真実の断絶と終焉へ Ⅰ

 遠くから、悲鳴が聞こえた。鼓膜の奥まで刻み込まれた、決して好意を抱けない響きが。

 騒音は少女を覆う霧を追い払い、薄い目蓋をぴくりと揺らした。彼女が自分の意志に反して、しばしの眠りを貪らなければならなかった理由が刻まれた記憶をも。

 ――あの女、次に見つけたらただじゃおかない。

 覚醒した緑の瞳に映ったのは、懐かしくも厭わしい旧礼拝堂の、陰鬱な天井。遠い昔ならいざ知らず、どうして今、セレーヌはここにいるのだろう。

 嫌悪する女への鬱憤を晴らすためにも、少女はきょろきょろと周囲を窺う。もしもイディーズを発見したら、まずは鳩尾に拳をめり込ませてやろう。

 ひしと拳を握りしめた少女であるが、しばしの後、その手はだらりと垂れ下がった。

「え、」

 セレーヌに背を向ける形で蹲る男の背に隠れてよく見えないが、赤い海の中に倒れ伏しているのは間違いなく……。

「イディーズ?」

 あの締まりのない足や、質は良い革靴は、間違いなくあの女だ。先ほど、イディーズに突き飛ばされ倒れた際に、この目で直に確認したのだから間違いない。間違いはないのだが、男が手を動かすたびに、吐き気を催させる不快な音がぐちゃぐちゃと木霊しているのに、イディーズがぴくりとも動かないのはなぜなのだろう。

 嫌悪どころか憎悪してさえいる女が、具体的に何をされているかは分からないが、こっぴどく痛めつけられている。その状況にざまあみろだとか、いい気味だとか、仄暗い勝利感を少しも覚えないはずがなかった。

 一度どころか、数え切れないぐらい殺意を抱き、絞殺さえ試みた女だ。彼女を助けようとは微塵も思わない。これがフィネ、もしくは義母ミリーだったら、命を賭しても助けようとしたのだが。

 イディーズなどのために命を捨てるほど、セレーヌは愚かでも、善人でもない。だいたい、あれだけの血を流して無事でいられるはずがない。

 こう言ってしまったら多少は申し訳なく思うが、イディーズはもう助からない。だから、見捨ててしまっても構わないだろう。けれどもイディーズを殺害したらしき男を野放しにしては、周辺の住民に危害が及びかねない。なので憲兵を呼ばなくては。そして殺人犯を捕らえるついでに、イディーズの死体を回収して埋葬すればいいだろう。亡骸を放っておくのは、流石に良心が咎めるから。

 人間、あまりの衝撃に見舞われたら、却って冷静に振る舞えるものなのかもしれない。少女は足音を殺して殺人犯との距離を取ろうとしたが、ふと振り返った折に衝撃的な光景を目の当たりにしてしまったから、冷静を保ってなどいられなかった。

 眼裏に焼き付いた残虐は、細い喉を締め付ける。擦れ、意味を成さない喘ぎを漏らしながら少女がその場に崩れ落ちたのは、華奢な脚から一切の力が抜けてしまったためだけではなかった。

 震える唇に手を当て屈みこむと、指の間にぬるりとした何かが滴って来た。恐怖に縮こまった胃は、連れ去られる前に賞味した菓子どころか、昼食までをも逆流させたのだ。酸に食道を焼かれたためだけでない涙でぼやけた目は、それでも少女に危険を知らせてきた。イディーズを殺した男が、こちらの存在に気づいたのだ。

「目を覚ましたのか」

 石、もしくは鉛と化した脚は、懸命に叱咤してもぴくりとも動かない。ならばと這いつくばって、この場を離れんとする少女を嘲笑うかのように、男はゆっくりと振り返った。

 少しずつ眼前に晒される顔や胸どころか、セレーヌと同じ白金の毛先におびただしい紅い飛沫が飛び散っているのは、驚くに値しない。濃厚な血臭の源らしき液体に塗れている衣服は、元は清潔な白色だったのだろう。だが今は、かつての面影など察することすらできぬほどに、紅を啜っていた。

