解放 Ⅱ
白銀の髪の青年は、戸惑う鳶色の髪の青年腕を掴み、半ば引きずるように部屋から出る。
「これでゆっくりお話しできるわね」
一児の母となったことが到底信じられない程若く美しい女性は、鼠を平らげた猫のように満足げに微笑んだ。
「うん。でもわたし、正直熊とかあんまり……」
この種の笑顔を浮かべた女の次の行動は決まり切っている。こういった顔の女は、年齢や社会的地位にかかわらず、大抵面倒事を切り出すのだ。
「いいのよ。そんなこと分かり切ってるから」
「え?」
本能的に危険を察知した少女は控えめに先手を打ったのだが、衝撃は予想外の方向から繰り出された。
「私、小さい頃からお兄さまに熊のお話を聞かされて育ったし、熊は凄い動物だと思っているけれど、はっきり言って熊にはそれほど興味はないわ。お兄さまが楽しそうに語るから付き合っていたけれど、熊の話を聞き流すよりも、お母さまと刺繍している方が楽しかった」
鮮やかにほころんだ笑みは見惚れるほど美しい。だがこんなにもはっきりと、夫の熱弁を「聞き流していた」と言い切って良いのだろうか。
呆気に取られている間に、小さな手をしっとりと温かな手で包みこまれてしまったから、逃れることはできなくなった。
「だから私は、フィネさんには申し訳ないけれど、ほんの少し
日々の家事で鍛えられすっかり皮が厚くなった、働き者のミリーのそれとは違う、柔らかで肌理細やかな肌。すべすべとした掌は、数え切れないぐらい手を伸ばしたけれど、いつも掴みきれなかった細い手を思い出させた。
互いに痛みを与え合う時間を除けば、触れ合うことなどないに等しかった女の横顔を。神が定めた掟に従って自分を産んだけれど、結局全てに耐えきれなくなって精神の均衡を壊し、病を得て儚くなった幸薄い女の末期を。血を分けた娘に一欠けらの愛もくれなかった、薄情な母親の狂態を。
堰切って溢れだした過去は、暗く澱んだ色彩で埋め尽くされている。なのに、その合間で輝く彼女の面影は星のように輝いているから、手を伸ばさずにはいられないのだ。決して届かないと、手に入りはしないのだと分かっているのに。
幻の指はやはり虚しく宙を切る。直視を避けていたもう一人の自分が掴んだのは、これまで何度も味わわされた絶望だった。途端、鎖で繋いで奥底に留めていた願いのみならず、現実のセレーヌの双眸からも熱い感情が迸った。
「あんたは子供のことを愛してるんだろ?」
涙で頬を洗いながら絞り出した問いは、豊満な胸に吸い込まれずに、レティーユの耳に届いたらしい。
「ええ、もちろん。この命に代えてもいいぐらい」
一瞬の躊躇いなく紡がれた愛は、穏やかでありながら痛切で。仰ぎ見た面は、いつか母と共に眺めた聖典に記された、慈愛の聖女を彷彿とさせた。
「それは、」
――愛する人との間の子供だからなのか?
魂の底からのせり上がった疑問は、しゃくりあげる喉に絡まり溶け消える。
「なあ、聞いてくれないか?」
「ええ」
「わたしの母親は……」
代わりに震える舌に乗せられたのは、セレーヌがどのようにして生まれたのか。半分は自分の愚かさゆえに、もう半分は否応なく耳に垂らされた悲劇だった。
魂の底から滲み出る懊悩の告白は、合間に割り込んだ嗚咽のために、たびたび中断された。けれどもレティーユは、セレーヌがひっきりなしにしゃくりあげている間も飽くことなく、何より真摯にセレーヌの過去を受け止めてくれた。だからセレーヌは、どうにか全てを吐き出せたのだ。
「……そう。だから、セレーヌちゃんはお母さんを赦せないのね」
時に白磁の頬を蒼ざめさせて顔も知らぬ亡き女への憐憫を表し、白魚の指で今を生きる少女の嘆きの雫を拭った女は、艶やかな唇を噛みしめる。
「なんてひどい……」
伏せられた金緑の目から零れ落ちたのは、一顆の貴石の煌めき。
「ああ、ごめんなさい。……少し、昔のことを――私が私でなかった頃のことを思い出してしまって」
透明な露が絡む長い緋色の睫毛が落とす影は暗かった。その影の濃さは、全てに満ち足りたような女性の内側にさえ、実体のない傷痕が残っているのだと少女に悟らせる。
誰もが称賛するだろう華やかな容貌に恵まれ、国内有数の大貴族にして資産家の養女として育った、最愛の夫との間に待望の長子を生み落としたばかりのレティーユ。その彼女に、想起しただけで涙してしまう過去があるなんて、とても信じられないけれど。
「……セレーヌちゃんは私に昔のことを話してくれたんだから、私もお話しないと不公平よね。だから、もしも興味があるのなら、今度は私のお話を聞いてくれないかしら?」
「あ、ああ」
静かに流された涙の美しさに呆気に取られていた少女は、ぶんと勢いよく頭を縦に振る。公爵邸を訪れるに相応しい形に纏めた白金の髪が乱れることなど、気に留めずに。
