才能って何だろう?
目に見えない、テストや検査で測れない、つかみどころがない。
けれども確かに、どんな分野でも何かにつけて取り沙汰される。
才能というものは存在し、人によってその多寡が異なるらしい。
どちらも若くて繊細な、才能に溢れた人と平凡さを自覚する人。
世界を翻訳してみたいと望む切実な心はよく似ているけれども、
傷つけることや傷つけられることを恐れれば、触れ合えない。
振り返って、私自身はどうだろう?
打ち砕かれたり嫉妬したり曲解したり、しなくなってきました。
物凄さに衝撃を受けたり悔しくなったりすることはあるけれど、
さんざん痛い目に遭って、したたかに開き直れてきたようです。
くるしくなったときに、また読みたい。
表現する方法にも色々あって、例えば綺麗に見えるテクニックをふんだんに使ってひたすら見映えを追求したようなものだって一つの方法だし、そういうのを好む消費者だっている。しかし、この小説に登場する女性二人が追っている表現は違う。彼女らが追っているのは、自分の中に入っているものを実直に見つめ直し、世界で自分一人にしかできないような方法で見ているものを”翻訳”することだ。それはとても勇気の必要な行為で、全部出し切った作品が評価されなかったらどうしよう、自分に才能なんてなかったらどうしようという恐怖が常に付きまとう。それでも、愚直に書き続けることしかできないし、結局表現者ってそういう生き物だよね。表現を志す多くの人に響く短編小説だと思います。
カクヨム登録者二十五歳以上の六割を殺す物語ではないでしょうか。創作にもがく人々の話はあまりに自らを投射するので避ける傾向だったのですが、〝彼女〟が出てくるのならば読まねばならない。結果、殺され、でもまたキーボードを打ち付けているのですから不思議なものです。
さて、下記は「カクヨム金のたまご」 髙橋剛氏の言葉の引用です。(勝手にして怒られるかなあ、多分、大丈夫だと思いたい)
『リアリティには文字通りの現実味のほか、物語的な現実感も含まれます。現実味を出すには事象をご自身の観点から捉えて文章で過不足なく説明する必要がありますし、現実感を出すには設定が著者の都合ならぬ必然性をもって練られている必要があります。』
ああ、通ずるものがあるな、と思いました。
道は繋がっている、けれど一通りではない。私は私の物語を紡ぎましょう。
才能とはなんなのか——突き抜けたオリジナリティなのか、創り上げたスタイルなのか、天賦の素質なのか、努力できる強度なのか、継続できる資質なのか、何度でも立ち上がることなのか、群れないでいることなのか、人に盛り立てられる力なのか、売れることなのか、ひとりにでも深く届くことなのか——痛いほどのたうちながら、捜し求めた軌跡を、この作品には感じます。その答えを深く求めたことのあるひとほど、作者が考えたことの痕跡を多く見つけられるのではないかと思います。
ふたつの才女が、対比的に付置され、才能について真剣に語り合います。時に緊張感を醸し、一方が謳えば一方が支える、二重協奏曲を聴いたような読後感があります。
別作品のヒロインである、章子のキャラクターはやはり出色です。なにげに小塚くんが一般人には十分説得力を持つラインを保っていることが、二人の才女のいる次元を際立たせる、いいコントラストになっていると思います。
拝読しました。
「才能」とは何か。秋永さんのおっしゃる通り、それは視えないし、さわれないものです。だからこそ、局面によってはハッタリや思い込みでやり過ごしてしまうことができる。
しかし時に、自分の才能じゃ勝負にならないモノとぶつかってしまう時がある。ハッタリが唯一、通じない相手は世界で一人、自分自身ですね。
そして正直に告白すると、読後に私はこう思いました。もし自分にその時が訪れたなら森島章子の役回りで居たいと。自分の残酷さと対峙させられた思いです。
商業でも書いておられる秋永さんは、きっと森島さんの役回りも、新井さんの役回りも、両方経験されたことがあるのでしょう。だからこそ新井さんは自分を諦めず、昨日よりちょっとでも先に進む選択をする。
北村薫氏は「本当にいいものはいつでも太陽の方を向いている」と言いました。秋永さんの小説も、そしてきっと作中の森島さんの写真も、力強く太陽に向いて、後から来る人たちに正しい方角を示しているのだと思います。