 赤褐色に染まった布から突き出る、成人した男にしては華奢で繊細な手は、生々しい物体を握っていた。顔や衣服などよりも多くの血を啜った短剣と、管のような物が付いた鶏の卵ほどの大きさの得体の知れない肉を。

 視界に入った、下腹部を無残にも切り裂かれた遺体から、それの正体を悟った少女は、饐えた胃液を吐き出さずにはいられなかった。

「あ、あ、」

 乾いた悲鳴は喉にへばりつき、呼吸を妨げる。どこにも傷を負ってはいないはずなのに、干上がった口内は血の味でざらついた。呼吸すらままならない身では、迫りくる男に立ち向かうどころか、逃げることすらできない。

 男が蒼ざめた少女の顔を覗き込む。すると、からん、と刃が床に転がる硬質な音色に紛れて、肉が潰れる音が聞こえた。二目と直視できないおぞましい肉が足元に放られても、蹴り飛ばすための力など残っていない。

 靴越しに伝わる生々しさに、もう何度目になるかも分からぬ嘔吐感を催した少女の頬に、血塗れの指が添えられた。

「顔を合わせるのは初めてだな」

 そうして否応なく視界に入ってきた顔には、ありすぎるぐらいに見覚えがあった。

 ふわりとした白金色の髪。目尻が垂れ下がった明るい緑の目。鼻の形、口元。その全てに馴染みがある。彼の造作が、毎朝鏡で確かめる自分自身のそれだと思い至った瞬間、少女の背に戦慄が奔った。

『やめて。やめてやめてやめて。来ないで!』

『あの人はあなたが成長するごとに、これが昔々ご自分が犯した罪の償いであることも都合よく忘れて、暇さえあれば唯一神の慈悲に縋るようになったわ』

 もう二度と聞けぬ愛しい女の悲鳴が、一度はその衝撃に心がばらばらに砕け散った文句が、脳裏に甦る。

「我が娘よ」

 ああ、これは。こいつは、間違いなく、セレーヌの父親だ。こうして顔を合わせて言葉を交える日などくるまいと信じていた、その通りになることを願っていた男。マリエットを暴行してセレーヌを産ませた、世界で最も憎悪し嫌悪する人間。

「や、やめろ」

 蒼白の頬に、血液がべっとりと付着する。その嫌悪感はたとえようがなく、目の前の男への激情は、戦慄く四肢になけなしの活力を蘇らせた。

「わたしに触るな!」

 少女は細い顎を捕らえる指を払いのけ、憤怒の炎が灯る瞳で男を睨む。血の繋がりはどうあれ、この男を父などと、死んでも呼びたくなかった。

「父に対する挨拶も満足にできぬのか? これは念入りな教育が必要だな」

 少女は敵意を露わに垂れ下がった緑の双眸をねめつける。けれども煩わしげに細い眉を顰める以外には、目の前の男の乳白色の面には、どんな感情も表れなかった。血を分けた娘に対する何らかの情どころか、一切の関心も。ただセレーヌとそっくり同じだけれども、不気味な翳りを宿した瞳で、勇ましく威嚇を続ける少女を見下し値踏みするだけで。

「だまれ! わたしは、お前のことを父親だなんて、認めたことは――」

 当初は舌のみで攻撃していたが、こみ上げる憤怒は、舌のみでは到底表しきれない。衝動と身体の芯から湧き出る熱が命じるまま、少女は小さな拳を振り上げ、赤褐色に変じつつある胸元に叩き付ける。だが彼女の全力を込めた打撃は、ふっくらとした頬に奔った熱には敵わなかった。

