No.7 ようこそ、八雲診療所へ
涙が枯れる、というのは本当のことのようだ。先ほどまでとめどなく流れていた涙はいつの間にか引っ込んでいて、かわりに瞼が熱を持ち厚ぼったく感じる。頭の中はどこかぼんやりと霧がかかったような具合だったけれど不思議と心地悪くはなかった。あんなに喚き散らしたあとだというのに、八雲という男は何も言わなかった。静寂に少年と犬が階下を駆ける足音がせわしなく響く。
男は立ち上がると、出窓に置かれた植木鉢をそっと机の上へ移した。ガジュマルの木だろうか。いつだったろう、部屋に置いたらけんちゃんが喜ぶと思って購入したことがある。日当たりの悪いあの部屋では水をあげても実らず結局枯らしてしまい、鼻で笑われたことを思い出す。
濃い緑色の葉は出窓からの弱々しい風に少しだけ揺れ、それを男の細い指先が撫でた。
「なにか言わないんですか?」
耐えきれず、というわけでもないが口に出す。
「うーんそうだなぁ」
考えるような仕草をして、男はガジュマルの葉の先をちょんちょんと揺らす。バカなことを言った。自分でふっかけておいて難だが、言ってほしい言葉など見当たらなかった。慰めも同情も、ねぎらいの言葉でさえも今の私には不相応に感じた。困らせただろうか、何でもないですと言いかけると男はおもむろに私を見た。どくりと心臓が鳴り息を呑む。
「紅茶とコーヒー、どっちが好き?」
突然の質問にあっけにとられ、しばらく丸渕眼鏡の奥の瞳を見つめていた。男の手にはどこから出したのか、小さなティーカップが三つ。
「…コーヒー」
「砂糖とミルクは?」
「い…いらないです」
渋いのが好きなんだね、そう言って男は机の奥にあるパーテーションの向こうへふわりと身を翻した。
掴みどころない、そう言うと身も蓋もないがその言葉通りだった。男が何を考えているのか何をしようとしているのか、まったく予想もつかなかった。パーテーションの向こうでは小さなハミングが聞こえる。呑気なものだ。ぽつりと取り残された部屋の真ん中、聞こえないよう小さくため息をつく。
しばらくするとパタパタと階段を上ってくる小さな足音が聞こえ、茶色く褪せた木製の扉が開いた。先ほどの少年が息を切らして入ってきて、私の顔を見るなり急いで扉を閉める。手には大量の白い色々を抱えていた。
少年は駆け寄り私の真ん前に座る。よく見ると整った顔、幼さを残しながらもどこか憂いのある人形のような顔立ちをしている。顔の白さと同様、白く小さな手が私の口元の傷に恐々少し触れ、それから大袈裟なサイズのガーゼが口元へそっと置かれた。その柔らかさにふとけんちゃんの手の感触が思い返されて強く目をつむる。
「ごめんね」
窓からそよぐ風にさえかき消されそうなその言葉に、少年は目を丸くする。
『痛いのはすぐおわります』
少年がノートに書いたその言葉を見て、私は唇を噛み締めると再び目をつむり何度か頷いた。
痛いのはすぐ終わる。すぐ忘れる。そして慣れ親しんだこの痛みがまた襲ってくる。私の内側から掻き毟られるように、外側から無理やり引き剥がされるように。何度も何度も繰り返してきたことだった。
「コーヒーと、夕日は紅茶だね」
口元のガーゼを覆うようにテープが貼られ終わると、男がティーカップを中央の丸いテーブルへ置いた。小花柄のラインが引かれた小さなティーカップ。その中の黒を見つめる。コーヒーには砂糖もミルクもいらなかった。けんちゃんはそれが好きだったけれど、飲んだ後の舌の根にこびりつくような苦さが私は好きじゃなかった。けれど彼が好むなら喜んで高いコーヒーメーカーも買って淹れたし、私もいつしかその味には慣れてしまったように思う。
「思い出すのはエネルギーがいるでしょう」
男の声が空気を揺らす。この男には文脈というものがないのか。またも訳の分からない言葉にたまらず訝しげな目線を送ってしまう。男はそんな目線をものともせず、にこりと笑い返すと続けた。
