第三部 春

序 生命

 女がふわと珊瑚の唇を開くと、腕の中の赤子もその小さな口を開いた。次いで、既に頬に濃い影を落とす長い睫毛で縁どられた目蓋をぱちぱちと上下させ、まだよく見えていないだろう双眸で周囲を見渡す。

 約二か月前。ありとあらゆる生命が長い眠りから覚める刻の、冷ややかで清廉な雪片の代わりに、硬い杏や桜の蕾が木々を彩る麗らかな朝。屋敷を囲む鈴掛の木プラタナスの芽生えと歩調を合わせるように生まれた息子は、どちらかと言えば父親に似ていた。

 無垢な瞳は多少緑を帯びているものの、澄み切った青色をしている。顔立ちそのものも、自分よりも義兄にして夫であるジリアンの面影が色濃かった。母であるレティーユの欲目でなく、両親や出産祝いに駆け付けてくれた夫の部下のみならず、使用人たちも皆口々にそのように称賛してくれた。


 おどろに繁茂したいばらの森を裸足で進むような。けれど安産だった、と医師に微笑まれた苦悶はついに終わった。

「ああ、私にもついにおばあさまと呼ばれる時が来たのね」

「君みたいに若くて美しい祖母は、世界中を探したって他にはいないさ」

「もう、何を言っているの、あなたったら!」

 いまだ身体中が痛むものの、座布団クッションと感涙に咽ぶ夫の腕に背を支えられて我が子を抱いたレティーユに向けられた薄紫の眼差しはどこまでも慈しみ深い。

「とにかく、ほんとうによく頑張ったわね、レティーユ」

 白磁器の指が汗ばんだ額をそっと拭う。額に張り付いた前髪を整えてくれた母の瞳に湛えられた愛情は、疲弊した心身にじんわりと沁みこんだ。

 ――男の子だったら父上にあやかった名前に、女の子だったらレティーユと同じ天使の名前にしよう。それともやっぱり、流行りの名前がいいだろうか。

 妊娠が発覚してからずっと兄と、時に父母も交えて話し合っていたけれど、結局候補を搾り切れなかった息子の名前。我が子がこれからずっと呼ばれる響きを決めたのは、息子自身だ。最終候補に残った幾つかを彼の耳元で囁いて、最も嬉しそうに反応した名前を授けたのである。

「私と似た名を選ぶとは。この子はきっと、私に似て賢い子供になるぞ」

 熱せられた飴よりも蕩けた顔をして息子の寝顔を見つめる父は、紛れもなく祖父の顔をしていた。

「あなたに頭の出来が似るのは喜ばしいことですけれど、どうしようもない研究者気質まで似たら困りものだわ」

「……な。君は昔、私のどこが一番好きかと尋ねたら、“優しくて頭が良い所”と答えてくれただろう!?」

「――それとこれとは話が別です。だいたい、あなたはまた本を買い込んで……。書斎はもうどこも一杯なのに、一体どこに収納するおつもりなのですか!?」

「そ、それはだな……」

 しゅんと肩を落とした父の様子を好機と見做したのか、兄はすかさずとどめを刺しにかかった。

「そうですよ、父上。この子は僕が熊を倒せるぐらい強い男に鍛えるんですから。書斎に籠ってばかりいるような子に育っては困ります」

「ジリアン。あなたはいい加減にその訳が分からない拘りを捨てなさい」

 しかしその兄も母からの攻撃を見舞われてしまって。

 結局ちょっとした親子の争いが勃発したものの、普段は遠く離れている父母を交えた家族の時間は、概ね穏やかに過ぎていった。母と兄のふとした口論が切っ掛けで、レティーユは衝撃的な事実を知ってしまったけれど。兄は、未だ熊を斃して英雄となるという夢を諦めていないらしい。

 生まれたばかりの子を父無し児にはしたくない。夫の壮大な目標を語られた際は背筋が震えてしまったが、

「だいたいあなたは、父親になったのにまだそんな子供みたいな夢を追いかけていて……。聞かされる私やレティーユの身にもなりなさい!」

「……ですが母上。熊には男の浪漫が、」

「言い訳は聞きません! だいたい前々から注意してるけれど、あなたは少しは現実って物を見なさい、現実を! 服に余計な重りを仕込んでいるのに、どうして地に足を付けられないの!?」

 母がレティーユの分も兄を諭してくれたので、大丈夫だと信じたい。

「とにかく、レティーユの心身に負担をかけるようなことは、これ以上言うんじゃありませんよ! でないと、士官学校の卒業祝いにあなたにあげた熊の剥製、このまま持って帰りますからね!」

「……はい」

 母はレティーユの床上げが終わると同時に、父と夫婦揃って帰ったが、その前に数々の助言を残してくれた。

 ――産後の身体はできる限り労わらなければならない。それに、身体が完全に元に戻っても、子育てに慣れた者を側に置いていた方がよい。

 その一つに従い雇い入れた子守は、六人の子を立派に育て上げ、十を越える孫を持つという穏やかな老女で、安心して息子を任せられた。

 子供をあやす技量においては自分も兄も、屋敷の他の使用人も彼女には敵わない。もっとも子守は、

「やっぱり坊ちゃんは、奥様の腕の中にいる時が一番幸せそうにしている」

 と、しきりにレティーユを持ち上げてくるので困ってしまうのだが。

「あんたは昨日坊ちゃんのお昼寝の世話をしたでしょ。だから今日は私に譲りなさいな」

「何言ってんのよ。そういうあんたは、一昨日もその前も一日中坊ちゃんの側にいたじゃない。だからあんた、今日は廊下の掃き掃除でもしてればいいのよ」

「あなたたち! そんなに大きな声で騒いでいたら、折角お眠りになった坊ちゃんが泣いてしまいますよ!」

 焼きたての麺麭さながらにふくふくしい慈愛の母の顔から一転。魔女も裸足で逃げ出す形相で、新たに雇い入れた侍女を一喝する子守の老女の真似をして息子を抱いていると、彼女の発言もあながち間違っていない気がしてくるから不思議なものだった。