「なにせ私はこういう見た目だから一目で分かるでしょうけれど、私は純粋なルオーゼ人じゃないわ。実父はお父さまの友人だった、ある貴族の家の跡取りだった方だけれど、この国で生まれたわけでもない。私はアルラウトの、内乱で破壊されてしまった皇帝直轄領と、選帝侯領の間に位置する街の娼館で生まれたの」
緋色の髪の一束を摘まんだ女性が明らかにした過去は、その悪戯っぽい笑顔からは想像もできないものだった。
娼婦とは即ち、金銭と見返りに婚姻関係にない男に身を委ねる女だと、今のセレーヌは朧ながら理解している。いつかイディーズがそのようなことを言ってきたから。
「私の実の母は夜毎客を取る娼婦だったわ。元々はれっきとした貴族の令嬢だったことと、まあ他よりは殿方の目を惹く外見だけが取り柄の、本当につまらない女だった」
それまでの品の良さからは想像もできない辛辣さで実母を詰る女性の姿が、なぜだか母を恨んで泣き叫ぶ、いつかの自分と重なった。
「あの人はどうしようもなく頭が悪くて、でも気位だけは皇女か皇后並みの、本当に嫌な女だった。頭は悪いのに、勘だけは動物並みにいいから、自分を馬鹿にしてる人間のことは分かったのよ。だから仲間の娼婦どころか、客とも何度も騒動を起こしたらしいわ。これは私が生まれる前のことだから、詳しくは知らないけれど」
桜貝にも勝る色艶の爪が、苦労など何一つ知らないだろうと思い込んでいた掌に食い込む。
「どんどん居場所を失ったあの人は、口先だけでも自尊心を満足させてくれる間男に縋るようになって。そして私の父親違いの兄にあたる子供を身籠ったはいいけど、恋人だとかいう男にはあっさり捨てられて。それで、あの女は私の兄をどうしたと思う? ――生まれた途端自分で絞め殺して、塵みたいに河に投げ捨てたのよ」
「……」
「だけど、兄はまだましな方だったかもしれないわ。亡骸とはいえもしかしたら、心ある誰かに救い上げられて、きちんと葬られたかもしれないと希望が持てるから。でも、その後にできた二番目と三番目の子は……」
レティーユは、本来ならば知るはずのない、彼女が生まれる前の母の人生を把握している。あまりどころか全く好ましくない、むしろ恥じ秘め隠すべき汚点を、彼女の母親がレティーユに語ったはずはない。
ということは、およそ実子であれば知りたくはない母の醜悪な所業を、わざわざ彼女に語って聞かせた人物がいたのだ。その可能性に感づいた途端、陰湿な悪意に怒りを覚えずにはいられなかった。
「人間の形になる前に引きずりだされて、肥溜めに捨てられたの。だから、せめて葬られたかもしれないなんて希望に縋ることすらできないわ。私の後にできた、五番目と六番目もね。あの人が妊娠に気づくのがあと一月早かったら、私は今ここにいなかったはずだわ」
目の前の女性が蒼ざめた頬をぎこちなくとはいえ持ち上げられたのが。いや、今しがた耳にした昔語りの全てが信じがたかった。
「運よく生まれられた私は、これまた運よく女だったから――もしも男だったら、きっと兄と同じように殺されていたでしょうね――六歳まではあの娼館で暮らしたの」
「……」
「だけど、名前さえ付けて貰えなくて。あの女にとっての私たちなんて、塵屑か犬の死体のようなものだったでしょうから、当然といえば当然だけれどね」
この世のどこかには必ずいる、底なしの楽天家。あるいは人の善意のみしか映さない目を持つ、ある意味最も幸福で裏を返せば最も受け入れがたい種類の人間は、レティーユの推測を一笑に付すかもしれない。
子供を愛さない親などいるはずがない。貴女の母親が貴女を生んだのがその証拠。貴女の母親の過去は、貴女の周りにいた性悪共が吹き込んだ作り話に決まっていると。だが、セレーヌがそんな慰めを差し出されたら、お前に何が分かると跳ね除けずにはいられないだろう。
「母はいつか自分の代わりに働かせるために、私を一応は育てることにしたの。それが、あの女が私を産み育てた理由の全てよ」
「……」
「あの女、機嫌が悪い時は“父親と同じ金髪に生まれていれば、物好きな爺に高値で売れたのに”っていつも私の髪を引っ張ったから、間違いないわ。私の実父から遺言を託されたお父さまに連れられてあの娼館から出るまでは、毎日生まれたことを後悔していた」
唄うように囁かれた痛みを一番拒絶したいのはレティーユだろう。なのに、すやすやと眠る赤子を抱いた女性は、凛と背筋を伸ばしたままだった。
「――あなたとお母さんと私の本当の母親では、比べたらあなたのお母さんに申し訳ないけれど、子供を愛さない親は確かにいるのよ、セレーヌちゃん」
喋り過ぎて喉が渇いたのか、波打つ心を鎮めるためか。優雅な仕草で茶器を口元に運んだ女性は、艶やかな睫毛を伏せた。
「だから、あなたはお母さんを赦せない自分を責める必要なんて、これっぽちもないのよ。あなたは何一つ悪くないのだから。あなたも、ついでに私もアレンシスと同じように、ただ生まれだだけなの」
