第6話  アダチク!

東京都足立区。

賢明な読者であれば、もうおわかりであろう。

今回はこの地域が選ばれてしまった、という事を。



とある日曜日。

暑い夏は終わりを告げ、蝉の鳴き声も久しく聞かなくなった頃。

この時期は天気が良い日であれば、極めて快適である。

そのためか、公園は近所の親子連れで大盛況であった。


芝生のエリアはレジャーシートがいくつも敷かれ、食事を摂ったり昼寝をしたり、それぞれが余暇を楽しんでいる。

子供たちは追いかけっこやボール遊びに夢中となり、大人たちはその姿を眩しい目付きで見守っていた。


そんな麗らかな光景の中で、それは起きた。



「なんで麦茶しかねぇんだよ! 熱い緑茶も必要だって考えりゃわかるだろ!」

「でも……それだとお茶ばっかりになっちゃうし、水筒も重たいし」

「口答えすんな! お前はハイとイエスだけ言ってりゃいいんだよ!」



まだ若い夫婦が言い合いをしていた。

いや、これは一方的な攻撃である。

男の方が延々と怒鳴り散らし、女の方はただ縮こまっている。


周辺の人たちは早くもこの異変に気づく。

その顔ぶれには世話焼きオバチャンも含まれていた。



「ちょっとアンタ。何をそんな大声だしてんの。奥さんがかわいそうじゃない!」

「すっこんでろババァ! 関係ねぇヤツが口を出すんじゃねぇよ!」

「やめて、カッちゃん! お茶ならこれから買ってくるから……」

「オメェが最初からそう言ってりゃ絡まれなくて済んだんだよ。さっさと行ってこい!」

「行く必要ないよ、お嬢ちゃん! ギャンギャン五月蝿いこいつに行かせりゃいいんだ」



思わぬ板挟みにあい、若い女は右往左往してしまう。

カッちゃんと呼ばれた男は舌打ちをし、貧乏揺すりを繰り返している。

不機嫌さを隠すつもりはないらしい。



「これだから庶民のババァは躾がなってない。このオレ様に歯向かうとはなぁ」

「そうかい、アンタがどこの誰様なんて知らないね。いったいどんだけのものだって言うのさ」

「ふん、聞いて驚け。オレ様は『亭主関白』だぁぁああーッ!」



果たして関白がどれほどの地位かは、男は知らない。

それでも大体の人間よりは偉いものと目算し、普段からこの調子であった。

事実、連れ合いは大人しく従っているのであるから、多くの者もそれに倣(なら)うだろうと考えていた。



「サトコ、早く買ってこい。さもないと無関係の人間の血を見ることになるぞ」

「うん。わかったから、短気はやめてね」

「30秒で買ってこい。それ以上は待たねえからな」



サトコと呼ばれた女は弾かれたように駆け出した。

男は全く悪びれる様子もなく、姿が見えなくなるまで睨み付けていた。

それから唾を吐き捨て、芝生の上にドッカと腰を降ろした。

その苛立ちは、立ち去ろうとしない初老の女にも向けられた。



「なんだよババァ。まだ居たのかよ、消えろ!」

「亭主関白ねぇ。全くもって呆れるねぇ」

「この野郎。痛い目を見ないと気が……?!」



男の顔が驚愕に、そして漠然とした恐怖に塗り替えられていく。

その初老の女の後ろには、数えきれないほどの女たちが居並んでいたからだ。

100人、200人、いやそもそも桁が違うかもしれない。

数千もの冷めきった視線に睨まれて、男は途端に怯んでしまう。



「なんだよぉ。あっち行けっつうの!」

「やれやれ。関白風情が調子に乗るんじゃないよ」

「な……なんだと?」

「アタシはねぇ……女房皇帝だぁぁああー!」

「に、女房皇帝だとぉぉおおーッ!?」



男にはわからない。

果たして関白と皇帝のどちらが偉いのか。

回りの雰囲気に流されて、自分の不利を察してはいるのだが。



「関白なんぞ所詮は一国の重鎮。数多の国を束ねる皇帝の足元にも及ばんわ!」

「クソッ そんなデタラメな話は聞いてねぇぞ!」

