解放 Ⅰ

「早速だけど、この子が私たちの息子よ。今は機嫌もいいから、良かったら抱っこしてみない?」

 赤毛の美女はおっとりと歓迎の言葉を述べた後、すやすやと眠る赤子をセレーヌに渡そうとしてきた。

 初めて間近で見つめた赤子は想像よりも大きくて。だけど、想像以上にか弱そうな生き物だった。乳児とは、卵よりも取り扱いを注意すべき存在だったのだ。

 異変を察知したのだろう。ふぎゃふぎゃと騒ぎ出した可愛らしい生き物は、ジリアンたちの大切な子供である。重さを支えきれずに床に落として死なせてしまったら、その責任は取ろうにも取りきれない。

「確かに、慣れてないと怖いかもしれないわね。私も、初めて抱っこする時は緊張したから」

 少女はついうっかりでは到底済まされない悲劇を恐れるあまり、首を勢いよく横に振る。しかし妙齢の女性は、優しく微笑んだままだった。

 セレーヌは、折角の申し出を断ってしまいレティーユの気を害してしまっていたら、と危惧していた。だが、レティーユはセレーヌの予想よりも遙かに寛大かつ、人が良い女性なのだろう。彼女の夫であり義兄であるジリアンも、多少残念な部分が目立つとはいえ、その人柄は慈悲深くまた高潔である。

 善良と称して余りある青年と兄妹として育ち、ジリアンが伴侶として選んだ女性であるから、レティーユの性格が良くて当然かもしれない。だが、大輪の薔薇を連想させる華麗にして妖艶な、ともすれば威圧的・・・ですらある容姿からは、想像もできない人の良さだった。

「この子はアレンシスと名付けたの。お父さまと同じではないけれど、同じ語源の名前を」

 子守歌を唄って赤子をあやした女性の、息子と同じ色の、けれども豊かに波打つ緋色の髪は、炎さながらに煌めいている。いや、煌めいているのは毛髪だけではない。聖母のごとく佇む女性は全身から、幸福という名の光が放っていた。 

 白磁の皮膚は乳脂のごとく肌理細やかで。思わず触れてみたくなる肌に覆われた肢体は、豊かで女性らしい曲線を描いていた。たわわに盛り上がった胸の大きさなど、セレーヌの貧相な胸部とは比べることすらできない。 

 それにしても、セレーヌの胸は膨らむべき時はとっくの昔に迎えているはずなのに、ちっとも成長の萌しを見せないのはなぜなのだろう。セレーヌは自身の十五歳とは思えない体型を気に病み、義母の助言に縋りつく思いで、少し前から毎日欠かさず牛乳と卵を摂取しているのに。

 鬱々とした苦味は夏場の雑草のごとく生い茂り、蛇のごとく足元に忍び寄ってくる。劣等感から目を背けるべく視線を上げると、ゆったりと咲き誇る大輪の一片に眼差しを吸い寄せられた。

 ふっくらとした珊瑚色の唇は艶やかで、蠱惑的で。笑みが刷かれると、同性であるはずのセレーヌですら釘づけになってしまう。もっとも、傍らのフィネは何故かレティーユや彼女に抱かれた愛らしいアレンシスではなく、窓から覗く空を見つめていたが。

 フィネの反応は、夫には及ばないものの、誰もが美女と讃えるであろう女性と対峙しているとは到底思えない。いっそ不可解ではあるが、それ以上に嬉しかった。

 フィネがレティーユとセレーヌを見比べ、セレーヌの貧相さに気づいてしまったら、と実を言えば不安だった。けれど、フィネはそもそもレティーユを視界に入れようともしていない。

「あなたたちのことはお兄さまから聴いていて、今日が来るのを楽しみに待っていたの」 

 一安心したところで、差し出された紅茶や茶菓子を賞味しようとしても、味に集中できなかった。手が滑ってこのいかにも高級な絨毯を紅茶で汚してしまったら、いや菓子の欠片を落とすだけでも一大事だと、危惧せずにはいられなかったから。

「どうした、セレーヌ。君、こういうの好きだろう?」

 もっともフィネはこれまた、麗しい女性の笑みに沙漠の砂粒ほどの興味も示さず、

「丁度、喉が渇いていた所ですから、ありがたく頂戴いたします」

 これまた高価に違いない茶器に遠慮なく手を伸ばしていたが。セレーヌは精緻な彩色が施された器の、薔薇の蕾を模した華奢な取っ手に触れることすら躊躇っているのに。鈍感もここまでくれば大したものである。

