No.8 まほう使い


『おふろに案内しますね』

 そう書かれたノートにひとつ頷く。部屋の奥からは「着替えるなら夕日のトレーナー貸してあげてね」と間延びした声。少年は飴色の瞳で私を見ると、満足そうに頷いて私の手をとった。温かい手。子供体温とでもいうのだろうか。

 廊下に出るとひんやりとした空気が建物の中を覆っていた。コーヒーの後味はまだ舌の根に残り、その冷気をひとつ吸い込んでは茶色い息を吐き出した。パタパタと足音がしたかと思えば先ほど見た白い犬が首元の名札を揺らしてこちらへ駆けてくる。少年は私の手を握ったまま犬の前へしゃがむと、その額を犬の額へくしゃくしゃと擦り付ける。器用なものだ。

「あの…私はきみをなんて呼べばいいのかな」

 少年はすぐ振り返り、少し考えたあとノートにペンを走らせた。

『夕日とよんでください』

「夕日…くん?」

 呼び捨てで呼ぶにはあまりにも早くて、けれどとっさに後付けした敬称に少年は犬を撫でる手を一瞬止めた。その一瞬、それだけでも彼が何かを躊躇したのか分かる。まずいことでも言っただろうか。私の心配とは裏腹に少年、夕日くんはこちらを振り返ると何事もなかったかのようにコクコクと頷いた。胸をひとつ撫で下ろすと同時に、どこからかカタカタと規則正しい機械の音が聞こえてきた。音を辿るように目線を動かすと、階段のちょうどすぐ左手にある部屋が目に入った。その部屋の扉は開かれていて、機械の音と共に淡い光が廊下に漏れ出していた。『まだ残業している人がいるのです』、そう教えてくれた夕日くんの文字を思い出す。あのときはそんなことを気に留める暇もなかったが、まだ「残業」が続いているとは思わなかった。

 夕日くんは私の顔やその目線を見ると思い出したように跳ね、私の手を引いて一目散にその部屋へと向かった。ちょっと待ってと制止をかける暇もなく、人質に取られた私の腕ごとそのまま身体が引きずられて行く。



 部屋は思ったより薄暗かった。

 襖のようなパーテーションの奥から先程と変わらぬ規則正しい機械音が聞こえる。その奥、淡いオレンジ色の光に灯されて小さな影がぼんやりと見えた。モルタルの壁には色々な薬の名前と、その横には数字がチョークでびっしりと書き込まれていた。

 夕日くんに連れられておっかなびっくり奥へと進む。パーテーションの向こうには、背中が少し丸くなった女性がアンティーク調の椅子にちょこんと座っていた。彼女は私たちの存在に気付くことなく目の前にある機械の格子状の穴へ色々な薬を一粒ずつ入れていた。

 看護師さん、ではなさそうだ。

 手編みのように粗いベージュのセーターの上から膝下までブランケットを羽織り、先程の機械から出た何かを取り出している。夕日くんは一切の躊躇なくその肩を叩くと、女性は驚いたように振り向いた。

 少しシワが目立つが若い時は綺麗だったのだろう、鷲のクチバシのように鼻の頭がくぼんでいるのがやけに特徴的で、そこからスッと通る鼻筋がその面影を見せていた。

「あらあら、夕日。もうお仕事は終わったの?」

 夕日くんはその女性の柔らかい声に頷く。

「これは明日の患者さんの分なのよ、八雲先生が困らないように」

 そうして大切そうに手に取ったのは、薄い和紙のようなものに包まれてしっかり口を閉じられた包み。それが卵ボーロの包みのように縦に連なっていた。微笑む彼女の表情は柔らかくおっとりと腰を据えていた。けれどその瞳は夕日くんでも私でもなくぼんやり遠くを見ていて、それがどこか違和感を抱かせる。

 壁に掛けられた時計を見るなり、彼女はいそいそと機械の掃除をし始めた。

『おしまいですか?』

夕日くんがそう書いたノートを見せると彼女はパッとちくはぐな笑顔を浮かべる。

「そろそろパリに戻らなくちゃいけないの。王室が閉まっちゃう…お父様は門限に厳しいから急がなくっちゃ」

 私は彼女のはにかむ表情を見ながら、なんとなくさっき感じた違和感の色々を察した。嘘をつくような人には見えない。もちろん冗談という口ぶりでもなかった。私が少し戸惑っていても夕日くんは気にも留めずマリーおばさんの言葉に笑顔で頷いて見せた。

『今日の晩ごはんは?』

「どうかしら。最近はクリームグラッセが美味しいの、グリーンアスパラが添えてあってね、本当はワインが合うのでしょうけど、私はいつもお水しか飲めないの」

 彼女の口からはスラスラとそんなカタカナの食べ物の名前がポンポンと出てくる。その間にも、スー、スーと定規か何かでその機械の手前にある溝をはけていく。口から紡がれる言葉とその作業のギャップに気を取られていると、作業をしていた彼女とふと目が合う。

「あらあら、夕日のお友達?」

 はっとして思わず背をぴんと伸ばす。

「はじめまして、えっと…折井静香と申します」

「あらあら、あらあら」

 彼女は上瞼をたるませて夕日くんのノートを手に取った。丸みを帯びた手の甲。薄い皮に血管がでこぼこと浮き出たしわくちゃの手。祖母などいなかった私にはその姿が、その仕草の一つ一つが新鮮に思えた。何か書くものを探していたようなので夕日くんがペンを渡すと、彼女はページをめくってスラスラと何かを書く。

