第2話 赤子の頭蓋を踏み潰す

 最寄り駅から職場までは徒歩五分程度となかなかの好立地だ。その途中の交差点ではときおり新興宗教の信者が彼らオリジナルのありがたい説法をしている。小雨のなか立派なことだと思う。

 けれど行き交う人々は信者の説法を無視して各々の職場へと去っていく。わたしも尊属殺法定刑違憲事件の判決を読みながら行きたくもない職場に向かう。「被告人は少女のころに実父から破倫の行為を受け、以後本件にいたるまで一〇余年間これと夫婦同様の生活を強いられ、その間数人の子までできるという悲惨な境遇にあつた」。ああ、ぞくぞくする。チンポに突き刺さるディストピア感だ。人間の尊厳を踏みにじられる他人の不幸こそ、この上ない娯楽なのだ。

 そして仕事。

 牧原kんはサA、このしgtろ無為てないfんじゃないのえ?

 クソ上司に丸投げされた案件は医療分野における高度な専門知識が必要で、ちなみにわたしは一年にも満たない新人だった。

 申す古紙自分でかnがETしいだとえん、資質を宇田がうよ。ボクモ寝エ、困るんだyOh。

 クソ上司はわたしに対してこの仕事は向いてない、資質を疑うと言う一方でわたしに対して難しい案件を丸投げする。クソ上司のクソがつまった頭のなかで仕事に向いておらず資質が疑われているわたしが高度な案件を行うことについての整合性がどうのようにとれているのかお尋ねしてやりたかった。

 それからわたしは労働で自分の心臓をすりおろして帰宅する。外は暗い。夜は寒い。もう八時を過ぎていた。これから料理を作る気にもなれない。自炊なんてほとんどしてなかった。

 最寄り駅に着くと窓口で中年の男性が駅員に詰め寄っていた。

 おい、どういうことだ、トイレが詰まって使えなかったぞ。うんこ。うんこが詰まってるんだ。おかしいだろ。困るんだよ、そういうことじゃ。困るんだよ、なあ。

 申し訳ありません。駅員は謝る。両方とも使えませんでしたか。

 そういう問題じゃないだろ! 使えないんだよ、それじゃ誰だって困るだろ。片方が使えるとかそういう問題じゃないだろ! どんな教育受けてんだよ。どうにかしろよ!

 中年は怒声をあげる。

 だからトイレが使えないってさっきから言っているだろ! お前らの管理が悪いんだから早く直せよ!

 次の電車まで時間があったのでトイレにでも行こうと思っていたが、あからさまに不機嫌な中年を見て、わたしはそのままホームに向かった。

 スマートフォンで尊属殺法定刑違憲事件を見る。娘は実父を殺して懲役2年6ヶ月、執行猶予3年。刑務所には入らなかった。たとえばわたしが今誰かを殺せばそうはいかない。まず間違いなく実刑だろう。あーあ。わたしも誰かを殺しても許されるくらいに許されたい。こんなに人生がつらいのに一人くらい殺せないなんておかしいじゃないか。

 電車がきた。わたしは飛びこみ自殺をしてみるべきかもしれなかったが、今日はそんな気分でもそんなことはできなかった。

 電車に乗ると入口のすぐそばにベビーカーあった。赤ん坊は世界の不幸を一身に背負ったかのように泣いている。くたびれた母親はなんとか赤ん坊を泣きやませようと赤ん坊をだっこし、必死にあやしている。それを見る乗客の目は冷たい。それはそうだろう。平日の夜、疲れて家に帰ろうとしたら頭に響く泣き声を聞かされてはたまったものではない。

 わたしは乗客を代表して赤ん坊のやわらかい頭蓋をつかみ全力で床に叩きつけた。そのまま思い切り体重を乗せて何度も赤ん坊を踏みつける。あどけない命を潰すと、とうとうわたしはやってやったのだという得も言われぬ充足感と快感がわたしの奥底にあった欠落を満たす。これだ、気分一つで他者の命をも左右できるこの支配力こそわたしの人生に足りなかったのだ。

 ああ、なんということでしょう! これで育児という地獄から解放される!

 わたしの善行に母親が歓喜した。

 そうだ、ありがとう! よくやった、俺も迷惑してたんだ! 勇気ある若者に万歳!

 周りの乗客も歓声をあげ、口々にわたしを称賛する。

 わたしはありがとうございます。ありがとうございます。と言いながら革靴についた鮮血を気にする。帰ったら靴を磨かないといけないなと思う。

 なんてことを妄想しながらスマートフォンを手に取る。赤ん坊をとっさに殺せるほどの思い切りの良さは私のなかになかった。

 何事もはじめるということが一番難しい。誰かはじめの一歩を教えてくれ。わたしは尊属殺法定刑違憲事件を読んで学ぶことにした。学べるかわからないが読んでいればとりあえず心が落ち着く。赤ん坊を殺そうなんて酷いこと思ってしまったなと思えるくらいには。

 赤ん坊は泣きやまない。

 ぶっ殺。



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