終 その色は赤

 鋼鉄の剣を握り、数多の罪人を屠った手も、凍てついた重みをすっかり忘れ果てた。首都の死刑執行人の職を退いてからまだ数年しか経っていないのに、斬首用の剣を振るう日々はもはや遠かった。

 老いた男が居を置く街が、この街を首都と戴く国そのものが目まぐるしい変転を乗り越えてから、はや三十近くの歳月が過ぎ去った。なので、男が老いたのも当然と言われれば当然かもしれない。蔵書の文字や遠くの景色が最近ぼやけがちになったのも。

「おじさん」

 耳元で囁かれた、朗らかで甘い響きが鼓膜をくすぐる。次いで後頭部に柔らかなふくらみを押し付けられると、ああこいつも大きくなったなと感慨深くなった。自分が三十の時に生まれた従弟の長女が、いつ嫁に行ってもおかしくない歳になったのだ。レイスが老けるのも道理である。

「日記なんてほっといてさあ、せっかく私が遊びに来てるんだから、一緒に買い物に行こうよー。おじさん、最近老眼気味なんだし」

 直視するのを避けていた現実を、そのつもりはないのだろうが容赦なく突き付けてくる娘はころころと笑っていた。

「なんなら、私が代わりに書いてあげようか? そしたら少しは早く終わるでしょ?」

 ペンを持つ皺が寄った手に添えられた手の白さ細さは勿論だが、その肌の肌理細やかさや瑞々しさが眩しかった。

「お前に日記の代筆なんて任せられるか。あることないこと適当に書かれそうで信用ならん」

 柔かなぬくもりをやや乱雑に振り払い、ムキになっちゃってと笑い転げる娘を睨みつけるふりをする。

「ほら、お前はあっちに行ってろ。人の日記を盗み見るなんて悪趣味だぞ」

「はいはい、分かった分かった」

「今度からは“はい”は一回だけにしろよ。親父に教わらなかったのか」

「えー? 覚えてないや」

 すらりと丈高い細身の娘が席から立つと、長く癖のない鳶色の髪が華奢な背の上で踊った。

「それより早く買い物に行こう! おじさんも、私みたいな若い女を連れて歩けるのは嬉しいでしょ? この前みたいに同年代の人たちから、羨ましそうな目で見られること間違いなしだよ!」

「……でもお前はフィネの女版だからなあ。あいつと同じ顔の女を羨ましがられても、」

「なにそれひどい!」

 だったらロゼリーならいいの、と妹の名前を呟いてわざとらしくむくれた娘は、顔だけならば本当によく従弟に似ていた。

 彼女が従弟に似ているのは顔の造作だけではない。髪や瞳の色も、平均よりも抜きんでて背が高い所も同じだった。対照的に母親に似た従弟の次女の方は平均よりも著しく背が低いのだから、並んで歩いていても傍目には姉妹とは映らないだろう。もっとも、彼女らは外見こそ似ても似つかないものの、非常に仲睦まじい姉妹なのだが。

「あー、私、傷ついたなー。傷ついたから、このまま独りで買い物に行っちゃおうかなー。そしておじさんのお金で好きなお菓子を買おおっと。それからついでに、夕飯のおかずにするために牛の肝臓も、」

「よし、分かった。今すぐ出かけよう」

 五十近くになって好き嫌いをするのは恥ずかしいが、何歳になってもあの生臭さには慣れないのだから仕方がない。

「やったー! おじさん大好き!」

 やったも何もお前がそう仕向けたんだろうが。突っ込みは、がばりと後ろから抱き付かれた衝撃のあまり、筆と共にどこかに飛んで行ってしまった。

「ありがとうね、おじさん」

 若く魅力的な娘に抱き付かれる。若い女のまろみを押し付けられ、身体は細い割りにたわわな乳房で腕を挟まれる。にやにやと薄い頬を緩めているだろう娘と同じくらい若く、なおかつ彼女と血が繋がっていない男ならば、だらしなく鼻の下を伸ばすこと間違いなしの状況である。

