第2話

「で、いつ出てくのかね」

 

 迷惑そうにカウンター席を占拠しているギンジロウを見下ろしたのは、このバーの店主であるミドリコ。まだ開店前のためネイビーのデニムに薄ピンクのニット服を着ている。ピコピコと女から生えた猫の耳と尻尾が動いた。人間離れした、彫刻の様な美しさを持った女だ。黒いロングヘアにはピンクのメッシュが一筋入っており、眠たげな表情は艶めかしさを感じさせる。


 それにしても狭苦しいし古臭いバーだ。客は10人も入れないし、安っぽい色とりどりのネオン管は営業時間になればちかちかと瞬くし、テーブル席のソファは使い込まれてしなびて───。メインストリートの大勢の人間で賑わうバーとは大違いだ。だがこれが良いとしばしば訪れる物好きな客もおり、そんな客が言うには"癒やしがほしい"だそうだ。ミドリコの飾りの無い物言いが良いのか、容姿か、それとも人生経験のなせる技かは分からないが───。


「うーん、あと3日」

 

「あんた。昨日もその前も同じ事いってたじゃあないか」


「仕方ねーだろ……。まだ家に戻れねーんだから……」


 カウンターでうつ伏せになったギンジロウが起き上がりもせずに答えた。その息は昼間だというのに酒臭い。


「ちょっと!また昼間っから酒をのんで!」


 ゆさゆさとギンジロウの肩を揺さぶるが。


「うっせーババァ……。自分で注いでんだから良いだろうがよ……」


 そう言って夢の国へ旅立とうとするギンジロウは、アルコール度数だけが高い安酒を己の口に注いだ。脳が痺れて多幸感が彼を包み込み、己を襲う様々な悩み事が溶けて消えた。家賃だとか、車のローン、医療契約費、バカ高い二酸化炭素税、自分の老い先とか。現実が自分から遠ざかってゆく……。

 へらへらと笑いだしたギンジロウを見てミドリコは溜息をつくとバーカウンター奥にあるピンクの扉の奥に消え(自宅に続く扉だ)、バーにギンジロウ一人が残された。



◆◆◆



 衣擦れの音と共に薄ピンクのニットとネイビーのデニムが無造作に放られた。薄青のレース生地で作られたショーツとブラも。

少し水漏れの気味の開き扉を開けると、張られた湯船から立ち上る湯気と柑橘系の爽やかな香りがミドリコを包み込んだ。


 ギンジロウが酔い潰れてから数時間、既に太陽は地平線に近づきキャットアイの開店時間が迫ってきていた。仕事初めに入浴するのは彼女の習慣となっており、仕事終わりにベットへと直行するための下準備でもある。


「フンフン♪」


 なんとなく出た鼻歌を歌いながらシャワーのハンドルをひねると、ゴムとゴムの擦れる音と共に少し熱めのお湯がミドリコに降り注いだ。黒いロングヘアがしっとりと水に濡れ、生まれたばかりと間違う様な肌の上をお湯が滑り、鎖骨から控えめな胸の谷間や腰のくびれ、太腿、足先へと流れ排水溝へと吸い込まれていった。

 無意識に彼女の口から吐息が漏れる。

 もしファンタジーな世界が有ったとして、湖で沐浴などしようものなら女神か妖精とでも間違えられてしまうだろう。下手をすれば"本物"よりも女神女神しているかもしれない。

 ミドリコの体は機械の作り物で、生身の部分は脳と一部の内蔵のみが残るだけだが、その肢体は完全な黄金比と、人の機械化を行う企業に積み重ねられた膨大な美的データから作られており、どんな美人にも見られる欠点や違和感がほぼ無いと言っても過言ではない。

 更に機械化した本人に違和感を与えないため、高級な機体はほぼ完全な感覚の互換性を持っており、刺激や、生理現象をほぼ再現している。普通の食事は体内で代謝されて微量だが電力へ置換されるし、本人の意思で制御できるが悲しくなれば涙も出るし、暑くなれば汗もでる。こうなれば生身の体など手放したい人は多く、機械化の欠点といえば、しいて上げるなら欠点が無いのが欠点といった所か。


 体を洗い終わったミドリコが張られた湯船に指先を浸して温度を確かめてから、つま先からゆっくりとお湯に浸かった。薄オレンジ色をしたお湯が浴槽から溢れて流れていく。肩まで浸かったミドリコは、近所のスーパーで買ったUの字になっているイボイボの付いたマッサージ器を首筋にあててグリグリと首筋をほぐし始めた。


「効くぅ~」


 猫耳がピクピクと細かく動き、尻尾がピーンと伸びた。

 実にババ臭いが、実際中身はババアである。ずるずると体勢を傾けていき、悦楽の声を出しながら口まで湯船に沈み込むと、ぶくぶくと口から息を出しあわを作った。思考を全部放り投げたミドリコの頭の中でどうでも良い記憶が、無茶苦茶に並び替えてしまったセルアニメみたいにフラッシュバックする。甘えてくるハゲ頭の客の事とか、近所の安売り卵の事、トイレの芳香剤切らしてたとか、アルヴァタールが窓の隅のホコリを綿棒でとってた事とか、街で見かけたトモエフェイル2ちゃんに合いそうな靴。あとギンジロウの酒のツケの事。それと色落ちしたギンジロウの着古したジーンズとか。いい加減、大人なんだからちゃんとしなさいよとか。


