真実の断絶と終焉へ Ⅱ
どんなに認めがたくとも、セレーヌの血の半分は、自分に覆いかぶさっている男から受け継がれている。
ルベリクはなおもセレーヌを陵辱した上で絞殺するか、殺してから弄ぶか考えあぐねているらしい。先ほどから、男にしては繊細な指先は、項と胸元をなぞるように行き来していた。そのおぞましい感覚は、絶望の海に沈んだ少女に諦観を抱かせるには充分だった。
このままでは、セレーヌはどうせ生きていても死んでも、この男の玩具にされる。だったらもう、さっさと舌を噛みきって自死した方がいいのかもしれない。
フィネは以前、舌を噛んで死に至るのは難しいと言っていた。けれど、この屈辱と嫌悪感には、これ以上耐えられない。たとえ泣き喚きながらのたうち回るはめになったとしても、そちらの方がまだ幾分かましだ。
さよなら、フィネ。
少女は覚悟を決めて、鋭い歯列の間に桃色の舌を挟んだ。
両の顎に思いっきり力を込めさえすれば、セレーヌは苦痛と背筋が凍るおぞましさから解き放たれる。なのにどうして、この臆病な舌は引っ込んでしまうのだろう。何故セレーヌの身体の一部であるはずの顎は、セレーヌの自由にならないのだろう。
顎どころか全身がかたかたと震えているのは、生への執着心のゆえなのだろうか。――きっとそうだろう。
セレーヌは生きていたいのだ。これからも、やっと見つけた愛し愛する人たちの側で、穏やかに暮らしていきたい。
ミリーと家事をこなしながら、フィネの帰りを待ち、三人で共に温かな夕食を囲む。そんな些細だが、かけがえのない幸福さえあればいい。
セレーヌが玄関に立って出迎えると、フィネのやや鋭い目元は僅かに細められる。セレーヌは、その様をひっそりと眺めることが好きだった。
今日はまだ、フィネと挨拶程度しか喋っていなかった。家には、セレーヌが片付けるべき洗濯物が残っている。明日は洗い物もしなければならない。何より、まだあの襯衣を完成させていない。
自分にはまだやるべきことが沢山ある。なのに、何故この怪物の身勝手な欲望のために、それらを諦めなければならないのだろう。セレーヌに血以外の物は何一つくれなかった、父と呼ぶことすら厭わしい男の言いなりになど、これ以上なってやるものか。
ひび割れ、今にも粉々に砕け散らんとしていた胸の奥底から湧き出る憤怒と激情は、少女の瞳に生来の光を取り戻させた。爛々と輝く緑の目は、忙しなく周囲を伺う。
微かな希望の萌しを最初に少女に伝えたのは、巻貝の耳に転がり込んだ靴音だった。
セレーヌとフィネの結婚生活の長さは、十四年の月日に比べれば、取るに足りないものかもしれない。しかも、互いの打算から始まった夫婦関係であった。けれどもこの足音は、記憶から消し去ろうとしても、消し去れないほどに耳に馴染んでいた。
彼が帰宅する頃合いになると意識せずとも拾ってしまう、大好きなこの響きは、紛れもないフィネの足音。普段よりかなり忙しない足の運びをしているようだが、すぐに分かる。しかも、真っ直ぐにこの礼拝堂に接近してきている。
喜びのあまり、一瞬拾い上げた希望の音色は幻聴ではないか、と疑ってしまった。だが程なく鼓膜を揺るがした、重い扉を蹴飛ばして現れたのは、
「……フィネ!」
最期に一目だけ会いたいと渇望した夫に他ならなくて。しかしフィネは、セレーヌが知るどんな彼よりも、険しい顔をしていた。彼の衣服や剣には、今しがた流されたと思しき鮮血が付着している。何よりフィネは、全身から殺意を迸らせていた。
フィネには、死刑執行人とはかくあれかし、と彼の
刀身に刻まれた碑銘は紅蓮に濡れているが、天井からの仄かな陽光を反射して輝く。血塗れの剣を構えた青年は、一瞬の躊躇いも見せずに、男の首筋目がけて振り下ろした。
研ぎ澄まされた殺意は本物で、狙いも一寸の狂いもなく正確だった。だから、断罪の刃はそのままであれば間違いなく白い項にのめり込んでいただろう。しかし男は、組み敷いていた娘を肉の盾とし、己に向けられた刃の勢いを止めた。
