解放 Ⅲ

 くすんだ青の尖塔は、針のごとく尖っている。ひときわ高い塔の下には同色の屋根がなだらかに続いていて、壁面は聖人や美徳を擬人化した彫刻で埋め尽くされていた。

 落成当初は美々しい彩色が施されていたという彫刻は、完成した当初は実際、生命を宿しているのかと見紛うばかりであっただろう。母の代わりにセレーヌを育ててくれた、亡き女性が語ったように。

 しかしかつては麗しかった像たちも、屋根でも防げぬ風雪と時の流れには打ち勝てなかった。建設が着工されてから六百もの年月が過ぎ去った現在では、像たちはありのままの石材の姿を晒している。

 灰色の肌に、同じく灰色の衣服。どこまでも無機質な彫像たちは、しかしその面に確かな慈愛と威厳を宿していた。清廉で美しい姿は、人々の信仰の現れであり拠り所としては、これ以上ないほど相応しい。

 赤らんだ春の翠の瞳と白金の髪に覆われた小さな頭は、崇高さと壮麗さにおいて並ぶものなしと讃えられた聖堂の全てを見やるべく、忙しなく動いた。

 暗黒時代を終焉させた第二王朝の王の命によって建設が始められて以来。この大聖堂は、俗人の目にもあらたかな唯一神の加護の象徴として、民草と共に様々な苦難を舐めてきた。

 血を分けた兄弟による、玉座と数多の命を賭けた内戦を。飢え、渇き、僅かながらの麺麭を求めて押し寄せる貧者の群れを。異国の兵に斬り捨てられた母の躯の下で蹲る幼子の慟哭を。戦勝の式典を行う王と武人たちの晴れ姿を。王太子と異国の姫君の婚礼を。

 第二王朝が始まって以来、歴代の王の戴冠式や婚礼は、必ずこの聖堂で挙げられてきた。だから大聖堂は、妃と子と諸侯を従えた王の美々しい姿を幾度となく眺めただろう。王室の慶事に沸く民草の熱狂も。永遠に変わりがないようで、その実同じ日など一日たりとない民衆の日常の悲喜こもごもも。

 男も女も。老いも若きも。高貴も卑賎も。ルオーゼという国の最も尊い宝たる人々が織りなす歴史を眺め続けた大聖堂は、儚き人の子が地中に埋もれ、塵となっても変わらずにここに在る。

 しかし少女の前にそびえる神の家は、空想よりもずっと壮麗ではあるが、母の慈悲にも通ずるぬくもりに包まれていた。セレーヌの想像よりもずっと親しみやすい。不確かであやふやな想像の中のこの聖堂は、豪奢ではあるが陰気で冷ややかな、飾り立てられた牢獄のような場所だったのに。

 ――だから、あなたにも一度行ってほしいの。

 二年前に亡き娘が待つ楽園に旅立った老女の微笑みを思い出してしまうと、大きな双眸に熱が滲んだ。

 訪れた経験のある前院長の言う通り。大聖堂は素晴らしい所だったから、勇気を振り絞って訪れてみて良かった。ただし、中に入りたいとは全く思わないけれど。

「……中に入らなくていいのかい?」

 公爵邸を辞してすぐ。それも唐突に、セレーヌはどうしても大聖堂に行きたいと、だから案内してくれとフィネにしがみ付いて懇願した。なのにセレーヌがいつまでも入り口付近で突っ立ったままでは、フィネも色々と考えるところがあるだろう。だのに泣き顔の理由を追及せずに受け止めてくれている青年には、感謝してもしきれない。

「うん。……ここで、見てるだけでいいんだ」

 巴旦杏と杏の甘やかな香気と清しい若葉の香りが入り混じった春の風が、薄桃色の頬をあやすようにそっと撫でる。

「そうか。でも、君、ここは嫌いだったはずだろう?」

 頭上から降ってきた声に滲んでいたのは、やはり追及ではなくて、確かな事実に基づいた疑問だった。

 もう昨年になった春。ミリーに留守を任せ、フィネと二人でパルヴィニーに足を運んだ際には、セレーヌは大聖堂見物に行こうとの勧めを一蹴していた。あんなものは見たくない、と。

