真実の断絶と終焉へ Ⅲ

「おい、よーく聞いとけよ、そこのゲス!」

 緊張した場にはそぐわない、賑やかすぎる声には覚えがあった。

「今の隊長は重りを付けてない!」

「つまり、威力は四割増しだから、逃げようったってそうはいかねえぜ! もっともお前は身をもって知っただろうから、俺らが説明するまでもないだろうけどな!」

 何故だか得意げに張り上げられた叫びは、次第に拍手喝采へと移り変わった。

「それにしても、隊長、かっこよかったです! あの飛び蹴り! まさに疾風のごとし!」

「攻撃力だけじゃなくて、魅力も四割、いや八割増し!」

 囃し立てる部下二人を一喝した青年は、磨かれた軍靴の片方は倒れ伏す男の背に、もう片方は白金色の頭部に置く。

「久しぶりだな、ルベリク」

 魂が凍えるまでに麗しく艶めかしい嘲笑を整った唇に刷く青年は、青の軍服を纏っていた。血と硝煙の臭気立ち込める聖堂と外界を繋ぐ唯一の扉を囲む面々も。そのうちの幾人かは平服のままであるが、彼らが誰であるかなど分かり切っている。ジリアン率いる憲兵隊が、来てくれたのだ。ルベリクを捕らえるために――セレーヌを助けるために。

「もう大丈夫だ、セレーヌ・ベルナリヨン。……僕たちがもっと早く駆けつけていたら、君に無用な恐怖を味わわせずに済んだのだが、」

 先程とは打って変わって優しい微笑に滲む謝意は、セレーヌとフィネの両方に向けられていた。

 セレーヌの衣服は乱れているし、フィネは頬や腕に傷を負っている。傍から見ればぼろ雑巾と大差ない状態だろう。だが、命は助かった。ジリアンたちが来てくれたおかげで。

「……あ、あ……」

 助けてくれて、ありがとう。だから、そんな顔はしないでくれ。

 どくどくと、破れんばかりに早鐘を打っていたから、疲れたのだろう。心臓はようやく落ち着きを取り戻しつつあるが、華奢な身体は今更ながら震えだしてしまったから、ろくに感謝の言葉すら述べられなかった。

「……謝罪をしていただくには及びません。あなた方は俺たちを救ってくれたのですから」

 過ぎ去った死の恐怖に怯え、しゃくりあげるセレーヌの裡で渦巻く想いは、フィネが代弁してくれた。

「俺の怪我は弾が擦っただけだし、セレーヌも大事には至りませんでしたから。ただ、望むことがあるとすれば、」

 青年は汚れていて悪いけれどと呟き、血で濡れた自分の上着をわんわんと泣き喚き続ける少女に被せる。

「そこの外道を一刻も早く拘束し、処刑場に送って頂きたいのです」

 戸惑いなく紡がれたのは、これまで耳にしたどんな彼の声よりも鋭い、抜き身の剣のごとき願いであった。

「その男がこの世にいる限り、セレーヌは心からの安寧は得られない。王家の血などという、くだらないものに振り回されて――そんなものをいつか生まれる俺たちの子に背負わせるわけにはいかない」

 背に回された腕に込められた力は強く、息苦しささえ覚えたが、それも自分のためだと思えば嬉しかった。

「だったら、系譜の上では絶やしてしまえばいいのです。その男が死に、セレーヌが誕生した際に作成されたという書類も全て焼き払ってしまえば、セレーヌは自由になれる。ですから、どうか、」

 ――お願いします。

 大丈夫だとは言ったが、傷が疼くのだろう。それきり押し黙ってしまったフィネの想いは、彼に抱きしめられているセレーヌのみならず、憲兵の面々にも伝わったらしい。 

 王も罪人も、流れる血の色は変わらない。王の血も他と同じ生温かいだけの液体であり、聖性など備えているはずがない。あるいは百年の内乱を終結させ、六百年の長きに渡り続いた王朝を開いた男には、備わっていたかもしれない。だがその子孫として生まれついただけで人民を支配し搾取する権利など、誰にも有りはしないのだ。