「初めて顔を合わせる義父に、挨拶もせずに刃を向けるとは。お前たちは本当に似合いの夫婦だな」
「お褒めに預かり光栄です」
初めて言葉を交わす義理の父と息子は、表面上は穏やかに口先を繕いあっている。けれども濃紺の双眸は、飢えた狼すら蒼ざめる殺意を宿していた。
「しかしそなた、良くここが分かったな」
「裏門から侵入した際見かけた足跡を辿っただけですよ」
一般的な剣の切先とは異なり、死刑執行人の剣の先が円みを帯びているのは、この剣が戦闘には用いられない。言い換えれば、突く機能を必要とされないためである。
「この国の法律では、誰かの妻である女性と彼女の意思に反して性行為に及んだと判明すれば、例えそれが未遂であっても死刑に処される。そのことは貴方だってご存じでしょう? だから、さっさと首を出して頂きたいのですが」
その、戦闘に用いるにはいささか不利な剣で、フィネはなおもルベリクを狙っていた。少しでも隙を見つければ、ルベリクを肉塊に変えるために。セレーヌを守るために。
「今初めて気づいたのですが、俺は結構嫉妬深い性質のようでして。――セレーヌは俺の妻だ。俺以外の男には、指一本だって触れられたくない」
ですからその汚い手、胴体に繋がったまま挽かれたくないのなら、俺の妻から外していただけませんか。
獰猛に微笑んだ青年は、空いた左手で衣服の隠しを弄る。
「……生憎私は、我が首惜しさに離宮から抜け出した身なのでな。お前の望みには応じられぬなあ」
そうして取り出した
「かような卑劣な手段を用いるなど。そなたは剣を振るう者としての誇りを持たぬのか?」
わざとらしくフィネの攻撃手段を非難しているルベリクだが、セレーヌには分かった。その揶揄うような口ぶりが、先ほどと比較すれば僅かに余裕をなくしていることを。きっと、フィネが放った刀が命中したのだ。
「生憎、俺は死刑執行人ですので、人殺しの剣に誇りなど抱いたことは一度もありませんが――」
青年は今度は剣でもって立ちはだかる怪物の左足を狙う。
「俺はセレーヌのためならば、世界中の人間だって殺せますよ」
既に血を啜った剣は、動きが遅れた脹脛に食い込み、決して浅くはない傷を負わせた。
「偶然出くわした、貴方の協力者らしき男は既に斬り殺しました。貴方の味方はもはやこの世に一人もいません。ですから、いい加減に地獄に堕ちる覚悟を決めていただいてもよろしいでしょうか?」
我が身の不利を悟った男は、華奢な首を戒め仄紅い痕を刻んでいた襟首から指を離す。
硬い床に叩き付けられた少女は二度、三度、鞠のごとく転がったが無事に青年の元に辿りついた。この瞬間をどれ程待ち望んでいたか、またもう一度フィネに会えてどんなに嬉しいかは、神でも言葉にできないだろう。
「平気か!?」
「あ、ああ。何とか」
硝子でできた花のごとく細い肢体を抱え上げる腕の中は温かく、涙が出るほど安心できた。
「しっかり掴まっていてくれ」
青年は少女を固く抱きしめると、怪物に背を向けて礼拝堂の扉を目指した。
敵に背を向けるのは危険極まりない。だから、一刻も早くこの場から脱出しなければ。
いつにない大股で駆ける彼の鼓動は、決意は、密着した肌を通ってセレーヌにも伝わってきた。彼に抱えられていた時間は決して長くはないのに、二つの心臓が一つになってしまったような錯覚すら覚えるほどに。
大昔の、名も知らぬ聖ファラヴィア女子修道院の修道女たちが。母マリエットが。そしてセレーヌが幾度となく触れた取っ手。触れれば赤錆の粉が指先に付きそうな金属に、血塗れの指先が掠った瞬間。
「――っ! フィネ、後ろを見ろ!」
恐るべき速度で宙を飛ぶ、鉛色の弾が薄い頬の一筋の傷を描いたために、青年は幽かな光に背を向けざるを得なくなった。
「
放った弾丸よりもなお暗い、鈍色の銃を構えて化物は笑う。いざという場合のために用意しておいた物だが、こうなってしまっては仕方がない、と。