 それなのに、今になってセレーヌが大聖堂に行きたいと縋って来たのだ。フィネが今まで黙っていたことが不思議なぐらいである。だからせめて、彼に応えなくてはならない。フィネも何かを察しているのか、これ以上追求するつもりはないようだけれど。

「……ああ、そうだな。そして今は前よりももっと嫌いだぞ」

 細い喉から覚悟と共に絞り出した声は、みっともなく震え、掠れていた。

「こんなものこの世からなくなってしまえば、と願うまでではないけど。でも、これでもう一生ここに来ることはない」

 だったら、どうして。息遣いと直に伝わる熱によって伝えられる当惑は、嵐のごとく少女の心を揺さぶる。

「ここ、あの男が、わたしのおかあさんを、」

 背に回された指が、幽に強張る。どんなに押し出そうとしても痞えてしまい、からからに乾ききった口の中で消え去ってしまった真実を、フィネは察してくれたのだ。

 ゆるゆると降ろされた薄い目蓋のあわいから、熱い滴が漏れ出る。心の破片のいくつかは固い指先を濡らし、またある雫はまろやかな頬を伝って生成りの襟元や薄い胸に降り注いだ。

 深い赤のスカートに吸い込まれもせず、丸みを帯びた靴の先に留まった一滴は、石畳に零れ落ち吸い込まれる。王制廃止前は、煌びやかな僧服を纏った聖職者が出入りしていたという出入り口を、母親に手を引かれた少年と少女が潜る。笑いあう子供たちのすぐ後ろに守るように控え、整った口髭を乗せた唇を幸福そうに緩めているのは、彼らの父親だろう。

 その過程でいくつかの罪なき者たちが憂き目に遭ったのは、改善すべき課題として取り上げられなければならないだろう。だが、民衆の支持を得た法律によって聖会の奢侈と腐敗は断罪された。

 行き交う聖職者からは、栄華を極めた往時の面影がすっかり失われいても、長く培われた信仰は不変である

 十六年前にこの聖堂で起きた悲劇などつゆ知らぬ、そんな事件があったのだと考えることすらない人々は、これからも神と預言者の庇護を乞うてこの祭壇の前に跪くだろう。祈り届かず、心臓が張り裂けてしまいそうな苦難に見舞われても、いつか必ず這い上がって。

 敬虔な信徒ならば、高名な巡礼地の筆頭に挙げられるこの聖堂に赴けば、感極まって落涙しても不思議はない。しかし年端もいかぬ平服の少女が滂沱の涙を流すのは、いささかどころではなく奇妙な光景であり、人々の目を引きつけた。

 少女は行き交う人々の好奇と憂慮の眼差しなど構わずに、白金の頭の容量が許す限りの情景を脳内に刻む。まだ見習いの灰色の面紗ベールから解放されたばかりといった初々しい風情の修道女が、幸福な一家の後を追って壮麗なる神の住まいに足を踏み入れた。

 マリエットが彼女の人生をあらぬ方向に捻じ曲げられたのは、名も知らぬ修道女やセレーヌとそう変わらぬ年の頃の出来事だったはずだ。

 燃えるように熱い目を凝らしていても、長い黒髪を面紗で覆い隠した娘の姿を偲ぶ術はない。少女だった頃のマリエットがどんな顔で笑い、友とどんな言葉を交わしていたのかも。

 セレーヌにとっては世界の中心に、ひいては神そのものに等しかった母には、マリエットという娘としての側面もあった。

 あの死んだように物静かだったマリエットも、友と取っ組み合いの喧嘩をしたり、手酷い悪戯を企んで先輩の修道女たちの大目玉を食らうことがあったのかもしれない。セレーヌには、想像すらできないけれど。

