No.13 生き直し



 街灯の薄明りに照らされたアスファルトの上を車が滑っていく。「今から殺しに行こう、お父さんを」。その言葉から、八雲先生は一言も口を開かずただ私をある場所へと向かわせていた。

 最後に父さんの場所を教えてくれたのは補導員の平沢さんだった。数か月前のなんてことのないある日、彼女は私を寮の別室へ招くと、見飽きた八の字の眉を深く刻んでとある病院の名前を口にした。聞き覚えのあるこの町唯一の大きな精神病院の名前だった。そこで父さんはもう虫の息だと、アルコールに溺れ動くこともできず尿や便を垂れ流した状態で瀕死だったところを担ぎ込まれたのだと聞いた。病名を何個か言われてあと数か月かそれ以下か、そんな命の数を教えられた。それを知った時私はなぜか笑ったのを覚えている。

 会うかどうかはあなた次第、その言葉を背中で受け止めたような気がする。

 車はゆっくり速度を落とし、そのやけに大きな病院の中へぬるりと入りこんだ。建物の大きさとは裏腹に申し訳程度の駐車場の一角で車は停まる。フロントガラスを覗くと思っていたよりでかい建物が天を突くようにしてそびえていた。壁は木々に覆われるようにして薄緑に、出窓の一つひとつには赤茶に錆びた鉄格子が嵌め殺されている。この箱のどこかに、あの人がいる。

「カウチを思い出して、そこに横になっていると思って」

 突然の声に振り返ると八雲先生が私のシートベルトを外すところだった。細く白い指。先程泣いたせいか頭の中がどこか朦朧としていて、これなら催眠術にかかりやすいのではないかと頬が緩む。自分に言い聞かせるような笑いだった。短い沈黙のあと、私はシートを倒して横になり手をくったりと下へ落とした。

 ああ、天井が灰色だ。いつも夢で見るあの黄ばんだ天井とは違う。先生がゆっくりとした口調で何か私に問いかけている。内容はあまり頭に入ってこなかった。目を閉じると瞼がぴくぴく震えて、唇も震える。「顎の力も抜いて」だなんてやだなぁ。いつもの冗談が言えなくなってしまう。そしたら先生が笑えなくなってしまう。けれど今は顔を見ることもできなかった。

 数分、数十分、数時間、それほどの時間ではない筈なのにやけに長く感じた。先生が紡ぐ最後の言葉とそれの尾を引いた沈黙のあと、そっと目を開ける。いつもより鮮明な視界の先で、先生がいつものように微笑んでいた。

「行っておいで」



 病院の中は無機質な白に覆われていて、消毒液みたいな匂いが充満していた。精神病院なのに「普通病棟ですか、アルコール病棟ですか」と看護師さんに聞かれたことに違和感を覚えた。同じ精神病院でも、ひとくくりではないのだ。それほど枠で縛られている。異常、そんなふうに言われた気がした。

 教えてもらった病室の書かれたメモ用紙を片手に歩く。やけに頭が冴えて、静かな病棟に並行するように心臓の音も穏やかだった。私の足音だけが病棟にこだましている。白い床、白い壁、どこまでも長く伸びる廊下の真ん中をただ歩いた。

 中学二年のある朝、私は学校の屋上から飛び降りた。夢の中、艶めかしい声で母親が言っていたのは紛れもなく私のことだ。ただひとつ、蝶になりたかったなど言った覚えはなかった。あのときはただ純粋に命を、鼓動の音を止めたかった。その後遺症で左手は握力がほぼなく、その腕に何度も注射を打った。痛み止めではなく、知り合いに勧められた覚醒剤を。そうでなくては忘れられなかった。痛くても不思議と笑ってはいられた。人間は幸せでなくても笑っていられればそれでいいのだと思った。

 目的の病室の前で立ち止まる。堂々の個室だ。良いご身分になったものだなとその扉を開けて線をまたぐ。部屋の中は薄暗くほんのりと白けた光で満たされていた。

 中心に置かれたベッドと、何も置かれていないサイドテーブル。

 そして、父さん。

 頬はこけ、口元からは白い液体が溢れ出している。痰を飲み込むこともできないのだろう。あの頃の面影を探そうにも、どこにもなかった。

 重度の胆管炎とコルサコフ症候群。平沢さんから告げられたのは聞いたこともないそんな名前の病気だった。アルコール中毒による後遺症。どっちの病気かは忘れたけど、記憶がなくなってしまう病気。そんなふうに説明された気がする。

 「記憶消すやつ?」、美咲の無垢な言葉が頭をよぎり腹の底から沸々と熱いものが込み上げてくるのを感じた。そうだ。記憶を消したいほどのモノをお前みたいなやつからねじ込まれた子達が、今も忘れたくても忘れられないでいる。

