この社会でまともに生きていける人間こそ、どいつもこいつも狂っていやがる

おはよう東京。満員電車に乗る。鮨詰めの人の悪意に揉まれると、それだけで世を憎むに足る口実が生まれる。このストレスは戦場に赴く兵士のそれと同値だというのだから、戦後はとっくに戦争だったのだろう。

畢竟、年間15万の戦死者を横目に平然と振る舞える連中が正気である訳がなく、いやそもそも、その数兆倍の数を平然と水に流せる神が生み給うたこの世界が、まともである筈もない。

だから活動家が反戦を叫びながら自衛隊員を殴ったって良いし、護憲論者が家庭内暴力者でも矛盾はない。障害者が不倫をしたって許されるし、芸能人が枕をしたって誰も咎めない。聖職者が少年を犯し、教職者が少女を犯す。母親が子を売り、父親が子を孕ませ、孕んだ子はその子供をさらに堕ろす。そう、運悪く日の下に晒され、石の飛んでくる順番が回って来ない限りにおいて、それらは全て、正気の名の下に容認され得る日常の一幕だ。

斯くて「わたし」は最後、ディストピアの中に来るユートピアの可能性を見出して勃起する。それは将来の娘にとっては失楽園以外の何者でもなく、しかして切望する「わたし」にとっては、言祝ぐべき楽園の到来そのものなのだ。

 打ち上げ花火をどこから見ようがそんな事はどうでもいいが、誰かにとっての天国は、誰かにとっての地獄足り得る。だから少なくとも今は、自分なりのハッピーエンドを迎えつつある主人公に、ささやかなる拍手を送るべきなのだろう。

 最後の数行を読み終えた私は、銃夢という漫画の劇中で、愛娘を殺された父親に、犯人が投げかけた言葉がちらりと過ぎった。

「なああんた。本当はあんたが、こうしたかったんだろう?」