第2話 覆面小説『****(アスタリスク)』
結論から言うと、春子のトリックは成功した。
春子がレジ番のときに例の本を持った『いずれさん』がレジに向かってくるタイミングで、レジ内に引き込んだタコ糸を切断。
バックヤードで水風船が呼び出しボタンにぶつかった。
仕掛けが作動し、無事店内放送でバックヤードに呼び出され、春子は別の店員にレジを任せて、バックヤードに逃げてきた。
すれ違った『いずれさん』は春子の顔をまじまじと見つめ、「千三百八十円」と言った。怖い。
(もうやだー、いずれさん怖すぎ!)
薄暗いバックヤードで息を切らせていると、電話を持った店長とはたりと目が合う。
「あ、ちょうど来ました。はい、はい。お電話変わります」
店長は電話口を手で塞ぎながら、春子に通話相手を伝えた。
「作家の伊口さんだよ。磯崎に頼みたいことがあるんだって」
(本当に大口注文のひとから電話が?! このタイミングなら、私のトリックいらなかったってことじゃないですか、やだー!)
春子は引きつった顔で電話を替わった。
□□□
あの後、電話じゃ話しづらいということで、退勤後にレストランに連れてこられた春子。
ちょっと軽めのフルコースが並んだ時点で、嫌な予感しかしなかった。前払いが豪華だと、お願いの難易度が跳ね上がるからだ。
ワインで程よく口が回り始めた頃に、作家の伊口は事の経緯を話し出した。
「覆面小説の『****(アスタリスク)』って知ってるか?」
「ええ勿論。何から何まで詳細不明の小説ですよね。作者もタイトルも出版社さえ不明の小説。日本発ながら、純粋に内容だけで勝負して、世界各地でベストセラーを達成したっていう……」
謎の小説、通称『****(アスタリスク)』とは、タイトルも著者も出版社も不明ながらベストセラーをたたき出した覆面小説である。
呼称の『****(アスタリスク)』ですら、ファンが便宜上名付けたタイトル及び著者名で、実際のところ本当のタイトルと著者名はいまだ明らかにされていない。さすがに流通のためにバーコードはあるが、普通の本と変わらないのはそれだけだ。表紙は真っ黒でタイトルも作者名もどこにもない。徹底的に作者名とタイトルを秘匿するさまは、一種の異様さすら感じさせた。
肝心の小説の内容は、コンピューターの反乱を題材にした、いわゆるAI(人工知能)ものだった。
春子のみるところ、この小説のテーマは《人間はコンピューターの自我を認めることができるか》だと思う。
人間は電気信号のネットワークの塊だという、ならば同じ電気信号ネットワークを形成するコンピューターにも自我はあるんじゃないだろうか。そうは思っても、人間は傲慢でそれを認めようとはしない。
ならば一体、人間とコンピューターの境界はどこにあるのだろうか?
小説に深く感動しつつ、日常でも春子はこのテーマに心を奪われ続けていた。自宅の足元をうろちょろしているルンバにすら、自我が芽生える日が来るのだろうか?
それはすてきだ。きっと友達になれると思う。うん、私はコンピューターの自我を人間のように認められると思う。
そんなことをつらつら考えているうちに、うっかりルンバを踏んでしまった春子である。ご、ごめんよ……。
「その『****』だが、近々累計五千万部出版記念パーティが開かれることになっている。俺も招待された」
「は??」
春子は唖然とした。五千万部といったら『赤毛のアン』レベルのベストセラーだ。単純にすごい。だが問題はそこじゃない。
(え、えええ? 作者も出版社でさえ不明なのに、誰の主催でいったい誰をお祝いするパーティなんだろう……)
春子の疑問を顔で分かったのか、伊口はおもむろに頷いた。
「言いたいことはわかる。主催は最初に販売を始めた書店だそうだ。出版社と繋がってるかどうかはわからんが、ブームの火付け役としては主催もありうるだろう。そして、ここが大事なんだが……マスコミによるとそのパーティにアスタリスクが出席するかもしれない、とのことだ」
「?!! アスタリスクは正体不明なんでしょう?! そんな簡単に正体を明かすような真似するんですか」
思わずワイングラスを持つ手がぶれる。
伊口は重々しくため息を吐いた。
「わからん。あくまで推測だ。だが、主催側はパーティで『正体を明かさない』とは明言しているが、出席に関してはノーコメントだったらしい。いかにも思わせぶりだろ?」
「うーん、話題性を狙ったものかもしれませんが、はっきりしないところは気になりますね。でも、実際にアスタリスクが出席しているかどうかなんて、確かめる方法なんてありませんし……」
そう春子が小首を傾げると、キラーンと伊口の目が光った。
「……それがあるんだよ。アスタリスクの正体を見破る方法が!」
「な、なんだってー!」
どひゃあっと春子は驚いた。もしアスタリスクの正体が分かれば、ネットニュースはそれ一色になるだろうし、世界中で話題になるだろう。
気になる! すっごく知りたい!
「そ、その方法とは一体……!」
身を乗り出し、ごくりと喉を鳴らす春子に、伊口は神妙に告げた。
「お前のその変な能力」
「ファッ!?」
春子は思わずワインをひっくり返した。あまりにも想定外だったからだ!
(読んだ本の履歴と欲しい本がわかるって能力とアスタリスクに、いったい何の関係がーー!)
伊口ときたら混乱する春子に構わずに、パンと手を合わせて拝み頼みした。
「だから頼む! 俺と一緒にパーティに出席してくれ!」
「ええええええ?!!」
ダラダラとテーブルから膝に伝い落ちるワインの冷たさが、無情にこれは現実だと教えてくれた。
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