 恐らくフィネにとっては、感嘆の溜息を禁じられないほどに精巧な茶器も、自宅の台所に転がっている自分専用のそれと大して代わりがないのだろう。

 全く手を付けないのも失礼だろうと覚悟して、赤茶色の液体を口に含む。すると、様々な調理器具や食材が並ぶ炊事場の一画にある茶葉とは趣を異にする、香気がいっぱいに広がった。

「これ、美味いなあ」

「そう? お口に合って良かったわ」

 フィネとセレーヌの身の上を知らされているはずなのに、レティーユの顔や瞳からは、嫌悪の影すらも見いだせなかった。比喩として用いるには無礼すぎて気が引けるが、フィネの妙齢の美女であるはずのレティーユへの関心と同じくらい。

「あ、駄目よ。これはあなたには早すぎるわ」

 歯も生えていないのに焼菓子を掴んだ息子から菓子を奪った手つきは、どこまでも優しかった。

「この子、少しでもぼうっとしていると、どんなものでも口に入れちゃうのよ。たまに私の髪まで食べようとするから困っちゃうわ」

 困ったわと嘆息してはいるが、レティーユは明らかに子供の世話を楽しんでいた。そもそも子供を疎んでいるのなら、細々とした世話など試みようともしなかっただろう。

 レティーユは、貴族としての数々の特権を失いはしたが、今なお国内有数の資産家の一人に数えられる名家の令嬢であり夫人だ。子供の世話をさせるための使用人など、それこそ掃いて捨てるほど雇えるだろう。

 なのにあえてレティーユ自ら率先して、まだ生まれて間もない息子の面倒を見ているのは、彼女が彼のことを愛しているからに他ならない。

 赤毛の美女に抱かれる子供はやはり、セレーヌとは全く異なる生き物なのだ。母の愛を渇仰しても得られなかった苦しみに耐えかね、母に愛されなかった自分を認められず、ついに自らの記憶を歪曲するに至った自分とは、根底から違う生き物。

 一年も経っていないのに、五十年は昔のことのような、結婚して最初の春の終わり。怪我をした我が子を腕に抱く若い母親の姿を目撃し、平らな胸に吹き出たのは、憎悪と嫉妬だった。

 自分がどれほど渇望しても得られなかったものを享受している存在への妬みは、滴る血よりも粘ついていた。何より、地獄の炎よりもどす黒く、泥よりも苦かった。

 あの血なまぐさい味は、今でも憶えている。けれども、胸の裡で密かに育んできた理想の母子の像を目の当たりにして感じたのは、もっと別の感情だった。

 既にほとんど塞がりかけた胸の穴からひたひたと這い出る波は、確かに目頭を熱くしたが、涙を流すほどではない。かつて生温かな血が噴き出した傷は、とっくに瘡蓋で塞がれていたのだ。そして新しい肉が再生し、微かな傷跡を残すばかりになっている。完全に癒えることはない傷は、しかしもう目を凝らさなければそれと分からないまでに薄れていたのだ。

 痛めつけられた肌にこびり付く血を拭い、生々しい傷を厭わずに薬を塗ってくれたのは、フィネやミリーとのかけがえのない穏やかな日常。また、瀟洒な館の主である公爵家一家を始めとする、様々な者の善意である。

 小さな胸に広がったのは羨望ではないが、諦観でもない。それらに似ているけれどもっと晴れやかな、晴れ渡った冬の朝に似た感情だった。

 臓腑までを凍てつかせる冷気に震えながら仰ぐ冬の朝日の輝きは、直視するには厳しすぎる。けれど輝かしい一日の始まりを教えてくれるものなのだ。

 芽生えたばかりのこの想いがはっきりとした形を成すには、まだ時間がかかる。セレーヌが命を賭けて固執し続けた影の影響からは、そう簡単には逃れられない。でも、いつかやり遂げなくては――振り払わなくてはならないのだ。どんなに不格好でも、時間がかかってもいいから。他ならぬ自分と、こんなみっともない自分でも愛し大切にしてくれる、かけがえのない人たちのために。

