしたちから名を、家を奪う」

「ならば、わたしたちは、何故産まれたのでしょう」

「なんのために、名を与えられたのでしょう」

「かつて、とても素晴らしい狐の神様がいました。それは、団地を建てるというのを理由に、人に与えられた家と名を失いました」

「それでも、その狐は、生きています」

 ぽつりと、滴が砂利に落ちた。

 それは一瞬、砂利の一粒を黒くし、すぐに乾いた。


「咲耶さん、泣いてるの?」

 祭は、驚いて咲耶の顔を覗き込んだ。その美しい顔は悲しみに歪み、白と黒のコントラストのはっきりした眼からは、涙が流れていた。


「生まれたからには」

 涙を拭おうともせず、咲耶は言う。

「生まれたからには、生きなければ。どんな形であっても」

「咲耶さん──」

 祭は、頭を打つ直前のことを、思い出した。

 何故、自分が足を滑らせたのか。後ろに、退がったからだ。


 それは、畏れ。

 咲耶のことを畏れているのだと、はっきりと思った。

「神様は、人の願いを叶えるため、産み出されたもの」

 咲耶は、立ち上がった。

 砂利を鳴らしながら、木の方へ。

 そこで鳴く蝉を一匹、捕まえた。


「他人の力を得ようとするならば、人は、力を貸してくれる人のために、何かをしようとする」

 咲耶の手から逃れようと、蝉はけたたましく鳴く。

「助けてくれる人を、助ける。求めてくれる人を、求める。そうやって、人は生きてゆくもの」

 羽を激しく震わせながら鳴く蝉を、咲耶は解放してやった。

 ちりちりと命を燃やす音を立てながら、それはどこかに飛び去っていった。


「だけど、人は、奪うばかり」

「自分以外の人から、何かを。ときには、自分からですら、人は奪う」

「たいせつなものを使い、すり減らし、ちっぽけな欲を満たして」

「欲を満たせば満たすほど、人は渇いてゆく」

「渇くから、また求める」

「何も支払うことなく、全てを手に入れようとする」

「そして、そのときに、都合のいい存在として消費されるのが、神様」

 祭は、額から汗が流れ落ちるのを、決して暑さのせいではないと思った。


 今、自分は、踏み入れてはならぬ世界にいる。

 そう確信していた。

「だから、言ったでしょう?」

「──なにを?」

 やっと、口を開くことができた。


「神様だって、選んでいるんです」

 そう言って、咲耶はにっこりと笑う。

「ここに来る人の願いを全て叶えていたら、神様だって過労死してしまいます」

 もう、涙は流していないらしい。

 しかし、また砂利が黒く濡れた。

 それはその一粒に留まらず、次々と。

 雨である。

 もしかしたら、咲耶の代わりに、空が泣いているのかもしれない。


 その涙が、咲耶の巫女装束を塗らしてゆく。

「だから、選んでいるんですか?」

「そう──」

 咲耶は、また売店の軒下のベンチに戻ってきて、ずぶ濡れのまま、祭の隣に座った。

「彼らがするのは、決まって、己の力でしか叶えられぬ願い。自らを高め、昨日の自分より今日の自分がより良いものであるように過ごし、明日の自分が今日の自分よりも、より良いものであれと願い、眠ることでしか、叶えられぬもの」

 困ったような、悲しむような顔で、祭を見た。

「それをせず、神様に祈るのみで、どうするのでしょう」


 雨は、すぐに止んだ。

 咲耶の黒髪は、濡れてなお美しい。

 水を含んだそれが、また揺れた。

 強く。

「彼らの求めに、神様は応えます」

「彼らの渇きを、癒すため」

 黒い硝子のような瞳が、しっかりと祭を見た。

「ここの神様は、彼らが、そういう風に、作ったのですから」

 そう言って、またにっこりと微笑んだ。

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