「でも、」
わたしみたいな誰にも望まれずに生まれた子供が、周囲の者全てに祝福されて生まれたその子と同じだなんて、ありえない。
大粒の涙が滴ると同時に、震える唇から零れ落ちたのは、魂の奥底から絞り出した慟哭であり、諦観であった。
「どんな事情があったとしても、あなたのお母さんは、あなたに恨まれて仕方がないことをしたの。私があなただとしても、同じように――いいえ、きっとセレーヌちゃん以上に憎んだでしょうね。私は性格が悪いから」
だがその追い詰められた獣の仔の最後のあがきさえも、柔らかな胸は難なく受け止めてくれた。
こんなにも広く温かな心を持つレティーユの性格が、悪いはずはない。なのに性悪を自称した彼女がおかしくて、セレーヌは思わず吹き出してしまった。
「あら、もしかして冗談だと思った? でも、私はやる時は結構やるのよ。最近なんて、私の実父の母だとかいう老婆が訪ねて来たから、近くにあった花瓶の水を頭からかけて追い返しちゃったし」
鈴を転がしたように喉を鳴らすレティーユはやはり麗しく嫋やかだが、苛烈な一面も持ち合わせていたらしい。
眼差しでそれとなく説明を乞うと、美しい面には、それまでとは趣が異なる笑みが広がった。あえて例えるならば、とっておきの悪戯を成功させた少年のような。
「私をあの娼館に引き取りに来てくれたのはお父さま。だけど私は本当だったら、実父の家で育てられるはずだったの。でも土壇場で私の祖母だって女に、“こんなみっともない赤毛猿が、あの子の子供なはずない”って拒否されちゃって。それで、行くあてのない私を見かねたお父さまは、私を養女として引き取ってくださったのよ」
「なんだそれ。信じられないぐらい性格が悪い婆だな。そんな暴言浴びせておいて、一体どの面下げて会いに来れたんだか」
「そうでしょう! そんな性悪婆に、アレンシスの誕生祝に来たという名目で、金の無心に来られて、黙っている訳にもいかないじゃない? 十五年越しとはいえ、猿呼ばわりされた借りは返さないといけないし、この子をダシにしたのも赦せないし。だから、やってやったのよ」
――あの時は、すっきりしたわ。
今度は晴れ渡った空のごとく頬を持ち上げた女性は、セレーヌとは十近くも年が離れている。けれどレティーユと会話するのは、同世代の少女との噂話に興じるようで楽しかった。話題そのものは「楽しい」からはかけ離れたものだけれど。
「私の名前を付けてくださったのはお兄さまなのよ。この髪が、炎みたいに綺麗だから、って」
レティーユが頬をうっとりと紅潮させて語る在りし日のジリアンは、セレーヌの想像の数十倍美しく愛らしく、利発な子供だった。これが世に言う美化というものだろう。だけど、傍から見たセレーヌだって同じようなものかもしれない。
フィネは顔面の筋肉を動かすことの方が稀な上に口数も少ないから、普段は何を考えているかも良く分からない。でもセレーヌが仕事帰りの彼を出迎えると、きりりと引き締まった口元は、ほんの少しだけ緩むのだ。
フィネはたまに、こちらの苦労など察しようともせず、夕食の献立が気に入らないと一言二言文句を言ってはミリーの制裁を食らっている。だが、彼は必ずきちんと皿を空にしていた。
気を利かせて好物を拵えてやっても無反応なのは腹が立つ。だけどフィネはセレーヌが辛いときは必ず側にいてくれて、優しく髪を撫で迸る感情の欠片を拭い、理不尽な拳さえ受け止めてくれた。
『俺はセレーヌのためならば、世界中の人間だって殺せますよ』
セレーヌの身が危険に晒されたあの日など、彼が内心では疎んじているだろう死刑執行人の剣を片手に駆け付けてくれた。セレーヌはそんな彼が大好きで、いつ誰に取られるかと不安でたまらないのだ。
「ねえ、セレーヌちゃん。私たちは、私たちの母親には愛されなかったわね」
互いの全てを語り合った後。レティーユが零したのは、眠る我が子を愛おしげに見守る仕草とは正反対の、だが紛れもない真実だった。
お前は母に愛されていなかったのだと客観的に宣告されても、今は穏やかに受け入れられる。
「でも私たちは、実母以外の人には愛されている。そうじゃない? 私はお兄さまやお父さまお母さまに。セレーヌちゃんはフィネさんや義理のお母さんに」
「う、ん」
「だから、信じましょうよ。自分を支えてくれる人々を。得られなかったものにいつまでも固執するのはやめて、大切な人達の愛を信じて生きましょう。そうした方が、きっと楽しく生きられるもの」
再びぼやけた視界に映る形良い唇の動きは力強かった。華奢な背を撫でる手は真綿のように優しく温かった。
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