真実の断絶と終焉へ Ⅳ

 初夏の太陽は酷使しすぎた目にはいささか眩しすぎた。少女は赤らんだ目をごしごしと擦り、重く痺れる頭を振る。しかし忌々しい眠気は執拗に纏わりつき、小さな桃色の唇からはふわと小さな欠伸が漏れた。

 偶然にもフィネが二十五年前にこの世に生を受けたまさにその日。首都へと帰還する憲兵の面々は、今回は青の軍服を堂々と纏っていた。

「ちょっ、ティド、お前、少しは足元に気を付け……」

「あー、踏んじまったか。しっかし、犬の糞踏んでも気づかないなんて、すっかり舞い上がっちまってるな」

 ただし酩酊したような目をした、雲の上を歩いているかのごとく覚束ない足取りの眼鏡がいたり、

「あんた、あたし以外の女にも“いつかパルヴィニーに観光に来ませんか。その時には喜んでご案内させていただきますよ”なんて言ってたのね!?」

「乙女の純情な心を弄んだ責任は取ってもらわないと。 ――今すぐ私の足元に這いつくばって謝罪して頂戴」

「ちょっと! こいつを最初に足蹴にするのはこのあたしよ!」

 二人の娘から代わる代わる制裁を受けている雀斑の男がいたりするが。

 拾い上げた囁きが正しいなら、眼鏡の方はこの街から離れる前にせめて、と好意を抱いた女性に会いに行ったところ、文通の約束を交わせたらしい。

 相手は修道女らしいから、眼鏡の恋には多少は障害がある。しかし修道院の廃止や統合が相次ぐ昨今では、修道女の還俗は大目に見られているらしいから、きっと上手くいくだろう。雀斑の方がどうなるかは知らないが。

「今日はいい天気だな。出立にはぴったりだ」

 部下を救出する素振りなど微塵も見せぬ美青年は、遠巻きに騒動を眺めるセレーヌとフィネの元に寄って来た。

「折角だから、もっと近くに寄ってくれ。そんなに遠くにいられたら満足に会話もできない」

 怒り狂った女とは飢えた肉食獣並みに獰猛な生物であり、彼女らが跋扈する領域には不用意に足を踏み入れてはならない。

 雀斑を踏みつける女たちの恐ろしさは勿論だが、基本的に近隣の住民から忌避されている自分たちには、この世界は明るすぎる。それでも少女が優しげに微笑む青年の招きに応じた途端。

「若様! こちらにおられたのですね!」

 老成してはいるが溌剌とした響きが、少女の歩みを止めた。

「爺や」

 たったの数か月前のことなのに、もはや遠い昔のようなあの日。セレーヌが初めて出生の真実に触れた日に、ベルナリヨン家に訪れた老人の挙措は、やはり実年齢よりも若々しく品があった。

「入れ違いにならなくて何よりです」 

「どうしたんだ、爺や。屋敷で何かあったのか?」 

 老人は可愛らしい薄紅色の封筒を主に恭しく手渡す。

「さ、ひとまずこれをお読みになって下さいませ」

 皺で覆われた頬に広がったのは、眺める者の心を温もらせる満面の笑みであった。

 たとえ明日の食事さえ保証できぬ生活を送っていた男が、ある日いきなり遠い親戚の莫大な遺産が手に入れても、老人ほど見事には喜びを表現できまい。そんなとりとめのないことを考えてしまうぐらいに、その笑顔は素晴らしかった。

 面白そうな話題の気配を嗅ぎ取った部下たちを背後に従え、白銀の髪の青年は薄紅の手紙の封を切る。一体どんな吉事が記されているのかとちらと垣間見えた一葉には、丁寧で細やかな文字が並んでいた。きっとこの文は、穏やかで聡明な女性が綴ったのだろう。

 雲一つない青空よりも鮮やかな双眸は、忙しなく動いているはずだ。今まさにジリアンが拾っている驚愕は、震える肩や背からも察せられた。

「た、隊長?」

 封筒と同じ可憐な淡い桃色に染まった紙片は、剣胼胝が目立つもののしなやかで、美しい指から滑り落ちる。

「これ、大事なやつなんだろ?」

 少女は丁度足元に落ちた一葉を拾い、文面を確かめたいと沸き立つ好奇心を抑えながら、適当な隊員に手渡した。

「ああ、うん。ありがとうね、お嬢ちゃん」

 輪になって手紙を凝視した青年たちの間から歓声が上がるのに、大した時間は要されなかった。

「“お医者様は、あと半年もすれば生まれるとおっしゃっていて”――隊長、おめでとうございます!」

 最初の二人に加え、後から駆けつけた数名から袋叩きにされている青年の、助けを求める悲痛な叫びと鈍い衝撃音が響く最中。堰切って溢れだした祝福の言葉はどこまでも晴れやかだった。

「隊長、レティーユさんとの子供ならいくらでも欲しいって言ってましたもんね」

「隊長たちのお子さんなら、きっと可愛い子でしょうね」

 喜びのあまり、思考が停止してしまったのだろう。魔術を掛けられたかのごとく身動き一つしない青年の周りは、たちまち言祝ぎでいっぱいになった。

「よーし。みんなで胴上げするぞ!」

 憲兵たちは威勢のいい掛け声とともに約一名を除いた皆で上司を担ぎ上げ、空中に放り投げる。彼らは心の底からこの慶事を喜んでいた。

「た、隊長。おめで、と……ござ、ます」

 猛牛よりも恐ろしく猛々しい娘たちからようやく解放された青年も、途切れ途切れの祝福を紡ぐ。そうするがいなや、雀斑の青年はこの場にがくりと崩れ落ちた。

「ありがとう。今は嬉しすぎてこれしか言えないけど、とにかくとても、言葉にできないぐらい嬉しい」

 喜ばしい驚きは未だ覚めやらぬらしい。蕩けた顔をした青年の双眸には、雀斑の顔や服に散らばった、娘たちの怒りの痕跡など映らないのだろう。フィネは蒼ざめた顔で「あれは今すぐ手当をしないと……」などと零したのだが。ジリアンやその他の隊員たちにとっては、これはごくごく普通の、ありふれた日常の光景なのかもしれない。