「このカップは隣町の骨董屋さんで買ったんだけど、そこの店主がすごく良い人でね。安くしてくれた」
何の話か分からなくて私は少年を見る。猫舌なのか何度もふぅふぅと息を吹きかける少年は男の言葉など耳に入っていないようなそんな具合だった。
「そんなことでも思い出す。物ひとつ取ってもね」
男はティーカップをしばらく見たあとゆっくり口へ運んだ。
「きみはこれから色々なことを思い出すと思う。その日の天気や風の向き、アスファルトのにおい、花の色、行きかう人々の表情や服装、身に着けているアクセサリー…そんな些細なことからたくさんのことを思い出す。今そのコーヒーを見て思い出したように」
なめらかに滑る男の言葉はカップに淹れられた黒へと落ち、私の胸の奥にも波紋した。男の話から目を逸らすようにカップを両手で包み込む。コーヒーの熱が手のひらをじわりと温めていき、その熱がすぐさまけんちゃんの体温を思い出させた。体温だけではない。抱きしめられた感触、あの部屋に漂うタバコのにおい、何度も頬へ走った痛みと血の滴る感覚。まるで芋づる式のように熱だけで彼との色々が想起されては胸をがんじがらめにする。
「思い出すのはエネルギーがいるでしょう」、その言葉の意味が分かった気がした。エネルギーがいる。
私は今、思い出すのが苦しいのだ。
「消えないの?」
「そうだね、過去は消えない」
すぐ返った言葉に唇が震え、堪えるように噛み締める。
消えない。
消えることを望んでいるのかさえ今は分からないのに、どうしてそんな言葉が口から出たのか。
「消えないけれど、思い出しても苦しくならないように手伝うことはしたい」
男の顔を見る。先ほどと変わらない柔らかな表情。けれど眼鏡の奥の瞳だけはどこか力強く私を見つめていた。
カップに添えられた手に自然と力がこもる。男の言葉はカップの黒へ深くふかく沈んでいく。そこへ映りこんだ私の顔はクシャクシャで、枯れたと思っていた涙はまた瞳に膜を作ってはギリギリのところで立ち止まる。その黒に浴室のそば、今朝見た鏡でさえ思い出しては胸の奥を毟る。手伝うことはしたいだなんてそんなことを、
「どうして」
ぽつりと震えた喉から絞り出た言葉は声にすらならなかった。男は紅茶かコーヒーか何が入っているのかわからないティーカップをまた口に運び、飲み込むその喉仏が上下に揺れる。ごくありふれた自然な光景、それなのにまたけんちゃんを思い出す。彼の喉仏に触れたことを、それができたとき痛くなかったのかと変なことを言って二人で笑い合ったことも。男は目を細めると私を見つめた。
「君の傷が教えてくれたから。愛されたいと」
ガーゼの奥の傷がチクリと疼くように痛む。違う?そう付け足された問いに私は首を横に振っていた。愛されたい。心の底から這い出てきたその言葉にきっと偽りはない。ただただ真実だった。だからこそ苦しかった。
「さて、今日はもう遅いしお風呂にでも入ってゆっくりするといいよ。夕日に案内をお願いしていいかな」
ひとつ手を叩くと男は立ち上がり、私の隣に座る少年を見る。少年ははっとするとティーカップから口を離し、コクコクとまた首が取れそうなほど頷いた。お風呂だなんて、そう言いかけたが少年が『まかせてください』と自慢げに速記した文字を見て口ごもる。カップを洗うためか男は再び奥のパーテーションへと消えた。
「あっごめんね言い忘れてた。僕は八雲といいます、君の名前を教えてくれるかな」
パーテーションの奥から男、八雲が顔を出して問う。
「静香です。折井…静香」
私の答えに八雲という男は満足げに微笑んだ。
「静香さん、良い名前だね。ようこそ八雲診療所へ」
男はそう残すと奥へ消えていき、私はその手前のガジュマルの木を眺めた。過去は消えない。けれど思い出しても苦しくならないように手伝うことはしたい。彼の言葉を頭の中で反すうした。
ようこそ、八雲診療所へ。
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