「どうぞ、よろしくね」

 手渡されたノートには苗字でも名前でもなく、「装いは知恵である」とひどく達筆な字でそう書いてあった。女優であり、友人でもある人の言葉だと彼女は微笑みながら言った。





『マリーおばさんは、おもしろい人です』

 すっかり薄暗くなって花の色さえ霞んで見えない花壇のそばに、私と夕日くんは座っていた。お風呂に入る前に外の空気を吸いたいと私が申し出たのだ。色々なことがあったから、少しでも冷えた風に当たりたかった。

 膝のあたりまで積まれたレンガの花壇はぐるりとこの建物を囲むようにできていた。私たちはその手前、診療所の入り口のすぐそばにあるところへしゃがんで何をするでもなくぼんやり花壇を見ていた。

 マリーおばさんとはあの女性のことだろう。ふと彼女の顔や面影を思い出す。面白いというより不思議な人というのが正直なところの印象だった。私たちの姿をヴェール越しに見ているかのようで。

「きみ…夕日くんはここに住んでいるの?」

 私の問いに夕日くんはノートを広げる。使いこまれたリングノート。紙は色あせて少し黄ばんでいる。彼はいつからこんなふうに人と言葉を交わすことをしているのだろう。一生懸命に文字を綴るその細い指をよく見ると、中指のちょうど爪の根にペンだこができている。そんなことを聞くのはひどく滑稽で、何より彼を傷つけてしまいそうな気がして躊躇われた。

『ここに住んで、八雲先生のじょしゅをしています』

「助手…お手伝い?」

 コクコクとまた彼は頷く。住み込みで助手だなんてずいぶん熱心なものだ。

「八雲…先生は、どんな人?」

 茎の先にたくさんの花を咲かせているその先端に触れながら、私はふと問う。掴みどころのない人物だけれど、彼の助手だという夕日くんならば多少何か知っているはずだ。夕日くんは少し首をかしげて、リングノートを見つめたり宙を眺めたりする。

『まほう使いみたいな人です』

 書かれた文字に私は深くふかく首をかしげた。

「どういうこと?あ…お医者さんだから薬の調合がすごいとか?」

 ぷるぷると小さな頭を振って彼は否定する。冗談のつもりで言ったのだから少しくらい笑ってもいいのに。ぷちぷちと花びらをちぎり、それを土の中へ埋めながら言葉の意味を考える。魔法、魔法ね。よく観る映画の主人公みたいにステッキを振って、きらきらとまぶしい光の粉をかけるの?我ながらまたたくましい想像力に力なく笑ってしまう。「装いは知恵である」、そう書かれたマリーおばさんの言葉を思い出す。魔法使いが装いならば、その知恵だって科学的なもののはずだ。なのにそんな非科学的な言葉。

「魔法にかけられたらどうなるのかな」

 誰にでもなく口にする。遠くでまた風鈴が刹那に鳴り響いた。胸の芯まで響くようなそれに思わず花の首を折る。

『どうなるとおもいますか』

 夕日くんがノートにそう紡ぐ。薄暗くなった花壇の傍なんかではその線はあまりに細く頼りない。けれどその言葉への答えが見つからないことの方がもどかしかった。私が魔法をかけられたなら。分からないことを誤魔化すように少年の頬をひとつつねろうとしたとき、彼の目がふと何かをとらえてたちまち笑顔になった。何事かとその目線を追えば、ちょうど何者かが診療所の中へ入ろうとしている。

『千早くんです』

 早口で言うかのようにペンを走らせると夕日くんはそちらへぶんぶんと手を振った。青年はこちらに気付いて一瞬足を止める。ワイシャツと真っ黒い制服のスラックス。背丈は高いものの学生カバンを背負っているところを見るとどうやら高校生、夕日くんより少し年上に見えた。手にはスーパーのビニール袋を持っていて、部活帰りの買い物にしては量が多い気がした。

 きりっとした彫りの深い顔立ちに栗色の短髪。眉間には皺が数本見えるが悪意はないような、こざっぱりとした出で立ちだった。それよりもあの鼻の形、さっき見たような…確認するより早く彼はこちらに軽く手を上げると、診療所の中へ入っていった。

 彼は何者か、それを聞く前に夕日くんは立ち上がり、リングノートに何かを書き出す。ああ、そろそろお風呂に入らなければ魔法使いが心配してしまうか。重たい腰を上げて少し伸びをする。申し訳程度に散りばめられた星は電線に引っかかることなく空の紺色の中で瞬いている。

 ほう、とひとつ息を吐いた。

 色々あるけれどここはたぶん、安心できる場所なのだと思う。痛むかかとをもう片方の足でさすりながら、ふと差し出されたノートを横目で見る。

『私もまだ、まほうにかけられている途中なので分からないのです』

 私。

 まだ書き慣れていないようなその文字ひとつと夕日くんを交互に見つめる。時間が止まったような気がした。彼の心を詮索する言葉も場を和ませるようなうまい冗談も、その文字ひとつ見ただけで何も浮かばなかった。

 闇の一歩手前、薄暗く風鈴の鳴り響く花壇の傍で、夕日くんは首に巻かれたネックウォーマーを大切そうにさすった。


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