No.6 わたしを愛して


男は三十代後半か、四十代前半に見えた。その容姿は年齢不相応に整っていて、丸渕眼鏡の奥には形の良い目の輪郭が垣間見えた。

建物の中に通されると、どこからかチリンと風鈴の音が刹那に鳴り響いた。

風鈴か。

最後に聞いたのは中学の終わり、確か実家の玄関で、私は立ち尽くしてそれを聞いていたっけ。どうして立ち尽くしていたのか思い出せず、私は少年が犬の足を丁寧に拭いているのをぼんやり眺めていた。


少し長い廊下にはエンジ色のカーペットが敷かれていて、横からはみ出したフローリングの褪せた赤茶色によく似合っていた。両脇には交互に部屋があるようだった。それぞれ磨りガラスが嵌め込まれた戸で閉じられていたが、中にある淡い光が漏れてまるで飴色に灯り、先ほどまで人がいたかのような空気が漂っている。


男と少年、それから犬に連れられるがまま私は二階へ続く階段を登る。カカトの痛みはいつのまにか消えていた。一番最後の段を登った時、すぐ左横の部屋からカタカタと機械音がした。二人は特別気にかけることもなかったようだが、私の顔を見て少年はまたノートを取り出すと『残業してる人がいるのです』と書いて見せた。

診療所というくらいなのだから、看護師さんだろうか。確認する暇もなく、私たちは流れるように角の部屋へと入って行った。

「どうぞ、かけて」

おっとりとした声で彼は言う。部屋の中は散らかっていたけれど、どこか居心地が良かった。私は中央に置かれたL字ソファへ座る。ふかふかだ。身の置き場が分からず体育座りをしそうになったけれど、行儀が悪いような気がしてカカトを引っ込めた。


私が座るとどこからか少年が小さな救急箱を抱えて隣へ座った。

『手当てさせてください』

そう書かれた文字を見てチクリ、忘れかけていた口元が痛む。お礼とはこのことだったのか。

少年はガーゼに消毒液を含ませ、私の口元をトントンと優しく叩いた。

けんちゃんの手当ては決まって氷水をティッシュに含ませ、それを口に詰め込むものだった。粗っぽいけれどあの骨ばった手や指先が優しく口元に触れる感覚が愛おしくてたまらなかった。そんなことを、こんなときにまで思い出す。


今、何してるのかな。

私がいなくて大丈夫なのだろうか。


「さっき電話をくれたのは、きみ?」

どうしようもない気持ちに駆られて携帯を取り出そうとした瞬間、柔らかい男の声が降ってきた。男は目の前の一人掛けソファにゆったりと座り、ただ私を見つめている。イエスかノーで答えられる簡単な質問。けれど私は一瞬躊躇して、戸惑いながらも頷いた。

「石巻くんかな」

イシマキ、その名前なら聞き覚えがあった。昼間のラブホテルでのことを思い出す。

「どうして、彼にあんなことを…させているのですか?」

あの時ひとつ隣に座ったイシマキという男の横顔を思い返す。車で「報告が、」と顔色を変えていたことも。男はウーンと少し間延びした声をだし、口元に手を当てる。

「させているように見えたなら、僕は彼との関わり方を考えなくちゃいけないね」

出てきた言葉は私の予想と反していた。もっと医学的な、根拠のある言葉が並べ立てられると思っていたから。

「あれは彼が自分で考えた、自分の救い方だよ。付き合ってくれてありがとうね」

私が呆気にとられている間にも、少年はせかせかと手を動かして傷口に軟膏を塗る。ぬるりとした感覚に口を動かせずにいると、男は一緒に黙った。少しの静寂に、カチャカチャとピンセットが触れ合う音が響く。

『ガーゼが切れたので、もってきます』

少年が見せたノートに頷くと、彼は小走りで部屋を出た。シンとした部屋で、目の前の男はただ動かずにそこにいた。

私の言葉は、男を責めるような言葉だったのだろうか。ソファに掛けられたクロスを、見えない程度に掴む。

「なんだか大荷物だね」

沈黙を破るように、ふと男がキャリーケースに目を向けた。「旅行というわけでは無さそうだけど」、そう付け加えて。答えに迷って目がつい泳いでしまう。

「たまに、家を出るので」

「どうして?」

「…喧嘩を……いえ、どうしようもない話ですね」

苦し紛れに笑った声は宙へ浮く。男は笑わなかった。

それで良い。この男に言ったところで何も変わりはしない。キャリーケースの中にはいつも一泊できる程度の服と下着、簡易用の化粧品と通帳。それだけが入っていた。大荷物というには大袈裟だった。

