No.4 私が悪い
重たいビニール袋を下げて、炎天下が鎮まった夕暮れの道を歩く。少し高めのヒールにしたことを悔やんだ。たかが数時間、しかもその一時間はただ座っていただけだというのにもうカカトが靴擦れを起こしていた。今日は精の出るものを、そう思ったがさすがに買いすぎた。けれどきっと彼はお腹を空かせて帰ってくるだろう。
アパートの扉の前に立ちカバンの中を探って鍵を探す。重い荷物に少しつまずいてドアノブを捻ると、閉まっているはずの扉はいとも簡単に開いた。しまった、もう先に帰っていたなんて。プリンだけは置いていったけれど、きっとお腹を空かせているに違いない。焦って扉を開けると、狭い玄関に見慣れない真っ赤なハイヒールが一足、余裕なくバラバラと転がっていた。
まるで閃光が走ったように目の前が白くなり、耳は遠くなる。
ヒールの傍にはレースが付いたキャミソールとデニム生地のスカート、小さい下着が点々と廊下を進んだ跡のように脱ぎ捨てられていた。手に持った袋はそのままにそっと後ろ手でドアを閉じると、いつもの静寂の中に艶めいた声が聞こえてきた。
カカトは痛む。脱いだヒールを揃えて置くと、私は冷たいフローリングの廊下を進んでいく。近くなるたび鮮明に聞こえてくる女の艶めかしい声とソファベッドの軋む音。開け放たれたままの居間に顔を出すと、彼が見知らぬ女と絡み合っていた。
「けんちゃん」
自分でも驚くほど気丈な声だった。あの男の声のように。最初に気付いたのは女の方だった。アイラインがくっきりと引かれた瞳は私を見るなり大きく見開かれ、きゃあっとその華奢な身体を跳ねさる。その女の股へ顔を埋めていた彼が、数秒遅れてこちらを振り向いた。
「…ただいま…」
「今日仕事なんじゃなかったっけ?」
彼の不機嫌そうな声と大きなため息を聞いたとたん、まるで張り付けにされたように身体が動かなくなった。この感覚を、私は嫌というほど知っている。ビニール袋を手に持ったまま足元の空になったペットボトルを見つめた。喉を通るのは息だけで、問われた質問に何も答えられない。
「なぁ」
ソファベッドが軋んで彼が立ち上がったのが分かる。身体が強張る前に頬へ激しい痛みが走った。きゃあ、また女が甲高い声を上げる。
「なんか言えって、なんでいるんですか」
言葉と言葉の間に絶え間なく打ち付けられる平手に、舌を噛まないよう必死で歯を食いしばる。早く帰って、ごはん作りたかったの。たったそれだけの言葉が喉につかえて舌の根の奥で止まってしまう。いつものことだ、いつも通りのことだ。
「出た、だんまり」
最後の平手打ちをくらって、思わず態勢が崩れてしまう。空のペットボトルを踏んだ痛みとともに床へ崩れ落ち、また身体が動かなくなる。それから二、三回頬を打たれた。
私が悪い、私が悪い、私が悪い。呪文のように言い聞かせる。食いしばった歯に治りかけていた唇の傷が擦れて切れ、鼻から垂れ落ちる血が畳の隙間を滲ませる。
部屋はシンと静まり返り、ポタポタと滴る鼻血の音と時計の秒針の音だけが空気を震わせていた。
「何か言いたいことあるなら、なんでも言っていいんだよ」
ふと優しい声が頭上から降ってきた。あぁ、いつものけんちゃんだ。心の中にあたたかいものが流れ込んでくるのに、顔を上げることができない。
けれど今なら聞いてくれるかもしれない。大丈夫かもしれない。
「わ…」
「わ?」
あやすような声が私の言葉を優しく後押しする。いつもこうしてくれる。私が何も言えなくなると、けんちゃんは言えるようになるまでちゃんと聞いてくれる。それだけで嬉しくて涙が出そうだった。なのに身体は小さく震えていた。大丈夫、大丈夫。そう言い聞かせて口を開く。
「わ、別れたく、ない」