「そんな事情は知らん。お前がどれほど害悪な存在かは火を見るより明らか。覚悟しろ」



後ろに控えていた女たちが光輝いた。

その輝きが収まった頃には、やはり数えきれない程の騎馬兵団が展開された。



「女ごときが男に逆らうんじゃねぇぇええー!」



男は素早く魔方陣を展開し、辺りを青白く染め上げた。

呼び出されたのは、妙にテカりのある筋肉の山。

ビキニパンツ姿の日焼けした男の集団が召喚されたのだ。


そういうフェチの人間からしたら狂喜乱舞する光景だろう。

特にそんな趣味のない関白男も、この結果には満足していた。

実に頼もしく、勇壮な壁に守られたからだ。



「どうだ、思い知ったか! どれだけ女が束になろうともこれは破れねぇだろ? これが亭主関白の底力だッ!」

「ほんと良く吠えるヤツだねぇ。こんなの相手に手を汚すまでもないよ」

「なにぃッ!?」

「みなちゃーん。こっちおいでー」

「はぁーい」



落ち着きを払った声とともに、30歳前後の美しい女が前に歩みでた。

その姿を見るなり、筋肉の集団は大きくうろたえた。

それもそのはず。

この女を知らない者はいないであろう、今最もホットな女性として知られているからだ。


その人気を証左するだけの授賞歴も見事である。

『どうにかしてお付き合いしたい女性コンテスト、3年連続優勝・殿堂入り』

『いつまでも一緒に暮らしたい女性コンテスト、優勝、準優勝、優勝を経て殿堂入り』

それ以外にも『ペットと共に暮らしたい女性』『犬の散歩が似合う女性』『むしろ犬として飼われたい』『あぁもう、たまらんです』などなど。

彼女はあらゆるコンテストを席巻し、近々世界戦を控えているという美女であった。



「みなちゃん。こいつらが言うには、女はくだらない生き物だってさ。どう思う?」

「そうですか。まぁ、そんな考えもあるんでしょう。出来れば関わり合いたくはないですが」

「ゴフゥ」

「グェェ……」



壁の一角が早くも崩れだした。

体ではなく、心が折られてしまったようだ。

一度体勢が崩れてしまうと、大概の物は脆くなってしまうものだ。



「さっきも散々威張り散らしてたんだよ。見るに耐えないくらいね」

「うわ、それは軽蔑しますね。力なんかに訴えても、結局解決なんかしないのに」

「ぬわぁぁん」

「ノォォオオン!」

「待て! オレは降る、降参する!」

「オレもだ! そもそも呼ばれただけであって、そんな考えは持ってないぞ!」



憧れの美女からの冷めた眼差しに、屈強な男といえども太刀打ちできない。

あれだけ強固だった肉の壁も、瞬く間に崩れ去った。

1人また1人と青白く発光し、もとの場所へと還っていく。

残った数十人も、膝を着いて恭順する姿勢を取っている。

そして関白男を守る者は、誰も居なくなった。


こうなってしまっては肩書きなど役には立たない。

抵抗も虚しく両脇を抱えられ、女房皇帝の前に引き出された関白。

男の目は反省どころか、憎悪一色に染まっていた。



「アンタ、考えを改める気はないんだね?」

「当たり前だ! オレはそこいらの情けねえ男どもとは違う、男の中の男だ! だから女どもはオレを敬うべきなんだ!」

「はぁ。とうしてこうもひん曲がれるかねぇ。これは再教育が必要だね」

「やめろ、オレに何をする気だ!?」



転移の魔法が発動し、関白男をどこかへと連れ去った。

これより舞台は地下深くへと移ることになる。



日本某所、地底。

太陽の光も届かない地下の洞窟である。

明かりは壁に備え付けられたランプ以外には何もない。

風が吹いているのか、何か得たいの知れないモノが居るのか、しきりにゴォオオッという低い唸り声のようなものが聞こえてくる。


あまりに不気味であり、そして暗い。

そんな場所で囚われの身となったのは先程の関白男だ。

壁に備え付けられた鎖に両手両足を拘束され、自由を完全に奪われていた。