「これが隊長の子供ですか」

「可愛いですね」

「あ、次は俺に抱かせろよ」

 夫の部下たちが大勢で詰めかけてきたのは、丁度赤子の午睡の頃であった。

 騒音に無理やり起こされた形となった息子の機嫌は最悪だった。それでも折角訪れてくれたのだから、と俺も俺もと挙手する青年たちがおっかなびっくり赤子をあやす様を見守っていると、ふいに野太い悲鳴が轟いてきて。

「……申し訳ないな。僕ので良かったら、着替えを貸してやるけど、」

 あんまり不愉快だったのか、息子は雀斑の青年の服に粗相してしまった。けれど夫に連れられ賑やかな一行が部屋を出た途端、にこにこと笑いだしたのだから、将来は大物になるかもしれない。その時が来るのが楽しみだと今から期待してしまうのは、親の性なのだろうか。

「おお、坊ちゃんはいつ見てもなんてお可愛らしい……」

 いつかの騒々しい輩みたいに奥様や坊ちゃんを疲れさせてはなりません、と牝獅子のごとく子守の老女は呻る。その彼女の許可をどうにか取り付けやってきた爺やは、若様が赤子の頃を思い出しますと、目の端に涙を浮かべていた。

 小さな身体をゆっくりと揺さぶれば再び寝入ってしまった息子は、母である自分と同じ緋色の髪をしている。

 息子の祖父である養父の髪は灰色を帯びた金色で、レティーユが生まれる前に亡くなった実父は、熟れた小麦の穂のようで見事な金褐色の髪をしていたという。つまり息子が成長したら、今のところ真っ直ぐでさらさらとした毛の束は、二人の祖父のそれぞれ色味が異なる金色のどちらかに変じる可能性もありはするのだ。けれども、この色は変わらないだろう。根拠など一つもない、ただの母の勘だが、当たる気がした。

 レティーユは幼少期、母のスカートにしがみ付いて、わたしもきんいろのかみに生まれたかったと、泣いて羨んだ覚えがある。

 だがレティーユは息子に対して、金髪になってほしいとは思わなかった。まして、夫と同じ美しい白銀の髪に産んでやれなくて申し訳ないとも思わない。むしろ、自分と同じ赤毛に生まれてきてくれて嬉しかった。そもそも髪の色などどうでもよくて、息子が元気に生まれてくれただけで十分なのだ。

 あなたはいつも、私に大切なことを教えてくれるわね。

 はちきれんばかりに母乳が詰まった胸に広がる、愛おしさと感謝の念は抑えきれない。起こさないようにと気を付けながら、滑らかな頬にそっと唇を落とすと、青緑の瞳がぱっちりと開いた。

「い、痛いわ……」

 むずがりはしなかったものの、長い横髪を一度のみならず二度、三度ぐいと引かれたのは、安眠を妨げられた仕返しのつもりなのかもしれない。しかし蟀谷を中心に広がるのは、紛れもない幸福だって。

「坊ちゃんはきっと、悪戯好きの元気なお子様に成長なさるでしょうね」

 縫いかけの産着を卓に置いた老女に委ねると、赤子はきゃっ、きゃっと笑いだした。

「今はこんな婆の腕でも喜んでくれますが、そのうち若くて綺麗な女性の後ばっかりを追いかけるようになるんですよ。うちの息子たちもそうでしたから」

「あら、それは寂しいわ。そしたら私も、今にこの子に相手にされなくなっちゃうのね」

「奥様ったら、何を謙遜してらっしゃるんですか! 奥様ならきっと、十年経っても二十年経っても、今と同じくらいお綺麗でしょうに!」

 老女が機嫌を直した息子をレティーユの腕の中でなく揺り籠に横たえたのは、もうすぐ来客が訪れる時間だからだろう。

「坊ちゃんは私たちが見ていますから、」

 侍女に促され、部屋着からゆったりとしているものの客人を迎えるに相応しい衣服に袖を通す。次いで、毛先の所々が涎でべたついた髪を梳いて纏めると、約束の人物とその連れは計ったような頃合いで現れた。柔和で繊細。なおかつ甘やかな顔立ちを引き立たせる服装の彼女の髪は、光を濾したかのごとき白金色だった。

 金髪や栗毛が多いルオーゼ人の中においても希少で目を惹く色彩を備えた少女に逢うのは、無論今回が初めてである。しかしレティーユは、彼女の存在そのものは以前から知悉していた。

「いらっしゃい、セレーヌちゃん。私たちの子供のお祝いしてくれるために、はるばる来てくれたなんて、嬉しいわ」

 ゆったりと微笑むと、少女は僅かながらその可愛らしい口元を噛みしめた。怯えたような、あるいは途方にくれたような、レティーユもいつか鏡の中で見た覚えがある顔をして。

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