 天啓のごとく降りてきた覚悟を噛みしめていると、視界に映る赤子の、父親によく似た整った顔の造作が急にぼやけた。

「セレーヌ?」

「べ、べつに、な……でも、」

 飾帯レースで飾られた袖で拭っても、塩辛い滴はどんどん溢れて来る。セレーヌの手提げから、フィネが手巾ハンカチを探し出してくれるまでには涙は止まっていたが、

「あら。アレンは泣き虫ねえ」

 セレーヌの涙に釣られたのか。にこにこと笑っていたアレンシスまでもが、泣きだしてしまった。赤子は本当に、泣いたり笑ったりで忙しい。

 幸いアレンシスはレティーユの子守歌によってすぐに機嫌を直してくれた。

「ねえ、折角だからやっぱり抱っこしてみない? この子は綺麗なお姉さんが好きだから、セレーヌちゃんみたいな可愛らしいお嬢さんに抱っこしてもらえば、きっと喜ぶわ」

 躊躇いながらも今度こそ受け止めた赤ん坊はずっしりと重く、けれども蕩けそうに柔らかかった。これこそ己が身にどんな困難が降りかかっても守らなければならない存在なのだ。

 セレーヌの頼りない腕の中だというのに、泣き疲れた赤子は、うとうとと瞬きする。濡れた長い睫毛がぱちぱちと上下する様を眺めていると、いつの間にか頬が緩んでしまっていた。

「初めてなのに、抱っこするのが上手なのね。きっと将来はいいお母さんになれるわ」

 セレーヌの抱っこがアレンシスに嫌がられなかったのは、ひとえにレティーユやジリアンの助言のおかげなのだが、悪い気はしなかった。

 完全に眠りの世界に旅立ったアレンシスを起こしてはならぬと慎重に、彼を母の許に返す。柔らかな重みが消え去った瞬間、胸中を過ったのは一抹の寂しさだった。

「私たちはこれからこの子を揺り籠に寝かせに行くのだけれど――」

 夫と共に席を立った女性の金緑の瞳が、真っ直ぐに若葉の瞳を覗き込む。

「もし良かったら、あなたたちも一緒にこの子の部屋に行きましょう」

 貴石の双眸は、穏やかな女性らしからぬ、強固な意思すら滲ませていた。

「あ、ああ」

 この旅の目的はもう既に果たしてしまったのだから、これ以上この屋敷に長居する理由はない。レティーユ自身はセレーヌたちを歓迎してくれているけれど、使用人たちの中には、汚らわしい死刑執行人とその妻の訪問に反対した者もいるだろう。それに、肝心のアレンシスは泣き疲れて眠ってしまった。

 だがレティーユのあの目はまるで、セレーヌが頷くと確信していたみたいだから、断り切れなかった。

「ここがアレンの部屋なの」

 少女は案内された子供部屋の、可愛らしい玩具や華美ではないが上質で品の良い家具の調和を乱す、揺り籠に掛けられた物体を摘まみ上げる。

「これは……?」

 先が尖った淡い黄色の物体は、紐に通された獣の牙だろう。世の中には、革に通した牙を首飾りとしてぶら下げる輩もいると耳にした覚えはある。しかし、なぜ野性的にすぎる装飾品が揺り籠を飾っていたのか察しがつかなかった。

「ああ、それは熊の牙よ」

 レティーユは何でもないことのように息子を熊の牙で飾られた揺り籠に横たえ、セレーヌの声なき疑問に答えてくれた。

「お父さまの領地だったルオーゼ北東部ではね、赤ちゃんの揺り籠に熊の牙を飾るのよ。子供が、熊みたいに元気に育つようにって。ね、お兄さま」

 それでは元気すぎて手を焼くのではないか、という心の声の方は届かなかったようだが。

「そうだ。僕たちが育った本邸には、何百年前のだったかは定かではないが“主”の剥製がある。君たちにも、あれを見せたかったな。六人の村人を襲い、村々を恐怖に陥れた伝説の熊の剥製を。僕の先祖が命と引き換えに倒した熊の威容を。あれの牙と爪の鋭さは、まさしく森の神の使いに相応しい代物で……」

 客の身で主人の話を無視するのは悪かろうと、少女は熊と人間の伝説の戦いの仔細に耳を傾ける。潤んでいたはずの眼球は、急速に乾いていった。

「それじゃ駄目よ、お兄さま。そんなんじゃ、あの主の力強さがセレーヌちゃんに伝わらないわ」

 そして繊手の温かさを肩で感じた瞬間は、

「私がセレーヌちゃんにじっくり熊の素晴らしさを教えるから、お兄さまはその間フィネさんと談話室で旧交を温めていて。そうだ、お兄さまのあの剥製を見せてあげたらいいわ」

 うっかり変なのに捕まってしまったなと身構えてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る