「おや、セレーヌ様にフィネ様」

「ああ、久しぶりだな」

「ええ、こうしてまたお会いできて何よりです」

 老人も十年使い古された雑巾さながらの青年をちらと一瞥しただけで、彼の状態には触れようとはしなかった。

「しかし今日のセレーヌ様の御髪は可愛らしいですなあ。ミリー様に結い上げていただいたのですか?」

 一部を三つ編みにし、大好きな薔薇色の飾紐リボンを使って纏め上げた髪。ベルナリヨン家では最も遅く起床する青年に気づかれては、と朝から義母と二人で密かに大騒ぎした成果を褒められたのだ。水面に落とされた洋墨インクのごとく頬に広がる紅色を抑えきれなかった。

 まだばれてはいけないから、少女は俯いて喜色を隠す。

「言われるまで気づかなかったけれど、確かに涼しそう頭をしているな」

 青年はセレーヌが普段よりも手の込んだ髪形にしている理由を察しようともせず、とぼけたことを言ってきた。これなら、食卓に並べられた自分の好物を目の当たりにするまで、フィネは今日は何の日なのか思い出しもしないだろう。それはそれで大変都合がいいことなのだが、何故だか少し腹立たしかった。

 少女はしばし朴念仁に背を向け、代わりに物分りが良く人生経験豊かな老人と語り合う。

「……あんたのとこ、もうすぐ子供が生まれるんだな」

「ええ。屋敷の面々は、まるで自分の子か孫か曾孫が誕生するかのように喜んでおります」

「そうだよなあ。……その、赤ん坊って、やっぱり可愛いものなのか?」

 セレーヌは、いずれ生まれて来るジリアンの子供とは違う。誰に教えられたわけでもないが、自分が母の腹の中に宿った時、喜ぶ人間など一人もいなかったと断言できた。

 母の精神は、一欠けらも望んでいない妊娠によってさらに追い詰められた。血縁上は伯父に当たる最後の国王やその家臣たちも、次代の王の醜聞をもみ消そうとしか考えていなかったはずだ。あの化物が自分がこの世に生まれることを許した理由は、思い返すのも忌まわしい。

 普通とは評しがたい環境で生まれ育ったセレーヌだが、赤ん坊という存在には人並みに、あるいは人並み以上に興味があった。

 セレーヌもかつては自分では何一つできない、食事も排泄もままならない、泣き叫ぶことしかできない生物だったのだ。なのになぜ、セレーヌは人間が最も死亡しやすい時期に死ななかったのだろう。母が娘を事故と装って殺害したとしても不思議はなかった。というか、そうしなかったことが信じられないぐらいなのに。

 この場に詰めかけた人間は、新たな生命の誕生を喜んでいた。雀斑の青年を足蹴にしていた娘たちですら、鬱憤を晴らし終えた後、一言二言程度であっても祝福を述べて去っていったのだから。だのに、赤ん坊とは本当に祝福すべき存在なのかと考えてしまう自分は、どこかがおかしいのかもしれない。でも、少なくとも母にとってのセレーヌは、決して喜ばしい存在ではなかった。

 暗く苦い懊悩が秘められた問いかけであるが、老木の樹皮めいた喉から紡がれた応えは優しかった。

「それ程に気になるのなら、セレーヌ様のその目で確かめれば良いのですよ」

「へ?」

「若様のお子様は、早春にはお生まれになります。それから数か月経つ頃には、身辺も落ち着いておりますでしょう」

 ですからぜひ、パルヴィニーの屋敷にいらっしゃってください。春風のごとく微笑んだ老人は、セレーヌの驚きをよそにジリアンの元へ歩む。

「ああ、いいぞ。産後のレティーユの体調が落ち付いたら、こちらから手紙を出そうか?」

 そうしてあっさりと主の承認を得て、セレーヌとフィネの来春の旅行の計画まで立てたのだから、老人の勢いはもはや止めたくとも止められない。決定事項となってしまった小旅行であるが、フィネも嫌な顔はしていなかった。

「ではな。また会う時まで元気でいてくれ」

 浮かれに浮かれる部下にもみくちゃにされながら、ジリアンは城門を抜ける。青年の染み一つない面は、喜びの紅を刷かれているがゆえに一層麗しかった。

「じゃあ、俺たちも帰ろうか」

 蜂の巣よりも騒々しい一団が視界から消えた後、小さな頭には大きく硬い掌がぽんと降りてきた。

 きっと今頃自宅では、ミリーがフィネの好物を拵えるために腕を振るっているのだろう。義母の料理はとても美味しいから、どんな物が食卓に並ぶのかと想像しただけで胸が躍る。

「どうした? 急に笑ったりして」

「べ、別に、何でもない」

 一晩中蝋燭の燈の下で、曲がった針目がありはしないかと目を凝らした襯衣を差し出したら、この鈍感な青年はどのような顔をするのだろうか。

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