Letztes Abendmahl―最後の晩餐
早水一乃
Letztes Abendmahl
その夜に月は無く、
しかしその部屋では、清廉なる眺めを閉め出すように、分厚い
部屋の灯りは天井から下がる
洋卓に並んで座る二人の少女が、それらを各々の順序で口に運んでいた。少女らは二人とも同じように目も眩むような金髪を持ち、
「お姉様」
白い少女は、小さく切り分けた背脂固めを
「余興はまだかしら? 私、そろそろ食べるのに飽きてきてしまったわ」
「
冷淡に切り返され、白薔薇と呼ばれた少女は不貞腐れたように乱暴に肉叉の肉片を口に放り込んだ。その子供じみた仕草に青い少女は溜息を吐く。少女の溜息は、甘く熟れた花の芳香を含んでいる。
「仕様の無い子だこと。なら、貴女が連れて来なさい」
「ふふ。私、
白薔薇は弾けるように立ち上がると、部屋の隅にある
跳ねるように白薔薇は姿を現した。その後ろには女を一人伴っている。女は少女達よりも一回り以上
白薔薇は楽しげに女を洋卓の正面、青薔薇と向かい合う位置に立たせた。青薔薇は眼を
「ようこそ、
女の震えが僅かに治まった。女の身を包む
「貴女達の目的は何? 悪いけれど、思っている程満足な身代金は支払えないわよ」
「あら、無粋な事を言うのね」
再び着席した白薔薇は、
「私達は、この記念すべき夜に相応しい客人を招きたかっただけよ。名高い貴女の
「ああ、でもね、お姉さん! 直接お声を聴くのは初めてではないのよ。私達、昨年の
「それに、どうにも
青薔薇は這うように仄暗く甘く、白薔薇は跳ねるように軽やかに甘く。代わる代わるの言葉に、女は
「では、貴女達が聴きたいのは」
「勿論。
「……分かったわ。一口、頂けるかしら」
女は卓上の赤葡萄酒を指差す。白薔薇が腰を浮かせ、自身の飲みかけの硝子杯を差し出した。女はそれを受け取ると、芳醇な液体で渇いた喉を潤す。硝子杯を白薔薇に返した指には、もう微かな震えも残っていなかった。それを見て青薔薇が満足気に唇を歪める。
息を吐き、女は背を伸ばした。すると、舞台衣装に包まれた長身が部屋の全ての光を集めた。うねる黒髪をかき上げると、そこに凛と立っていたのは紛う事無き女王であった。
青薔薇でさえも眼を見張り、至近距離で鼓膜のみならず全身を震わせる至上の歌声に聴き惚れた。食器が振動に震え、葡萄酒が波打つ。
女王は怒りを、身の内に
そして――嗚呼! この歌曲の難度の由来である、舞い上がるような
本来ならば奏でられる筈の間奏の間を持った
女王は両手を虚空へ差し伸べて復讐の神々へ声を上げる。聞け、聞け、聞け! 母たる我が呪いを! ――やがて遂に最後の音が鳴らされる。
余韻と共に息を吐き出したその時、女王に変容していた歌姫は一人の女に戻っていた。
「――
薔薇の少女達は、二人共に
「白薔薇。椅子を差し上げて頂戴」
「はい、お姉様」
白薔薇は部屋の隅に片付けてあった椅子を女の所へ運んだ。女は素直に従いそれに座る。青薔薇は鷹揚に頷き、目の前の女に向けて硝子杯を掲げてみせた。
「素晴らしい歌を有難う。今宵、此処で貴女の歌を聴けた事を光栄に思うわ」
「……喜んで貰えて、良かったわ」
青薔薇は女を見つめた。青玉の眼は深淵を思わせ、その内の思索を窺わせない。白薔薇は姉の様子を横目に見ながらも、まだ血の滲む
ややあって、青薔薇が立ち上がる。少女の
「――そろそろ、
「お姉様! 給仕なら私が――」
「貴女は座っていなさい、白薔薇。
その言葉に、白薔薇は何処か不安気な眼差しを姉に
「あの、貴女達は一体――」
「ん……私達? 私達は、
「吸血鬼……ですって?」
女は思わずその異様な単語を繰り返したが、白薔薇にふざけている様子は無い。それどころか、髪と同じ色の眉を頼りなげに歪め、切々とした口調で言葉を続けるのだ。
「でもね、お姉様が言うには、私達の血は酷く薄まってしまっているのですって。私達はお陽様の下も歩けるし、十字架もちょっと苦手なだけで怖くはないわ。
「でも、我等は最早闇の眷属と呼ぶには衰退し過ぎてしまった」
白薔薇の言葉を引き取りそう締め
青薔薇はその内の一本を自分達に、もう一本を女の為に注いだ。ふと漂ってきた二種類の液体が混ざり合う香りに女は眉を寄せた。
