No.1 折井静香

 


 汗を吸ったシーツが寝返りを打った足に絡みつき、その居心地の悪さに目が覚めた。なにか夢をみていた気がするが、思い出すのも面倒だった。

 鉛が押し付けられたように重い瞼をこじあけ、枕元の携帯を手に取りボタンを付ければ時刻は昼前である。外はおそらく明るい。真っ白だったカーテンはタバコのヤニでかすかに黄色く、それを通して太陽の光が部屋の中に漏れ出していた。隣を見れば細くて平たい背中が小さく息をしている。ホクロの目立つその背中には汗の粒が無数に転々としていて今にも流れ落ちそうだった。起こさないようにゆっくりと身体を起こし、小さく伸びをする。エアコンの切れた部屋は蒸されたように暑く、陽を受けた畳は今にも湯気をたちのぼらせそうだった。ソファベッドからそっと足を降ろすとちょうど空のペットボトルが転げ、その音に肩が跳ねる。幸い後ろの男は起きていない。無駄に広い十二畳ほどの部屋には畳が敷き詰められていて、私の足音を吸い取るようにそっと軋む。おどけたように「おっと」と声を漏らしながら居間の扉をそっと開け、台所へ向かった。


 居間とは打って変わってひんやりとした空気が、起き抜けの座りきった身体を包む。足元には段ボールの切れ端や色の変わった液体が少しばかり入った飲みかけのペットボトルが散乱していて、私はそれを倒さないようにぼんやりとした世界を進む。引き戸を開け洗面台へ軽く手をかける。

 洗面台にはめ殺された鏡には前よりずいぶんと痩せた顔が映って思わず動きを止める。ぱかっと口を開けて、舌を出してみる。ぽつぽつと斑点があって、中央から先端にかけて少しだけ茶色い。東洋の医学では舌診というのがあって、そんな番組を昨晩見たような気がするとなんとなく思い出したが、同時にその後の情事も思い出して舌を引っ込めた。額にはりついた前髪をかきあげようとしたとき、鏡の後ろ側から一匹の蜘蛛がのそりと顔を出した。一瞬驚いて「あっ」と声を出し後ろへのけぞるが、その動きの鈍さに危機感はどこかへ失せ、なんとなくその姿を観察してしまう。一見黒いように見えたそれは赤紫のほうな、それでいてその長い脚をなめらかに動かして、彼、あるいは彼女にとって前なのか後ろなのか分からない方向へ進む。虫は苦手だ。いつからかは分からない。その形の不完全さといびつな動きがそう思わせるのだ。ゆっくりと鏡を横断していく蜘蛛の行方を人差し指で遮ると、少し間をあけてぴょんと飛び跳ねた。再び驚いた私はひじをすぐそばの扉へ打ち、蜘蛛は洗面台へと落下した。慌てて蛇口をひねると、勢いよく飛び出した水とに絡めとられるように排水溝の近くへと滑り落ちた。もう一度蛇口をひねり水を止める。そういえば朝蜘蛛は殺してはいけなかったような気がする。いや、夜蜘蛛だっただろうか。そんな昔の言い伝えが頭をよぎる。

 蜘蛛はもがく。

 水で濡れた身体では先ほどのようにまた跳ねることはできないようだった。小さな毛玉のように、水を吸った足がひょこひょこと動く。頭脳と呼べるようなものはないはずなのに、彼らは生きることを望む。おそらく私もそうだ。死は怖いものだ。車が飛び込んで来れば避けようとするし、首を締められれば逃れようとする。それはひどく漠然としているけれど、誰もがきっとどこかで経験したその「怖い」という感情でその死を避けている。ではこの蜘蛛はその経験をどこで学んだというのか。私が蛇口をもう一度ひねると、蜘蛛は小さな排水溝の闇へと飲み込まれていった。

 「女の足音ってうるせぇよな」、そう投げられた言葉を歩くたびに思い出す。なので音を立てないようにするのはもう習慣というより癖になっていて、何をするにも動作を小さくしなければならなかった。けれど私がどんなに努力をしても水の流れる音はけたたましく空気を震わせるし、小さなポーチに詰め込まれた化粧道具は私の意に添わずその体同士をぶつけ合ってまたうるさい。そんな些細な音にまで神経を削られる日々はだいぶ前から続いている。洗顔を済ませてゆっくり化粧を施すと、いつも通りの顔が出来上がった。決して高いとはいえない鼻筋と、かろうじて二重である瞼を閉じれば無駄にぎらついたアイシャドウが鏡の光に反射して光る。重めの唇だけは気に入っていて、そこへ伸ばしたジェル状のグロスを小指でもう一度整える。もう少しハイライトを入れようか、そう思いコンシーラーを取り出そうとしたとき、居間のほうで大きな溜め息が聞こえた。自然と肩が揺れ、取り出しかけたそれをポーチへしまった。

 急いで居間へ行くと、ソファベッドに寝そべったまま携帯に目を落とす男の姿が目に入った。

「おはよう、けんちゃん」

 トーンを上げてかけた言葉は宙へ浮かんだまま、返事のないそれは空気へ溶けていく。空中をくゆる煙がまるでミミズのようで、なんとなく今朝の夢の断片を思い出した。




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