「絶対に、嫌です。――死んでも離すものか」
青年は額に銃口を向けられてもなお、片手でひしとセレーヌを抱きしめていた。もう一方の手は、鞘に納められた剣の柄を握っている。
セレーヌを守りながら、銃を相手に戦うのは、さしもの彼とて骨が折れるだろう。第一、フィネが教えられた剣は、従順に頭を垂れる死刑囚を相手にする場合に、その効果を発揮する類のもの。つまり実際のフィネは、剣の扱いに慣れてはいるが、ごく普通の青年でしかないのだ。
その彼がセレーヌという重荷を抱えて銃を向ける男と対決などしたら、どのような結果を迎えるかは、火を見るよりも明らかである。幾ばくかの後、自らが流した血の海に倒れ伏すのはフィネの方だろう。
このままでは、自分のせいでフィネが殺されてしまう。
「なあ、フィネ」
そう悟った少女の胸中に湧き起こったのは、決意だった。自分のせいでフィネが死ぬ。それだけは、なんとしても阻止しなければならない。
「お前、わたしをここに置いて、どうにかして逃げろ」
避けそこなった弾に裂かれた青年の腕から零れ落ちる温かさは、少女の衣服に染み入り肌をも濡らした。運悪く自分というお荷物を拾ったせいで、誰よりも大切な彼は、こんな傷を負ってしまったのだ。
本来は無関係な人間であるフィネだけは自分がどんな目に遭っても、死ぬより辛い想いを味わうはめになっていいから、助けたい。
「こんな時に馬鹿なことを言うな。だいたい、」
決死の覚悟で、今生の別れのつもりで細い喉から絞り出した文句は、呆気なく切り捨てられた。
「こんな風になって、どうやって逃げろと言うんだ? 俺はあの男に命乞いをするのだけはごめんだぞ。俺にだって誇りってものがあるからな」
弾丸を避けるうちに出入り口付近から追い払われてしまったから、もはやセレーヌとフィネは袋の鼠同然。いつ心臓を鉛玉で貫かれてもおかしくはない。
「弾が惜しい。いい加減に茶番は終わりにさせてもらうぞ」
だが少女は果敢にも、青年の左胸目がけて銃を構える男を睨みつけた。さすればセレーヌもフィネの胸を貫いた銃弾によって重傷を負う。もしくは死亡してしまうのは確実だから、ルベリクはセレーヌとフィネを同時に始末するつもりなのだ。
――神さま。
迫りくる死を悟った少女は、固く目蓋を閉ざし、祈った。自分たちに残された最後の希望に。汗で濡れた背で感じる祭壇の上の預言者と、天上で卑小なる人間たちを見守っていると教えられた神に。神はなぜ、こんなにも苦しんでいる自分を救ってくれないのかと憤ったことを詫びながら。
セレーヌは今まで散々、神を憎み恨み罵ってきた。なのに今さら、都合がいい時だけ神に縋ろうだなんて、都合が良すぎるとは分かっている。けれど。
――わたしはどうなってもいいから、どうか。
己の命に代えても守りたい者のために、かつて母の愛を求めて捧げた祈りよりも真摯に、少女は願った。
セレーヌは十四年の人生のほとんどを、神を罵って過ごしてきた。そんな自分が今更頭を垂れても、唯一神は気分を害するだけかもしれない。だけど罪はわたしだけにあるのだから、咎なきフィネだけは助けてくれと。
しかし恐るべき武器を構えた怪物は、血を吐かんばかりの懇願を妨げる。
「さらばだ、我が娘とその夫よ」
――ああ。あなたはどうしてもわたしを赦してくれないんですね。
少女の精神は再び暗黒に蝕まれ、淡く開いた目蓋は再び恐怖によって閉ざされる。
だが、せめてと思って、広い背に回した腕に力を込めた、まさにその瞬間。硬い踵が石製の床を踏みしめる音に続き、何かと何かがぶつかり合って弾け飛んだ衝撃音と、
「お前は相変わらずだな、ルベリク」
凛としていて涼やかな青年の声が、溜りに溜った血と硝煙の臭いを吹き飛ばした。
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