No.9 この子を普通にしてください
「先生、この子を普通にしてください」
あの日は確かこんなふうに中途半端な暑さが残る夏の夕暮れだった。窓際のガジュマルの葉は忙しさにかまけて放っておいたので首をもたげ、机の上は整理し切れていない紙カルテの束がミルフィーユのようにひしめきあっていた。
厳格な父親ともいうべきか、皺ひとつないビジネススーツをしっかり身にまとい腕組みをする男性と、傍らには気の弱そうで今にも泣きそうなほど眉を垂れさせた女性が立っており、その間に置かれた椅子には男の子がひとり座っていた。
眼前に座ったまま動かない少年は身体の線が見えないサイズのジャージを身にまとい、頑なに俯いたままのその表情には不安と恐怖が滲み出ていた。そして何より、白く伸びた喉の中央に痛々しく青黒い痣が見えたを覚えている。
父親によれば少年は十二歳であり来年から中学へ進学する予定だが、ちょうど小学三年に上がった夏から突然学校を休み始め、その日を境に言葉を一言も発さなくなったという。もともと口数の少ない子供ではあったものの、いくら両親が詰め寄り理由を聞こうにも一切口を開くことはなかったそうだ。この両親は約三年の間、我が子の声を聞いていない。
「普通」とは何か?
口を開けばすぐ出てしまいそうな言葉だったが、この両親、特に父親にとってその質問はあまりに滑稽で軽率だろう。事は一大事なのだ。たとえここへ連れてくるために少年の頬を殴っていたとしても。
「僕は八雲といいます。数字の八に、雲はお空に浮かんでいるふわふわした白い雲。それで、八雲。きみの名前は?」
「夕日です、沖野夕日」
僕の言葉を遮るように父親が言う。手のひらに雲のイラストを描きかけた指を止めて彼を見上げる。眉間に皺を寄せたその下では眼光が鋭く光り、やるせなさとは違う焦燥に駆られた怒りが垣間見えた。母親を見やれば少年のように俯いたまま手をもじもじと動かしている。
「お父さんお母さんすみません、この子と二人きりにさせてはいただけないでしょうか」
僕の言葉に父親は唇を震わせ、母親は顔を上げて僕と父親の二人の顔を交互に見やった。彼女の瞳に少年の姿は映っていない。特に策略を練って言ったわけではないが、この家族の間に漠然と流れる力が垣間見えてしまった。しばらくの静寂の後「十分だけ」という約束を残し、両親は隣の部屋へと移って行った。
「僕にしては手荒なことをしてしまった」
部屋の扉を閉めながらそんな独り言を誰にともなくこぼす。ひとつ振り返って少年を見ると、肩をすくめて先程より小さくなった姿が見えた。
タイムリミットは十分。仮説ならいくらでも出てくる。吃音の回避による緘黙、精神的に揺さぶられた結果の失語症、派手なヒステリー、対象は定かではないが極度の対人恐怖。けれど目の前の少年に対してはどれも棄却する仮説ばかりだった。
時計の秒針を聞きながら、僕は少年の足元に落ちたままの雑誌を手に取って見せる。
「この部屋、汚いでしょう」
散らばった紙の束や雑誌、ブラウンケットを片づけながらそんなことを言う。少年の頬は先程と変わらず硬く張りつめたままだ。
「どうやらこの世界のルールによると汚いところは綺麗にしないといけないらしいんだよね。見てこの白衣、全然着てないのにこんなに汚いの」
床に放っておいた白衣を広げて見せる。いつどこでついたのか分からないチョコレートの食べカスや謎の足跡、襟元なんかは皮脂で黄ばんでいて、自分で少年に見せておきながらつい恥ずかしくなって笑ってしまう。少年は白衣を眺めながらほんの少し表情を緩ませた。笑ったわけではなく、力が抜けたような具合に。
「でも綺麗にするにはどこが汚れているのか見る必要があってね。できればこんな汚い白衣は触りたくもないんだけど、嫌だし苦痛だから。だけどどこが汚れているのかを知るためにはそれがどうしても必要なことだったりする」
それだけ言って白衣を乱雑に丸めると、それを机の上へ置いた。少年の前にある一人掛けソファを指さして「座っても?」と聞くと、少年は小さく頷いた。僕はお礼を言って静かに座る。再び彼の身体が強張り、無言の緊張が嫌というほど伝わってくる。
「ねぇ、きみはお父さんやお母さんになんて言われてここへ来たの?」
そう問いかけると途端に少年の目線が泳ぎ出し、絨毯の模様をオドオドとなぞった。そして彼の手がピクリと動いたかと思えば、その手は喉元の青黒い痣へ伸びてギュウとそこをつねるのだった。
ああ、きみはいつもこうしてきたのか。
相当な力でつねっているのか少年の細い指先は震え、その指先の爪は深く切られていた。その瞬間ふと今にも泣き出しそうだったあの母親の顔を思い出す。彼がいつもこうするときにせめて傷がつかないようにと短く切ったのはおそらく彼女だろう。
「じゃん。こんなものがあるんだけど」