「……約束しよう、フィネ・ベルナリヨン。僕には官庁の書類を扱う権限はないけれど、父上なら。父上に頼めば、上手く計らってくれるはずだ」

 長い睫毛に囲まれた貴石の双眸を伏せた青年は、おもむろに硬い跟を男にしては繊細な右手目がけて振り下ろした。ルベリクはこの期に及んでもなお、ジリアンの飛び蹴りを食らった際に落とした拳銃を掴もうとしていたのだ。

 くぐもった吐息は、血と同時に吐き出されていないことが不思議なぐらいだった。もしかしたら骨が折れたのかもしれないが、同情する気など、それこそ沙漠の砂粒ほども湧き起こらない。

「痛むか、ルベリク? だがこれしきの痛みなど、お前の吐き気がする欲望の犠牲となった娘たちが味わったものに比べれば、ないも同然だ。なのにお前はどうしてそんなにみっともなく呻くんだ? お前は、幼くして死んでいった彼女たちの何倍も生きているのに」

 聖歌を唄うかのように痛罵を浴びせかけながら、白銀の青年は呻く男を縛める。その手つきは思わず見惚れるほど鮮やかで、眼鏡を掛けた隊員から差し出された荒縄は、成人した男の力でもびくともしそうになかった。

「そうだ、お前に一つ伝えなければならないことがある」

 乱雑に捕らえた男の襟を掴むジリアンの笑顔は、氷の華と見紛うばかりで。

「お前は首都に送られ次第、国家反逆罪で処刑されると決まったぞ」

 その面に苦痛以外の一切を乗せていなかった獣であるが、国家反逆罪という単語が発せられた途端、彼にしては珍しく目を見開いた。こんな男でも恐れるものがあったのだ。

「だが良かったな、ルベリク。最近議会でこれからは無用に残酷な処刑は廃止すべきだと決定されたから、お前は楽に死ねるそうだ。そこにいるフィネ・ベルナリヨンの従兄にあたる首都の死刑執行人は腕がいいそうだから、ほんの一瞬で終えてくれるだろう。しかし、」

 青年が湛える笑みが慈悲と同時に凄みを見る者に感じさせるのは、ジリアンが美しいからだけではなかった。

 彼もきっと昔、この男と何かがあったのだ。隠された過去を窺わせる苛烈な怒りと残酷なる歓喜の念は、軍服に身を包んだ青年の全身から迸っている。これはジリアンの復讐でもあったのだ。だったら、存分に積年の怨みを晴らせばいい。

「地獄の土産に、お前が最後の王であるお前の兄より先に処刑されなかった理由を教えてやろう」

 報復に燃える青年が漏らしたのは、彼を見守る面々どころか国民全てが少なからず抱えている疑問であって。

「それはな、お前にお前が犯した罪を背負わせて殺すためだ。お前が犯した罪は、何度拷問されても、処刑されても償えるものではない。だが、お前を罪人として殺さなくては、お前の犠牲者たちが浮かばれない」

 答えは明らかにされた瞬間から、胸にすとんと落ちていった。

「一件でも、一人でも多く。洗いだせるだけお前の罪を洗いだそうとしていたから、こんなにも時間がかかってしまった。だが、それももう終わりだ。お前の罪の全貌が明らかになった以上、お前を養う必要はないからな」

 冷酷に片方の口元を吊り上げた青年は、持ち上げた男を硬い石製の床に叩き付けたが、本当はそれだけでは済まないだろう。ジリアンは堪えているのだ。この怪物を公の場で罰するために。怪物の贄とされた無辜の少女たちの遺族の苦痛を、少しでも和らげるために。

「お前がいつか言ったように、お前と僕は縁戚でもある。セレーヌ・ベルナリヨンを除けば、今生きている中で最も近しいお前の血縁者は僕や父上だろう」

 戯れに拾い上げた拳銃の引き金に指を滑らせた白銀の青年の横顔には、色濃い哀悼が影を落としている。

「だから僕は、お前の犠牲者の墓前に参ろうと思う。罪もないのに無残に殺されていった彼女たちは、お前からの言葉など何一つ望んでいないだろう。けれど、」

 銃口を白金の前髪がかかる額に押し当てる仕草は、いっそ優雅ですらあった。

「お前が身勝手な欲望を満足させるためだけに弄んだ娘たちに、少しでも詫びるつもりがあるのなら、代わりに伝えてやろう。お前が彼女たちと同じ所に逝けるはずはないからな」