一日、夜が明ければ今日のことなどいつものようにけんちゃんは忘れている。私にとっても彼にとってもそれは当たり前のことで、いつも以上にいつも通りのことだった。

「どうしようもない話には聞こえないけど」

そんな私の気持ちとは裏腹に、その声は胸の奥へ入り込んでくる。おっとりとしているのに、どこか芯の通ったそれが。

答える必要はない。嘘をつけばいい。何も問題などないのだから。

「私が、悪いから」

心とは裏腹にぽつり、言葉がひとつ転がった。

心臓が静かに脈打ち出し、ひどい嫌悪感が足の裏からぞわりと這い上がってくる。女の下着、艶めかしい声、畳に滴った血、思い出そうとしても思い出せない、けんちゃんが私に言い放った言葉。

私が悪い、私が悪い、そう呪詛のように繰り返し心は自然と唱え始める。身体が静かに強張り、俯いた先の絨毯に伸びたいくつもの線をひたすら目で追った。

「きみが悪いと、だめなの?」

しばらくの沈黙を咀嚼して、柔らかい声はそう問うた。

予想外、けれどあまりにも滑稽な質問に私は思わず笑った。男も笑うと思ったが、部屋には静寂しか流れなかった。

「そんなの、だめに決まってる」

「どうして」

「どう…してって」

少しずつ声が震えていく。違う。これは普通の会話だ。こんなことで惑わされるわけにはいかない。

「彼が…彼が悲しむから」

「悲しむのは悪いことなの?」

「悪い!!」

声を荒げた自分に驚く。心臓は激しく脈打ち、目の前に座ったままの男を睨みつける。こんなにも誰かに敵意を持ったのは久しぶりだった。

「またどうしてって聞くの!?」

「僕は今、その唇の傷に聞いてるんだ」

軟膏が塗られたままの唇が、またチクリと痛む。嚙みしめようとして滑った唇の端が震えた。

「きみが悪いと彼が悲しむ。彼が悲しむとどうしていけないのか教えて欲しいんだ」

丸眼鏡の奥の瞳が、責めるわけでも畳み掛けるわけでもなく、ただ私に問う。

私の傷口に、問う。

まただ。溢れ出してしまいそうな何かに喉が締め付けられそうだった。それなのに言葉は出てこない。

こんな傷なんてなにも言っていない。今も、今までだって一言も。


チリンとまたひとつ鳴った風鈴の音に、母親の背中を思い出した。



「ひとりはもう、いやだ」



その瞬間、勝手に唇が動いていた。

玄関から出て行く母親の背中を、風鈴の音と共に見送ったあの光景を思い浮かべて。

母親が去ってから、夜はいつも包丁を枕の下に忍ばせて眠った。いつ父親が入ってくるか分からなかったからだ。だけど乱暴も、暴力も、黙っていれば過ぎるものだった。

私が何も言わなければ、動かなければ。


出た、だんまり。


けんちゃんのお決まりの言葉が今更になって痛いほどに頭の中で響く。だって黙っていたら怖いのは収まっていくんだよ。必死で足を踏ん張って動かずにいれば、暴力だっていつかは過ぎ去っていくんだよ。握った拳の甲を水滴が止めどなく、不規則に落ちては濡らした。涙だった。

本当は何度だって言いたかった。でも言えなかった。

「置いていかないで」

「うん」

「なにも言わないから捨てないで」

「うん」

「いい子にするから怖いことはしないで」

堪えていた言葉が噴き出すように唇から勝手に溢れては消えて行く。肯定も否定もせず、男はただ相槌を打ってその言葉の断片を受け止めていた。息を止めたって言葉が溢れ出す。これ以上は言いたくない、言ったら壊れてしまう。それなのに、


「わたしを愛して」


唇が勝手に紡いだ最後の言葉に、私は身体を丸めて声を上げて泣いた。

泣いている。泣いたら酷いことをされるのを、私は痛いほど知っている。そうやってずっと箱の中にしまい込んでいたものが、音を立てて足元に落とされて行く気がした。

しゃくりあげる私の嗚咽だけが、風鈴の音とともに空気を震わせていた。


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