No.5 この人が、八雲先生


 受話器の向こうから聞こえてきたのは、昼間出会った男の声とは明らかに違った。皺の入り込んだような、どこか柔らかい声。間違いました、そう言って切ることもできたけれど、それを躊躇させたのは「八雲」というフレーズにどこか聞き覚えがあったからだった。

 何も言えずに携帯を握りしめたまま、私は自販機の冷たい身体にもたれたまま動けなかった。

「どうされました?」

 耳元で響く声は、こちらの返答を急がせるわけでもなく、待ち望むわけでもなくゆったりと腰を据えていた。先ほどまでうるさいほど掻き立っていた胸の動悸がその声と共に鎮まっていく。こんな、声ひとつで。同時に色々な何かが胸の内に込み上げて、泉のように溢れ出しそうになる。言いたいことなど何ひとつまとまってはいなかった。けれど何か声にしなければ、そう思い口を開けたとき、道の遠くから鈴の音が微かに聞こえてきた。

 弱々しい月明かりだけが頼りの街灯もない田舎道。その暗闇の先で、不規則に揺れてせわしなく鈴の音が近づいてきている。電話の返答も忘れてその音に目を細めた。

 ようやく姿が見えてきたそれにぎょっとする。白い毛をなびかせて首に黄色い首輪をつけた一匹の大きな犬が、にっこり笑うように口角を上げて走り込んで来るところだったのだ。私は電話どころでなくなりとっさに通話ボタンを切る。あぁ、と声に出すより先に鮮明に犬の駆けてくる音が聞こえ、あっという間に距離を詰められた私は逃げることもできず全身にタックルをお見舞いされてしまった。

「ちょ、ちょっと待って」

 千切れそうなほどその白い尻尾を振り回し、ぴょんぴょんと跳ねては座り込んだままの私の身体へ体当たりする。大きな白い犬。その毛並みは決していいとは言えなかったが、弾けんばかりの騒々しさと私の口元を舐めにかかる果敢さに自然と口角が上がった気がした。

 首輪をよく見れば中央にぶら下がる銀色の名前プレートには「マル」と書かれており、繋がれたリードはズルズルと引きずられていた。千切れたわけではないらしい。少し落ち着いた犬の毛深い顔を両手で包み込む。


あったかい。


 その温かさに触れた瞬間なぜか喉がチリチリと痛み、ハッハッと忙しく長い舌を出して息をする彼、あるいは彼女の澄んだ瞳が滲んで見えた。そういえば電話を切ってしまったのだった、そう思い携帯に再び手を伸ばした瞬間、今度はパタパタと小さな足音が聞こえてきた。またもや街灯もない道を細目で縫うように見ていると、その先には必死で走ってくる人の姿。

 その人物は犬を見ると一目散にこちらへ駆けてきた。

 そして私と犬の目の前で急ブレーキして立ち止まり、膝に手をつけてハァハァと肩で息をする。見たところ十四か十五の、まだあどけなさの残る少年だった。夕方でもまだ蒸し暑いというのに長袖長ズボンのジャージを身にまとい、首元に巻かれたネックウォーマーがどこか歪だった。

「きみの犬?」

 まだ息も整わぬ彼に問うと、コクコクと首が取れてしまいそうなほどに頷く。犬も少年も全力疾走で満身創痍、といった具合だった。私の顔を見るなり彼はズボンに手を突っ込むと、使い込まれた小さなメモ帳とボールペンを取り出した。

『けが、大丈夫ですか』

 ミミズのように走り書かれたそれと、少年の顔を交互に見る。

 耳が聞こえない?けれど私の質問には頷いて見せたはずだ。少年の目はよく見ると飴玉のように丸く、透き通って向こうが見えてしまいそうなほどだった。

『ちりょうしないと』

 またも書かれた文字にはっとする。心配そうな顔が控えめに私の顔を覗き込む。思わず目を背けてしまった。きっと頬が晴れて、口元に滲んだ血が彼をそんな顔にさせたのだろう。

「だ、大丈夫だよ。いつも…」

 いつも。その先の言葉が出てこなくて思わず噛み締めた唇に鈍痛が走る。

『お礼させてください』

 俯いた私の目の前に、下手くそな文字が差し出される。見上げると少年は真剣な顔をして私を見つめていた。凝視されるのは苦手だった。いつからかは分からない。ただ見られると身体が強張って、自分の身体のくせにいつも思い通りにいかなくなる。だから嫌いだった。

 けれどこの瞳はどこか違った。私は頷くと、犬のリードを彼に手渡した。


 少年と犬に連れられて人気の無い田舎のあぜ道を歩いた。車通りなどなかったし人気もなかったのでハイヒールを脱いで両手にそれぞれ持っていると、少年が代わりに何も言わず持ってくれた。どうして何も言わないのだろう。それを聞くのは違う気がして、私は少年の小さな背中にただついていった。今日は不思議な人によく出会う。

 そうこうしていると目的地に着いたのか彼は小さな門を指さした。垣根が両脇にある小さな門。その先には細い道に砂利が敷かれていて、一歩進むたびに足の裏が痛んだ。少し行くと控えめに佇む建物が頭を出した。

 外壁は色褪せた赤レンガが積まれ、なんというか古風、まるで誰にも見つからないようにとでも言うようにひっそりとした雰囲気を醸し出していた。白く塗装されたドアの横には、古びたガーデンライトに「八雲診療所」とだけ書かれた木彫り看板がぶら下がっている。

 八雲、診療所。

 私はあっけにとられて思わず立ち止まる。気味の悪い偶然、とでもいうのか。そして先ほどの受話器の向こうから聞こえた声を思い出す。

「マル、夕日、おかえり。お客さんかな?」

 そうだ、この声だ。声がした方を見ると、入り口の開かれたドアに人がひとり寄りかかっていた。肘のあたりまでまくられた薄いブルーのシャツに、少し色褪せた黒のスーツパンツ。少し脱色された長めの髪はゆるく結われ、そのまま鎖骨の辺りまで落ちている。艶を帯びた目は垂れ、丸い眼鏡が外灯の光で淡く反射していた。

 この人が、八雲先生。

 彼は私と目が合うと、なにも言わずににっこり微笑んだ。


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