 だがレイスは、あらぬ欲望など微塵も感じなかった。彼女は少年期だけとはいえ同じ家で育った従弟の子供だ。それつまり、半分はレイスの娘であると言い切っても過言ではない。

「お前な、俺やフィネ以外の男にそんなことして、変な勘違いされても知らねえからな」

「そんな冷たいこと言わないで何とかしてよ、おじさん」

「お前こそ、そこは“そんなことしないよ”って言えよな!」

「はーい」

 はしゃぐ娘に牽かれるように玄関へ急ぐ。

「ほら! こんないい天気なのに家の中に籠ってばっかりなのは損してるよ」

 鳶色の髪の娘が目を細めたように、勢いよく開け放たれた扉の向こうには、抜けるように蒼い空が広がっていた。

 入道雲をまばらに散らした空は、一瞬たりとて同じ顔をしていない。だのに、この青空には奇妙な既視感があった。調子のいい鼻歌に耳を傾けながら熟考した男は、ややして遠いの情景を記憶の淵から引きずり出す。今日の空模様は、レイスがこの国最後の王族の首を刎ねた日のものとよく似ているのだ。


 飢えた獣の眼のごとく輝く太陽を戴く天の青と、夏空の下で飛び交う新聞の号外の灰色は、著しい対比を成していた。

 万が一があってはならないと念入りに磨いた刃が、真夏の太陽をぎらぎらと反射する早朝。六百年の長きに渡りルオーゼを支配してきた王家は、真の終焉を迎えた。

 夜明け直後という刻に関わらず、多くの見物客が集まった処刑場。僅かながら燻る王党派を警戒し、特別に配備された憲兵に警護されながら、レイスは介添え二人に縛められた最後の王子――かつて首都を慄かせた幼女連続虐殺事件の真犯人の首を斬り落とした。

 勢いよく転がり落ちた首から流れた鮮血は、整えられた石畳を紅く染め上げはしたが、ただの人間の血液であった。王が神に等しかった時代に信じられていたような、不治の病を治す効果など備えているはずはない、ただの紅い液体。この地が生贄を欲する恐ろしき神々の息吹に覆われていた頃、蔓延っていた迷信のごとく、王の血脈が途絶えたところで燃え盛る火球が堕ちて来もしなかった。

 遠くアルヴァスの流れを引く者たちは、国内外の貴族や王族に数多く存在する。が、新たに生まれ変わったルオーゼは彼らを王として決して認めない。

 そのように明記された憲法が交付され、民意に依って選ばれる制限付きの王――大統領なるものが以前は王宮であった官庁の長として君臨したのと歩を同じくして、世界は大きな変転の時を迎えた。

 まず初めに、数多の血と故郷を失った民の涙を流させた、山脈の向こうの南の血の戦争が、痛み分けながら終結した。

 外国人街に逗留していた南の民の一部は、復興の支援をするために国に戻った。一方で、この地に留まる道を選んだ者も多かった。荒廃した故郷を厭った者や、既にこの地に根付いていた者は、もはや帰還を望まなかったのである。

 既にルオーゼ語を習得していた南からの避難民は、時に周囲の心無い者から謂れのない差別を受けることはあっても、概ね恙なく暮らしている。そしてその差別も、いつか消え去ってしまうのだろう。

 三分の一の民が死に絶えたという、海峡を超えた帝国の内乱に終止符を打ったのは、ノルバの老女王であった。彼の国は、北の海の覇権を争うトラスティリア王国の勢力拡大を危惧していたのである。

 既に孫に王位を譲っていた老女王は議会の承認を得て皇帝側として参戦し、トラスティリア王国と彼の地が支援する、北西の選帝侯国の艦隊を壊滅させた。そして、選帝侯の居城の膝下の街を焼き払ったのである。