振り絞った声は自分でも聞こえないくらい小さかった。やっと伝えることができた。精一杯の気持ちだった。けんちゃんきっと淋しかったんだ。今日出会った男のように。私が淋しくさえさせなければ。
「いいけど、俺お前のこと性欲処理にしか使わないよ」
ようやく顔を上げた私に、けんちゃんは表情を崩さず吐き捨てるようにそう言った。ずっと言いたかったけど、と付け加えて。彼は立ち上がるとまたソファベッドへ戻っていく。女は「いいの?」と苦笑した。その口元のグロスは乱れて色が少し褪せて見えた。
私は動くこともできず、けんちゃんがその女の身体を丁寧に愛撫する姿をただ見ていた。女の姿が私と重なる。あんなふうに優しく抱いてくれたことだって、きっとあった。
ソファベッドの横にある小さな棚から避妊具を取り出すついでに、けんちゃんはようやくこちらを見る。
「いつまでいんの?」
私は音を立てないように立ち上がると、ゴミをよけながらそっと居間を出た。後ろからは女の控えめな喘ぎ声が聞こえた。
私が悪い、私が悪い、私が悪い、私が、淋しくさえさせなければ。滲んだ涙さえ彼に申し訳なくて、バスルームの隅にタオルをかけておいたキャリーケースの取っ手を震える手で握った。
フローリングは冷たい。頬はチリチリと熱い。カカトから滲む血がフローリングを汚しているような気がしたけれど、女の服を汚さないようによけながら歩いて行った。
どれくらい歩いたのだろう。とっぷり暗くなった道を月明かりが照らしていた。キャリーケースはコロコロと大げさに音を立て、カカトから溢れる血で時折足を滑らせそうになった。どこか遠くから子供の声が聞こえる。夕飯どきだからだ。温かい食卓に弾む会話、笑い声に満ちた部屋の一室を思い浮かべる。
何も感じなかった。悲しさも、怒りも、苦しさも、何も感じることができなかった。
このまま行ったら行き止まりか。適当に曲がり角をまた曲がる。見たこともない道だった。両脇は高い垣根に覆われ、古い家々が軒を連ねていた。街灯もなく、人もいない。蝉の鳴き声は弱々しく、辺りを見回すと中途半端に欠けた月だけがぽっかりと暗闇に浮かんで流れゆく雲をただ照らしていた。
急に独りぼっちになった気がした。
違う。明日になって帰れば今日のことなんてきっと彼は忘れている。そしてまた笑ってごめんねと言ってくれる。頬を撫でて、唇の傷も消毒してキスをしてくれる。今までだってずっとそうだったじゃない。
道路沿いに白い光を放つ自動販売機が見えた。キャリーケースを引きずるようにして近寄り、立ち止まる。冷たいものでも飲んで、それから無言で出ていったことをけんちゃんに電話で謝ろう。もしかしたらもう帰っても大丈夫かもしれない。彼の好きなコーラが目に入り、買って帰れば喜ぶかもしれないと財布を取り出して広げた。
「あ」
お札の間に挟まった紙切れが指先に触れる。
ちゃんと、自分のこと大事にしたいから。
沢山会話をしたというのに、訳もなくその言葉だけが頭に響き渡った。その瞬間涙より先に嗚咽が出て、私は自販機にしがみつくように崩れ落ちた。何かが湧き出てしまいそうだった。ずっと箱の中にしまって川底に沈めていたものが、まるで浮かび上がってくるように。
カバンを探って携帯を取り出す。紙切れに書いてある番号を震える指先でプッシュした。ワンコール、ツーコール、無機質なコール音だけが鳴り響く。自分が何をしているかなんて分からなかった。けれど今ならラブホテルで最後まであの男を受け止められる気がした。死にたいなんて気持ちも、男を押し潰そうとする孤独も、きっと全部包み込んであげられる。
握りしめた携帯の向こうで、やっと電話がつながった。
「もしもし、八雲診療所です」
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