 一人の人間としてのマリエットに思いを馳せることができるようになったのも、彼女がセレーヌの神ではなくなったからだろうか。

『セレーヌ』

 か細いが水晶の鈴のごとく響く声で、名を呼ばれるのが大好きだった。とても一児の母とは思えない、と他の修道女たちに囁かれていた華奢な肢体のぬくもりと、気高い心が愛おしかった。だから、自分だけのものにしたかったのだ。

 セレーヌは、自分に謂れのない暴力を振るう青白い腕を憎み、同時に求めていた。狂おしいまでに愛した彼女は、大地に叩き付けられた玻璃の器同然にひび割れていて、鋭利な破片をセレーヌに突き刺し続けたけれど。

 かつては目を閉じなくとも、すぐそこに立っているかのように思い描けた母の面影。清楚で可憐な横顔を、安らかな暗黒に包まれていてもなお再現できなくなったのは、いつからだろう。まだ一人で厠にも行けないぐらいに幼かった頃から死に別れるまで、暇さえあれば眺めてきた、大好きだった顔なのに。

 現在のセレーヌは、母が自分を疎んだ理由を知っている。

 セレーヌにはその方法を想像することすらできないが、宿った子を胎内で始末することもできはずだ。だのにマリエットがもう一つの、彼女が実際に辿った道よりも遥かに安楽な道を歩まなかった理由も、十分に分かっている。だからこそこの雫は、セレーヌが知るどんな涙よりも熱いのだろうか。魂の凍てついた部分を溶かすほどに。

 セレーヌのことなんて全部忘れて、無かったことにすれば、母はきっと今でもこの街の片隅でなんとか生きていただろう。でもそれをしなかった母は、きっと世界で一番の大馬鹿だ。そしてセレーヌは、その馬鹿な女を誰よりも愛し、一方で憎んできた。

 けれども、それももう終わりにしなければならない。不甲斐ない自分を見守り、支え、愛してくれている者たちのために。彼らの想いに応えるために。そして、自ら蜘蛛の巣のごとく張り巡らせた、母の呪縛から解放されるために。

 涙で湿った唇を引き締めてもなお封じ込められなかった激情の断片は、傍らの青年の耳には届いたはずだった。けれどもフィネは、何事もなかったかのように全てを受け入れてくれている。

 あの嵐の日、未だ癒えぬ傷を抉られ、生暖かい鮮血が噴出した胸にぽっかりと口を開いた空虚を埋めたのは、震える手を包む硬い掌とぬくもりであった。

 これからも続くはずの、ミリーの勇ましい怒号が木霊する穏やかで愛おしい日々。そのかけがえのない日常をセレーヌに与えてくれたのが神だったとしたら。

 セレーヌは元々、父親のおぞましい欲望の犠牲になって散る定めだった。その自分と、あの優しい老女を引き合わせてくれたのが、ある意味では母よりも憎悪し続けた、大いなる存在だったのなら。 

 ――生まれて初めて、心の底から生まれて良かったと思える。母の虚像に焦がれる一方で、彼女の悲痛な真実の貌に、憎悪と怨恨を滾らせたまま死ななくて良かった。

 過ぎ去った日には、心を千々に引き裂いた事実をも、この麗らかな春の日にはこんなにも静かに受け止められる。これも、傷つきぼろぼろになった心を抱えて泣きじゃくるセレーヌを守り、慰めてくれた人たちのおかげだ。

「……フィネ」

 潤み、真っ赤に充血した瞳を透明な滴が清める。別離の涙は甘く、苦かった。

「帰ろう」

「ああ」

 己の柔らかな指と、夫の硬い指先をそっと絡めると、遙か頭上にある引き締まった口元が、ほんの僅かに緩められた。それは、フィネの表情の変化を観察し続けたセレーヌや、彼を産み育てたミリーでなければ気づけるはずがない些細な変化だ。けれども確かな萌しは、涙を搾りつくした目にも優しく染み入る。

 少女は様々な人が行き交う建物に背を向け、青年とともに新たな一歩を踏み出す。その途端どこかから運ばれてきた淡い紅色の花の雨は、泣きはらして疼く目を瞠る少女の視界を薄紅に染めた。

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