男が目を覚ました頃には手遅れであり、頑丈な戒めはビクともしない。

それを見計らったようなタイミングで、辺りに声が響き渡った。



「気がついたかい? アンタをそこに封印する事にしたよ。500年か、600年か。その時まで自我が残ってるといいね?」

「なんだそりゃぁあ! オレをこっから出せよッ!」

「そんなに騒ぐなって。足元に蝋燭の火が見えるだろ? それが消えたらもうお終い。冗談抜きで封印されるから気を付けなよ」



その声が示す通り、壁にある明かりとは別に、足元にもロウソクの明かりがついていた。

どこからか吹く風に、そのか細い光はしきりに揺らぐ。

男は自由の利かない体で懸命に守ろうとしていた。



「アタシも鬼じゃないからね。その火が点いてるうちに助けが来たら、そこから出してあげるよ。せいせい幸運に祈ってな」

「待て、逃げんな!」



それきり声は聞こえなくなった。

男はというと、わめき散らす余裕はなくなった。

風がより強くなり、辺りに吹き付けたからだ。

このまま強くなれば火は消えてしまう。

絶望的な言葉が頭を駆け巡り、自然と涙を誘った。


だがその時、突然風が止んだ。

スイッチでも切り替わったような、急激な変化だ。


そして洞窟の暗がりから、カツーンカツーンと、足音が聞こえてきた。

それは徐々に大きくなっており、男の方へと近づいて来るのがわかる。



「カッちゃん……?」

「サトコ?! 来てくれたのか!」

「ごめんね、遅くなって。お茶もすっかり冷めちゃったし」

「そんな事はいい! 早くここから……ゲホッゲホ!」

「喉が乾いてるの? 一口飲む?」

「あぁ、頼む。なんか知らんがカラッカラだ」



ーーパキリッ。

ペットボトルを開ける音が響く。

男はそれを聞いて自分の解放を確信した。


自分の仲間がやって来てくれた。

サトコなら自分を裏切らない。

コイツは絶対に自分を助けようとする。

事実、こうして甲斐甲斐しくお茶を飲ませようとしてくれるのだから。



ーートポトポトポ。

そのペットボトルは、その場で逆さにされてしまう。

当然のことながら、一滴も男の口には入らない。

勢い良く溢れたお茶はサトコの足元に水溜まりを作った。

水しぶきがロウソクにかかることを恐れたが、距離があったため火が消えることはなかった。

だが、今度は別の不安が男を襲った。


なぜそんな真似をするのか。

なぜ亭主の窮地に驚かないのか。

そもそもサトコが笑顔なのは何故なのか。

今まで見た中で、一番笑顔らしい笑顔なのは何故なのか。


晴れ晴れとしたその表情に、なぜか不吉なものを感じ取っていた。

サトコの吹っ切れたような声がそれに拍車をかける。



「ごめんね、お茶こぼしちゃった。また買ってくるね」

「い、いや、そんな事よりオレを……」

「大丈夫だって、すぐ戻ってくるから」

「違うんだ。足元の火が消えたら、オレはここから出られないんだ! そうなる前に助けてくれ!」

「子供みたいに騒がないでよ。火が気になるなら風避けを作れば良いじゃない」



サトコはロウソクにペットボトルを被せた。

大きさは丁度良く、すっぽりと中に収まってしまう。



「止めろ! すぐにそれを……」



ここで男の意識は途絶えた。

こうしてその自我は、長い間闇の中へ押し込められる事となった。



人間のつながりは信頼で成り立っている。

親子の愛も、男女の愛も、信頼があってこその情である。

相手の信用を失うような真似を続ければ、無限に見える愛もいずれは枯渇する。

人間の感情に無限の概念は無く、全てが有限なのだ。


自分が苦境に陥ったとき、梯子を外されてしまわぬよう、周りの人間と信頼関係を築くことは何よりも大切なのである。



ー第6話 完ー

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