「はー馬鹿らし。なんであたしはあんなのに構ってるんだか───母性本能かね?」

 

 天井を仰ぎ見て。ふふ、と口の端を緩めた。

 





























































*ウィーン*


*ガリゴリガリゴリ*


*チュミミミィ*


*ウィーン*


*ガリゴリガリゴリ*


*キュイィッ*


*ウィッ*


*ガキガキガキガキ*

 




























































 唐突にゴポゴポと排水口の水が逆流する。次第に浴室の床に水が薄く貯まり、その頃には灰色とも茶色とも言えない汚濁した水がまじりはじめ、水面に汚いまだらを描いた。

 ミドリコは目を閉じて耳までお湯に浸かり未だ異変には気づいていない。

 一際大きく水が逆流すると、むりむりと排水口の小さな穴から青紫色をしたタコの様な触手が現れた。

 ぺたぺたと周りを探るように撫で回すと、浴槽の壁を辿ってぴちゃりと張られたお湯にたどり着く。

 緩慢に、ゆらゆらと水の中で揺れる触手がミドリコの体に触れた途端。今までの動きが嘘の様な俊敏さで彼女の体に巻き付き、一気に浴槽の外へと引きずり出した。

 触手は強烈な力で彼女の胴体を締め上げて、わずか直径5センチ程度の排水口に無理矢理引きずり込もうとしているようだ。

 浴槽から力任せに引き摺り出され、床に強かに体をぶつけた衝撃で、何が起こったか理解できなかったミドリコだったが、おぞましい青紫の触手とその裏側に生えた無数の細いひだが自分を絡め取っていると自覚すると、声にならない叫び声を上げた。


 機体は不幸にも人体構造を忠実に模倣しており、強烈に締め上げられた腹部は空気を声帯に送り込むことができなかったのだ。

 

 肌の上をナメクジが這い回るようなおぞましい感触を疑似神経は正確に彼女へと伝える。

 体から聞こえるミシミシという音と気色の悪い感触は恐怖となり、一心不乱に空いた手と足、尻尾をばたつかせた。壁に立てかけてあったシャンプーやリンスがゴトゴトと床に落ちて、壁や床に足や手が当たって小さくない音を立てた。リーチの長い尻尾が浴室入り口の扉をガンガンと叩く。

 抵抗したためか更に触手の締め付けが強くなり、かろうじて浅く出来ていた呼吸が遂にできなくなる。酸素が不足し視界がブラックアウトし始めた。


(もう駄目か……)


 ミドリコの思考がかすみ始め、意識を手放す瞬間に扉が勢い良く蹴破られて───、今まで見たこともない様な形相のギンジロウが駆け寄ってきた所で彼女の記憶は途絶えた。




◆◆◆


 

 夜闇の中、止まることのない工場の明かりが無数に灯っている。動き続ける機械の音。もくもくと煙突から出て空に登っていく白い煙。絶えず行き来する無人の搬送車両。ここは不咲町にほど近い産業特区。大小様々な企業の工場が立ち並ぶ。繁華街、オフィス街ときて第三の不夜城だ。


 その中に一つ。工場の光も届かない産業特区のはずれに一つの倉庫が有った。何の変哲もない倉庫だ。凹凸のある薄い金属板の外壁。四角い造形。大きな搬入用シャッター。

 ただ宝物でも仕舞ってあるかのように、周りに立ち並ぶ倉庫と比べれば小奇麗に保たれている。

 そこに一台のボロボロなワンボックスカーが、キイキイと錆びついたブレーキを鳴らして倉庫の前に止まった。ガチャコンと、安っぽいドアの開閉音。降りてきた男は倉庫の扉に付いたコンソールのレンズを覗き込んだ。そしてカチリと扉のロックが解除され、倉庫の中に入っていった。

 暗闇の中、手探りで照明の電源を探し当ててカチカチと明かりを付けていく。倉庫の中には車を何台も載せれる様な大型のトラックが有った。壁際の大型ラックには常軌を逸した大きさの巨大な火器兵器が有った。そして中央には、冷たいLEDの灯りに照らされて鎮座する黒鉄クロームに輝く巨影 。雷電プラスだ。


 鋼の巨人。高さ約3メートル。いくつもの追加装甲が足に、胸部に、腕部に取り付けられて。純正でも元々マッシブな機体は更に質量が増している。角ばった頭部には4つのカメラレンズ。その無骨さは言うならば二足歩行した戦車。戦場の花形とまで言われる人形兵器。争いを生むこれを、人々は皮肉を込めてピースメーカーと呼ぶ。


 フェイル2に開けられた大穴は熟練工の手で再整備され跡形もなくなっている。

 照明に照らされた男。ギンジロウはまだ火の入っていない4つの無機質な瞳を見据えて、雷電プラスへと歩き出した。


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