 ナイフをポケットから取り出して、その冷たい柄を両手で握った。左手はほとんど握力がないから支えるだけだったけど、右手だけで十分事足りる。無機質で規則正しい機械音が響いていて、精神が研ぎ澄まされていくようだった。

 今なら殺せる。

 その瞬間、ふと父さんがこちらを向いた。ひゅっと喉の奥へ冷たい空気が入り込みナイフを取り落としそうになる。くぼんだ瞼が開き、皺の入り込んだような瞳で私を見た。あのときと同じ目で。恐怖だった。目の前のこの男は全身動かないはずなのに、もう私をねじ伏せる力もないはずなのに、それでもナイフを握る手が震えるほど怖いと感じている。

 こんなところまできて、怖いだなんて。

「父さん、私にしたこと、おぼえてる?」

 静寂を裂いて出た声は驚くほどに震えていた。催眠がかかっているはずなのに、さっきまで研ぎ澄まされていたはずの精神が弛んで落ちてしまいそうだった。何をいまさら言っているのだろう。だけど聞きたかった。

 あのとき何を思っていた?私を抱きながら何を思っていた?母さんが知らない奴とできていて、その階下で私を抱きつぶしていたとき、あんた何を思ってた?覚えていたとしてどうするというのだ。どちらにしろ記憶を保っている身体ではないのに。

 チューブが繋がれて口から泡が絶えず流れている父さんの口は開いたり閉じたり忙しそうだった。

「ア」

 その言葉の先を目で手繰った。謝られたら、どうしよう。胸に灯ったはずの炎が弱々しく揺れる。催眠が解けてしまうかもしれない。許してしまうかもしれない。

 思い出せ、思い出せ、思い出せ!!夢の中のハエを、幼虫を、あの日壁を這ったクモを。けれどこんな奴の言葉を、私は確かに待っている。

 父さんの口が静かに開いた。

「ああ…いい女だった」




 自動ドアにぶつかりながら足早に病院を出た。狭い駐車場の手前の車から、ひらりと手を振る八雲先生の姿を見つけた。私を見送ったときと同じ笑顔。私は脇目もふらずその車へ走り寄る。乱暴にフロントドアを開け、息も絶え絶えにシートへ乗り込むと車ごと左右に揺れた。ダッシュボードに投げ出したナイフは血まみれだった。滴る血液は灰色のグローブボックスの表面を流れ落ち、同時に私の腕からも流れ落ちる。その滴を見て私はありったけの力で叫んだ。

「殺せなかった!!」

 鉄くさい手で顔を覆う。「クソ野郎!!クソ野郎!!」そう叫びながら何度も何度もドアを殴り、足元を蹴り続けた。あの男の言葉のあと、私は確かにナイフを振りかざした。その声をあげる喉元に両手でナイフを突き立てようとしたのに、震えた手が刺したのは自分の腕だった。父さんは笑った。そんな私を確かに見て、口元から痰と涎を垂らしながら下品に笑った。けれど私は腕を刺し続けた。涙で父さんの顔は見えなかった。

「忍さん、違う、こっちを見るんだ」

「いやだクソ野郎!!催眠なんてききやしない!!嘘つき!!嘘つき!!」

 がむしゃらに先生の胸板を殴り、シャツについた血に自分の頭を打ち付けた。くしゃくしゃになった頭を掴んで先生が私の両頬を手で覆う。その手すら憎らしくて何度も毟った。

「殺せなかったんじゃない、殺さなかったんだ」

 八雲先生は私の顔を見てはっきりとした口調でそう言った。とめどなく漏れ出す涙で先生がどんな顔をしているのかなんて一つも分からなかった。今まで聞いたことのないようなはっきりとした八雲先生の声に、言葉に、私は首を横に振って答える。

「いいや違わない。君は君の意思で父親を殺さなかった。そのかわり自分を殺して傷つけることを選んだんだ、今までみたいに」

 噛み締めた唇からは涎か血なのか分からない液体が滴るのを感じた。同時に腕から流れ落ちる血液の感覚も。痛い。本当はずっと痛かった。笑ったって少しも幸せなんかじゃなかった。あの悪夢のような日々の連続を、一日たりとも忘れたりなんかできなかった。少しの沈黙のあと彼が言う。

「言ったでしょう、芯の強い人にはきかないって。君が聞いたんじゃないか。その選択がいま君を生かしている、この事実は嘘っぱちなんかじゃない」

 嗚咽が喉を圧迫して息ができなかった。私はただ、虫を殺したかっただけなんだ。でも殺せなかった。殺そうとしていたのは、あのちっぽけな虫たちは私自身だったからだ。

「生き直そう」

 狭い車の中を朝日が照らしていた。強く、強く照らしていた。





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八雲診療所のカルテ 日中こうこ @koko43

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