 もしもルベリクが、ほんの僅かでも己が手を掛けた少女たちへの謝意を示したら。ジリアンは、ルベリクの死を追い詰められた末の自殺、もしくは銃撃戦の末の事故死として処理するつもりなのかもしれない。さすればルベリクは、公的にはおぞましい獣としてではなく、ただの王族として記録されるのだろう。

 これは数多の生命を蹂躙してきた男に与えられた、最後の贖罪の機会であり取引なのだ。暗黙の裡に示された意図は、セレーヌにだって理解できた。

「お前はあの妹を娶ったが、二回目の初夜の際はどうだった? あの娘はかつて私の目の前でそうしたように、進んでお前を咥えこんだのか?」

 しかしルベリクは、やはり一欠けらの悔恨も示しはしなかった。もしくは、それこそがこの怪物の計画なのかもしれない。ジリアンをわざと激高させて自分をこの場で殺させ、悲劇の王子として語られるに相応しい最期を遂げることが。

「――隊長!」

「おやめください! そんなゴミクズに惑わされちゃ駄目です!」

 憲兵たちは慌てふためき、どうにかジリアンを思いとどまらせようとしたが、滑らかに滑る指は止められなかった。

 ルベリクの中身は紛れもない獣であるが、その肉体はれっきとした人間の形をしている。だから、その死を目の当たりにするのは決して気分がよいものではない。

 少女は反射的に目蓋を降ろしてしまったが、心臓が三十回脈打っても、血臭は漂わなかった。恐る恐る目を開けば、怪物の頭は弾け飛びも、赤い水を噴き上げもしていない。

「弾切れ、か。……そうだな。ここで僕がこいつを殺しても、それは僕の私怨を晴らしただけで、こいつの罪を裁いたことにはならない」

 もはや用を成さない武器は、叩き壊さんばかりの勢いで床に放り投げられる。

「……お前の悪運はもうとっくに尽きていたということだ、ルベリク」

 最後に痛切な囁きを絞り出すと、青年は復讐者から憲兵たちの頼れる長へと戻った。

 騒動を聞きつけ集まって来た黒い面紗に包まれた顔には、セレーヌが知っているものも知らないものも、様々に混ざっている。ただ皆一様に蒼ざめていて、イディーズの惨殺体を目撃するなりその場に倒れ伏した者もいた。けれども、ジリアンが部下たちに介抱を指示していたから、大丈夫だろう。

「あー、どいたどいた!」

「こら! 邪魔すっと牢にぶち込むからな!」

 野次馬たちを片手であしらう憲兵たちに囲まれた男の背は徐々に小さくなる。そしてルベリクの影が彼方に消え去るやいなや、ジリアンはその整った面をセレーヌたちに向けた。

「本当に家まで送らなくていいのか?」

「お前たちはこれから忙しくなるだろ? はっきり言って、わたしたちのことを気にしてる余裕なんてないんじゃないか?」

「……そうだな。君の言う通りだ」

 ジリアンは帰路の安全のために部下を付けてやろうかと申し出てくれたが、もう危険は去ったのだから、気持ちだけをありがたく受け取っておく。

「じゃ、じゃあ、な」

 命の恩人にするにはぎこちない挨拶は、それでも青年の気分を害さなかったらしい。

「ああ、セレーヌ。そしてフィネ」

 ジリアンは、ふと思いついたと言わんばかりに紅い唇を開いた。

「僕たちはあいつがこの修道院に辿りつくまでの経路や関係者を割り出し、騒動が治まるまではルトにいる。その、最後の日には――」

「必ずご挨拶に伺いますよ。ぜひ、そうさせてください」

 フィネは彼にしては珍しく柔らかに目尻を緩め、ジリアンにしばしの別れの挨拶を告げた。釣られて頬を持ち上げた青年の笑みは、薄暗い聖堂で眺めたものよりも美しかった。

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