終 貴女に永遠のさよならを
色とりどりの桜草と共に咲き誇るは、純白の雛菊と鈴蘭。可憐な桃色と黄色の
自ら作った花束を携え足を運んだかつての住まいは、院長である女の死を皮切りに僅かな住人すらも離れ、すっかり廃墟となってしまっている。この女子修道院は、数年の後、国民に初等教育を施す場とされると正式に決定された。
修道女の柔らかな手で手入れされていた菜園では、放置された野菜や香草が朽ち果てながらもおどろに繁茂している。
既に近隣の子供の格好の遊び場となった院内には、幼児用の玩具が転がっていて、秘密基地さえ建設されていた。セレーヌが生まれ約十四年の歳月を過ごした聖院を支配していた、侘しい静寂は名残りすらも見いだせない。
もはや懐かしい日に、追われるように通り抜けた正門は、頑丈な錠前で閉鎖されていた。市場で小耳に挟んだ噂では、間近に控えているらしい改装工事のためだと言う。ならば、裏門を利用するしかない。
「ほら。君は介添えがないと無理だっただろう」
「うるさい」
長い脚を使って軽々と崩れかけた門を越えた青年の手を支えに、訪れた先に広がっていたのは、思わず目を疑ってしまう光景だった。
二度の無謀な試みも虚しく、強打した膝を押さえ裾の乱れを治すと、少女は青年に預けていた花束をひったくった。
羞恥に赤らんだ頬を腹立たしい目線から隠すべく、常よりも早く足を動かす。それでもなお、小柄な少女と長身の青年は、数瞬の後には並んでしまった。
そうしてフィネと並びながら辿りついた墓地の入り口には、質素な身なりの女の姿があった。
「……え?」
勝手に居座った浮浪者にしては堂々としていて、亡霊とするにはあまりに存在感がある彼女の瞳は、人の子でしか有り得ぬ生気で輝いている。
「あら? あなたたちもお墓参りに来たの?」
薄茶の髪に縁どられた、雀斑が散った顔面をくしゃりと歪めた彼女の満面の笑みは、外見から察せられる年齢よりも若々しかった。
「私もね、たった今再会してきたところなの――遠い昔に離れ離れになった、大切な友人と」
マリエットが今でも生きていれば、所々擦り切れているが清潔な衣服を纏う女性と同じくらいの齢になっていただろう。
「どこにいるのか見つけるまでに随分とかかったけれど、やっと」
青林檎色の目を潤ませる彼女の横顔には、擦りむいた痕さえあった。彼女はきっと、セレーヌと同じように、ただし本当に一人であの門を突破したのだ。誰であるかは分からないが、遠い昔に別れ別れになった友人と再会したい一心で。
「ここに来るまでには色々あったけど、こうしてあの子に会えて良かったわ」
中年の女の面差しを翳らせる「あの子」が誰なのかや、彼女らが心を引き裂かれる別離を迎えなければならなくなった理由は、セレーヌには察することすらできない。けれども彼女らが特別な絆で結ばれていて、「あの子」を喪った時、彼女がどんなに嘆き悲しんだのかは理解できた。セレーヌも、かけがえのない人を喪ったことがあるから。
「じゃあね、可愛いお嬢さんたち」
しばし目を伏せ亡い友人に祈りを捧げた後、女は陰鬱な死と白の季節の終わりを告げる風のごとく去っていった。奇妙な女の背を見送った少女と青年は、誰にも顧みられることがなくなった墓地を見下ろす。
古の神話の冥府に繋がる穴よろしく、ぽっかりと開いた虚ろは、彼女らの帰還を臨んだ親類縁者によって掘り起こされたものだった。
前院長の柩は、彼女の夫だった男の願いで、彼らが愛した幼い娘の側に移された。望むと望まざるとに関わらず、離れ離れになった家族と同じ墓地に埋葬されることになった、他の修道女たちと同様に。
セレーヌを娘同然に育ててくれた女性の墓前に、感謝の言葉と花束を捧げたところで、もはや彼女には伝わらないだろう。前院長の亡骸は、名前すら知らない遠方に移されたのだから。
こうなると分かっていたなら、もっと前に墓参りに来ていたのに、と歯がゆい気持ちがこみ上げないわけではない。だが一方で、前院長が彼女の娘と共に安らかな眠りに就けるようになったことを喜ばしく思った。
好奇心旺盛な遊び盛りの子供さえ寄り付かない空間は、穏やかな静けさで満ちている。だが空の青と大地の茶と木々の緑以外の色彩から隔てられているはずのそこには、たった一つの彩りが備えられていた。
可憐な野の花で拵えられた花の束の隣に己が持参した花束を置き、姓名と没年だけが刻まれた墓石をそっと撫でる。太陽の熱を吸った石は仄かに温かく、どことなく母を思わせた。幾度となく求めては跳ね除けられた、柔らかさを備えてはいないけれど。
か細い指が、滑らかな石からそっと離れる。同じくか細い腕をぶらと胴の横で遊ばせた少女は、そのみすぼらしくさえある墓碑を放心したかのごとく注視していたが、やがて潤んだ瞳は薄い目蓋に隠された。
閉ざされた瞳の代わりに開いた唇からは、途切れ途切れながらも、澄んで可憐な歌声が溢れ出る。
こみ上げる哀惜の念のために、最初は音を形にすることすら困難だった鎮魂歌は、次第に滑らかに零れていった。誰よりも愛し憎んだ存在に捧げる最後の、ありったけの想いは、蜜のごとく小さな唇から滴り落ちる。
赦さなくても、憎み続けてもいい。でもどうか、母の苦痛を慮ろうともせずに怒りを募らせていた薄情な娘のことなど忘れて、永遠の安息に守られながら眠ってくれと。
――わたしはあなたを赦さない。だけどもうあなたの愛を求めも、あなたを憎みもしない。これからはあなたのことを思い出しもしないから、どうかあなたもわたしのことなんて忘れて。
薔薇の蕾の唇から紡がれた聖歌は、木々の騒めきに蕩けて消え去った。セレーヌの中のマリエットの面影も。
怯え慄き涙を流しながら幼い我が子を打擲する、悪鬼さながらの姿も。彼女が心から愛した存在に救いを求めて縋る横顔も。病に苦しみ枯れ木同然に痩せた腕の細さも、何もかもが永遠に遠くなってゆく。一面の銀世界に落とされた
脈打つ心臓の上に手を置き、乱れた呼吸を整えている間。全てを穏やかに見守ってくれていた青年の、数多の人間の血に濡れた、だがセレーヌにとってはかけがえのない手を握り締め、今しがた歩んだ道を踏みしめるごとに。マリエットという女の面影は、セレーヌの中から消え去っていった。
さようなら、おかあさん。
最後に発した一言を乗せた春風は、遙かな空の向こうに届くだろうか。
血と春の聖歌 田所米子 @kome_yoneko
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