甘い芳香の立つ、仄かに
「
女の
「嗅いでみる?」
少女が差し出した硝子杯に、女は躊躇しつつも顔を近付ける。食道と胃を不愉快に撫でる鉄の匂いに思わず咳き込むと、青薔薇は笑ってそれを引っ込めた。女は自身の心拍が再び不規則に高鳴り乱れるのを感じ、指先が震えた。粘性のある、光の加減で
「
「このままではかの
青薔薇は硝子杯を
「正直に言うと、本当は貴女を最期の贅沢として頂こうと思っていたの。けれども、あんなに素晴らしい歌声を聴いてしまったものだから……私達がその至宝のような才能を
「お姉様……」
女は、
「……その代わりと言うのも不条理かもしれないけれど、貴女に一つだけお願いがあるの。聞いて貰えないかしら」
「私に出来る事なら、やるわ」
「有難う」
青薔薇は隣に座る妹に目をやり、「さっさと飲んでおしまいなさい」と柔らかく叱りつけた。白薔薇は慌てて硝子杯の中身を飲み干し、
扉は閉められ、女が一人取り残された部屋には静寂が落ちた。女は甘ったるい貴腐葡萄酒を口に含み、耳をそばだてた。しかし部屋と部屋を繋ぐ扉は分厚く、ささめき一つ聞こえてこない。女は洋卓の上の、姉妹が食べ残した豪華な料理を眺めて時間を潰した。緊張から束の間解放されて空腹を思い出していたし、手を付けても叱責される事は無いだろうとは思ったが、女はただ葡萄酒だけを口にした。
部屋には時計に類する物が一切無く、実際にどれ程の時間が過ぎたのかは判然としない。しかし、女が硝子杯を空にしてしばらく経った後、青薔薇がふいに姿を現した。白薔薇の姿は無かった。
「待たせてしまったわね。こちらに来て下さるかしら」
女は黙って従った。青薔薇の声は先程よりも疲れていた。
部屋に入ると、そこは寝室であった。天蓋付きの大きな
寝台の上には、奇妙な事に大量の灰の山が乗っていた。灰は先程まで白薔薇が着ていた礼装に半ばくるまれ、寝台の足下には可憐な靴下と靴が添えられている。礼装の胸元には光る程に研がれた木の杭が突き刺さっていた。傍らには
女は全てを察した。予想の通り、青薔薇は礼装を着た灰の山から杭を抜き取ると女に手渡した。
「これで、私の心臓を突いて欲しいの。死体は残らないから面倒な事にはならないわ。この家にある物で気に入った物があれば、後で好きなだけ持って行って貰って構わない。どうせもう私達には不要な物だもの」
少女の瞳の真剣さと、何よりもその青い闇に内包された悲哀に、女は頷く以外の選択肢を持たなかった。青薔薇は灰の山の隣に横たわると、華奢な手を腹部の上で組んで瞼を閉じた。そうして動かずにいると、肌の青白さと相まってまるで人形のようである。或いは死体だろうか。
女は横たわる青薔薇に近付くと、手の中の杭を握り締める。幾ら人間ではないとは言え、人の形をした物に暴力じみた行為を行うのには相当の勇気が必要だった。否、暴力どころか、これは殺人行為に他ならない。女は唇を震わせながら、せめてもの手向けにと青薔薇に告げる。
「
蒼い
女は怯えに震える手に力を込め、
そして全ての血流が行き着くその臓器を目掛け、奥歯を噛み締め両手を振り下ろした。
杭は薄く柔らかな皮膚と肉を食い破り、裂け目からは鮮血が奔流の如く溢れ出る。女は怯みかけたが振り切り己の全体重を両手に乗せた。硬い骨に行き当たる感触があり、杭の尖った先端が僅かに滑る。青薔薇の唇から血が零れた。杭は少女の平たい肉体を遂に突き破り、下にある寝台へその先を食い込ませた。
ふと青薔薇が大きく眼を見開いた。収縮する瞳孔。上質な天鵞絨のように深い青色が、波引くように褪せてゆくようだった。最期に
寝台の上には、ふた山の灰が遺された。
女はそれをしばらくの間見つめていたが、かつて青薔薇であった灰から杭を抜き取ると、傍らの箱に収めて
ふいに女は音を聞いた。発信源を求めて窓際へ寄り、閉め切られていた幕を開ける。
そこには夜深い時刻でも尚宝石箱のように輝く
無機質な人工の青が、女の顔を下から照らしていた。
Letztes Abendmahl―最後の晩餐 早水一乃 @1ch1n0
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