僕は胸ポケットから小さなリングノートを引っ張り出して見せた。少年は不思議そうにそれを見つめ、その次に僕の顔を見る。ようやく目が合った少年の瞳はまるで飴玉のように丸く透き通っていて、あどけなさの残る顔立ちを引き立たせていた。
「最初に僕が自己紹介したの覚えてる?手に書きながらやったやつ」
少年は一呼吸おいて頷く。机のペンケースに引っ掛けておいた赤いペンを手に取り、あのとき書きかけたふわふわの雲をもう一度手のひらに書いて見せた。「ふわふわの雲。わかる?」そう尋ねるとまたひとつ少年が頷く。
「方法なんてなんでもいい。何かを言うことと伝えることは似ているようで違うんだ。これは僕からのプレゼント。なにか伝えたいことがあったとき、きみがいつでも使えるように。ね、今日はもうお医者さんごっこはおしまいにしよう」
その言葉に彼は喉からゆっくり手を放した。そのタイミングでリングノートと赤いペンを手渡すと、彼はしばらくそれを見つめてペラペラとめくった。ノートの内容は本当を言うと個人情報の嵐だったが、少年を思えば痛くもかゆくもないものだった。
僕は頬杖をついてその様子をしばらく見ていた。彼の手が止まればそのページを覗いて軽く話し、彼が赤ペンに触れれば机の上のペンケースを見せたりした。なんの他愛もないこの時間が、僕と少年にとっては少なくとも必要なものだった。
タイムリミットになる十分の手前、僕が軽く伸びをして両親を迎えに行こうと席を立った瞬間、彼はペンをノートに押し付けた。
『う』
空白にひとつ彩られた文字。僕はゆっくりと座り直し、少年が顔色を伺うように見やる目線にひとつ頷いた。
『うまれかわったら』
一つずつ文字を紡いでいく男の子の手は震えていて、今にもペンを取り落としてしまいそうだった。年齢に比してその文字は驚くほど幼く、漢字のひとつもないのっぺらとした文字の列。ただそこに少年の手が震えるほどの意思が、必死な想いが詰まっているのは確かだった。
うまれかわったら、その言葉尻でペンが止まる。ノートの中の白い静寂が彼の戸惑いを写したままに、風鈴がちりんと鳴り響く。ポタリとノートの白に落ちた涙の先で、彼は続けた。
『うまれかわったら、おんなのこになりたい』
「八雲先生、石巻洋介です。セッション六回目です。えっと…頑張ります」
ジィィ…という機械音と共に聞き覚えのある弱々しい声が室内に響く。夕日と静香さんが去ったあと、石巻くんから携帯に送られてきたムービーを眺めていた。ティーカップに入った紅茶は香りも熱もすっかり抜けきっていたが、久々に思い出したいつぞやの回想から頭を覚まさせてくれた。折井静香さん。彼女の言ったなんてことのない一言がどこか尾を引いていた。「消えないの?」、その一言が。
「記憶ねぇ…」
頬杖をついてひとりごち、携帯の小さな画面の中でせわしなく動く石巻くんの姿をぼんやり見つめる。あの言葉で思い返された二番目の記憶が夕日との出会いとは、興味深いようで複雑な心持ちだった。思い返される記憶など山ほどある。もちろんそれに基づいてやるべきことも、やらなければ終わらないことも沢山ある。一番最初に思い返された記憶が沸き上がりそうになりとっさに窓の外を見やる。空の紺色は濃く深く、目線をずらせばちょうど噂の夕日が静香さんと花壇の傍で何かやりとりしているところだった。
「こんちわ」
外の二人を迎えに行こうと腰を上げた瞬間、タイミングを見計らったかのように部屋の扉が開いた。顔を出したのは見慣れた制服姿の青年。僕と目が合うと彼はいつも通りぺこっと頭を下げた。それに応えるようにひらりと手を振る。
痩身で高い背丈と比例して年齢より大人びて見える顔立ち。毎日見ているというのに、その眉間には日に日に皺が増えていっている気がする。手に持ったスーパーの袋を見てそれも仕方ないかとも思う。彼は誰かを探すように部屋の中をきょろきょろと見回した。その人物ならすぐに見当がつく。
「万理江さんならいつもの部屋にいるよ」
「っす」
挨拶も早々に踵を返す背中を見届けようと立ち上がると、珍しく彼がこちらを振り返る。
「なんか夕日が知らない人と、外に」
「そうだね、僕は知ってるから大丈夫。どうして聞いたの?」
何か言いかけて彼はビニール袋を持ち直す。
「や…あいつがマル以外といるの珍しいから」
別に深い意味なんてないっす、そうぶっきらぼうに付け加えた彼はそそくさと部屋を出ようとする。その様子に「ちょっと待って」と思わず制止をかけてしまった。振り返ったその目は意外といった具合に少し動揺しており、それを見ると人間味を感じてどこか安堵する。携帯のムービーはちょうど終わったようで暗転していた。
記憶と記憶は交差する。夕日との出会いがモノクロではなく鮮明に思い返されるのはきっと僕だけではない。
「今日はうちでご飯にしよう。夕日に新しい家族が増えたんだ」
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