 ノルバ王国軍とトラスティリア王国軍の戦闘の舞台ともなった彼の地には、独立戦争を継続する余力など、欠片も残されてはいなかった。かくして帝国北西の選帝侯国は和平を受け入れ、内戦の火種が最初に蒔かれた帝国南方も、半独立を成し遂げたものの名目上は帝国に残った。

 世界は散発する小競り合いを除けば、概ね平穏になった。ルオーゼは国力こそ北方の雄として君臨するノルバ王国には敵わないけれども、何事も平和が一番なのである。


 人間の血肉に飢えた神はようやく満足し眠りに就いた。レイスは、その眠りが一瞬でも長く続けばと祈っている。

「ぼーとしてないで早く歩いてよ、おじさん」

 レイスを煩く急き立てる娘や、その妹のために。

 一切の酷刑が禁じられた国において、死刑執行人は緩やかにだが姿を消しつつあった。一族のある者は、差別と偏見が比較的少ない土地に移り住み、外科医として開業した。またある者は自分の素性を知る者などいるはずがない西の隣国へと移り、軍医となって海の向こうで果てたのだとも、その地に居ついたのだとも聴いている。

 穏やかな滅亡を迎えたのは、従弟の家系もまた同じ。従弟の子は家督を継げぬ娘二人のみで、彼女らはレイスのように、血と死臭が染みついた因習に囚われはしないのである。

 拷問を禁じる法案が議会で可決されてから、レイスは先祖から受け継いだ拷問道具や書物をあちこちに売り払った。

 仕事道具・・・・を競売に出した際は、冗談半分だった。果たしてこんなものを欲する輩がいるだろうか、と。しかし、待っていたのは予想を超える大反響だった。あるいはそれも、自分たち死刑執行人と一般市民とが近づいた証なのかもしれない。

 怪しげな黒魔術に凝っている異端者。純粋に歴史を語る品としてそれらを蒐集しようとしている好事家。あるいは、近々建設する予定の博物館の目玉にしようと目論む成金……。

 レイスが臨時に雇った使用人も交えて、先祖伝来の品々を運び出し終えた時には、酷使しすぎた筋肉は煮込みすぎた葉野菜同然になっていた。代々の営みを見つめ続けた屋敷の真の主は、もしかしたら血なまぐさい生業に使用された道具や、凄惨な叡智の結晶だったのかもしれない。

 何はともあれ、ついにこの齢になるまで独り身を通した男には、金雀枝エニシダに守られた屋敷は狭すぎた。ためにレイスは維持に掛かる手間と費用も考慮に入れ、首都郊外の小さな一軒家に居を移したのである。

 古い館は既に壊された。だから、万が一レイスが晴れの舞台・・・・・に立てなくなった際の代理人として、また助手として首都に赴いていたフィネが、議員の使いという者から受け取った三枚の書類を火にくべた炉ももう無い。

「ねえ、こうしてるとおじさんはきっと周りの人から“若い女に誑かされてるだらしない中年男”って思われてるよね」

「……分かってるならさっさと離せよな。暑苦しい」

 父親よりも年嵩の男と楽しそうに腕を絡める奇特な娘が、父親から勧められた見合いを拒絶して家を飛び出し、レイスの元に転がり込んでから既に数ヶ月経っている。

「お前、そろそろ親父のとこに戻らねえとそのうち痛い目に遭うぞ」

「でも、嫌なものは嫌なんだから、仕方ないでしょ」

 決して悪くはないどころか好条件の縁談のどこが彼女の気に入らなかったのかは定かではない。だが、レイスは既に手紙で娘の居場所を従弟に伝えている。今は上機嫌でレイスの腕を引く娘が、静かながら苛烈な怒りを湛えた父親の手によってあるべき場所に連れ戻される日は近いだろう。だから、それまで可愛らしい我儘に付き合ってやるのも悪くはない。

 精神力を著しく消耗する長い買い物が終わった頃には、既に日は傾いていた。せめてもの記念に、と先の家から移した黄色い花を透かして差し込む西日が、柔らかな髪に射す。光を透かして茜色に艶めく髪は、老いた眼には眩しかった。

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