八雲診療所のカルテ
日中こうこ
序 少女
まだ大学病院に勤めていた頃、僕は内科の医師だった。いつの間にか研修医という立場からドクターと呼ばれるようになって、仕事は確かに忙しかった。
けれど、週に一度行われるカンファレンスでは個性際立つ医師達と他愛もない話をしたり、片手間で教授の研究を手伝ったり、疲れた時には産婦人科の病棟に行って分厚いガラス越しに小さな生命を見たりして、それなりに充実はしていた。
たしかその夜は酷い嵐だった。
秋も半ばに差し掛かって、ちょうど台風が来ていた日だったと思う。昼までは金木犀の香りが漂っていた病院内はじっとりとした湿り気で覆われ、ガラス戸を雨粒が激しく叩き、窓から見える木々は斜めに傾くほど風が吹き荒れていた。
医務室に置かれたテレビの下では運転見合わせのテロップが錯綜しており、僕は電車で帰ることは諦め、研修医たちを帰らせて代わりに当直をすることにした。
仮眠室の固いベッドは冷気までまとって、肌触りは決して良いとは言えなかった。それでもウトウトと眠気が襲ってくるのを我慢していると、遠くから廊下を走る音がした。
スリッパの音だ。
研修医時代からもっぱら外来にいた身としては、入院病棟でのこんな日常を肌で感じられるのが新鮮だった。
激しい雨風の音に同調するように止まない足音はまるで誰かをしきりに探しているようだった。微かに耳をすませば、走り回る足音の隙間に小さく荒れる息が聞こえる。
しばらくスリッパの音はせわしなく走り回り、訝しげに思いながらも耳をそばだてていると突然仮眠室の分厚い扉が開けられた。
そこに立っていたのは真っ白いパジャマを着て肩で息をしている少女だった。
20か、その手前くらいに見えた少女は零れ落ちそうな大きな目をさらに大きくさせて、肩で息をするほどに興奮していたように見えた。
「先生、私全部思い出したの!」
彼女は声を震わせながら、口元は微かに笑っていたように思えた。
僕は何も言えず、ただ「良かったね」と起き抜けの顔に微笑みをぺったりと貼り付けて、その場限りの言葉をかけることしかできなかった。
そんな僕の言葉でも彼女はひどく満足したように、そして何かを確かめるように何度も何度も頷いて、「ありがとう、ございました」と言い残した。
翌日の朝早く、彼女は雨で湿った花壇の側で死体となって発見された。赤いサルビアが一面に咲いているその前で。
病院の一番高い屋上に掲げられた看板から飛び降りたのだそうだ。
後に知ったのは彼女が幼い頃から父親から性的虐待を受けていて、その父親を殺したのだということ。そして、そのことを何年もの間忘れたままだったのだということ。
あの夜、何がきっかけで彼女がそれを思い出したのかは今になっても分からない。
ただ、僕はその日を境にその病院を去った。
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