「ぎゃあぎゃあと小うるさい娘だな。やはりあれの教育が悪かったらしい」

 瞬く間に全身に広がった痛みは、かつてフィネに打擲ちょうちゃくされた際のものとは比べ物にならなかった。潤んだ大きな瞳からは、涙の珠さえ零れ落ちる。

 一般的な成人男性よりも背が高いフィネは、その分ルベリクよりも体格に恵まれてもいる。その彼にぶたれてもほとんど痛くなかったということは、フィネはきっと手加減してくれていたのだろう。

 こんな状況なのに、フィネのことを考えると、無性に彼に会いたくなってきた。生きてこの聖堂から出られるかも分からないのに。

 唇を噛みしめた少女は、濡れて煌めく目元を吊り上げる。フィネやミリーがいる我が家に帰り彼らの声を聴きたいのなら、どんな手段を使ってでも、この場から脱出しなければならない。ルベリクが投げ捨てた短刀を手中に収めれば、それも可能になるだろうか。

 幸いにも、目の前の男は自分をただの非力な少女だと見縊っている。隙をついて、セレーヌを壁際に追い詰める身体の隙間を潜り抜ければ、運命は開けるはずだ。

 覚悟を固めた少女は、愛おしむかのように薔薇色の唇を撫でていた指に噛みつく。

「……お前はほとほと手の掛かる娘だな」

 だが決死の行動は骨ばった指先に浅い傷を刻み、数滴の血を流させただけで終わった。どころか、却って自身を窮地に追い込む結果となってしまって。

 男は滴る雫もそのままに細い肩を掴み、娘の華奢な背を冷えた床に押し付ける。そして、遠い昔のマリエットがそうしたように小さな身体の上に馬乗りになると、触れれば折れんばかりのか細い首に、成人した男にしては細い手を回した。

 首を自分の物ではない体温に包まれた瞬間に芽生えた息苦しさには、覚えがあった。かつてのセレーヌが幾度となく舐めさせられた苦痛と、全く同じだったから。

 わたしは殺されるんだ。こんなところで、こんなやつに。とうとうフィネにも会えないまま。

 絶望はひたひたと少女に忍び寄る。無理矢理に命を断たれる口惜しさは言葉にできないが、生ぬるく透明な液体となって迸る。

 赤褐色の涙で汚れた頬が、一筋の涙に清められた時。肌理細やかな肌に触れたのは硬い指先ではなく、もっと柔らかく湿った肉だった。

「――え? お、おまえ、なにを……」

 滑った感触のおぞましさは、少女の全身の産毛を逆立てさせた。反射的な嫌悪感にかっと開いた双眸が捉えたのは、引きちぎられた臓物などよりももっとおぞましい――

 頼りない鎖骨と、平板な胸部の上を這い回っているのは、間違いなかった。

「何を、だと? 父ではないと言ったのはお前だろうに」

 心情的にはともかく、肉体的には確かに父親であるはずの男の一部。

 父と呼んだことなど一度もないし、呼ぶつもりもない。だが血の繋がりを否定したくとも否定できぬほど似通った容貌を備えた、男の舌と手であった。

「私の世継ぎを儲けるための道具としてなら、お前を生かしてやっても良いだろうと考えていたのだが、気が変わった。お前のような娘を一から教育し直すよりは、他に子を産ませた方が余程容易い」

 男は震える娘の脚の間に己が身を割り込ませ、か細い四肢の動きを封じる。そうして裾が乱れた衣服をたくし上げると、露わになった薄紅色の頂を食み、吸い付いた。

 セレーヌがあまりの出来事に呆然としていると、ルベリクは古びた血が混じった唾液で濡れて光る芽の片方を大きな掌全体で覆った。そして、乱れた裾の隙間から手を差し入れ、細い腿の滑らかさを愉しむと、下着の上から慄く蕾を撫でる。

 これは、禁忌だ。神に認められていない、禁じられた……。

 おぞましい罪を本能的に察した少女は、気が狂ったとしか思えない行為に勤しむ男の耳元で絶叫する。

「おまえ、おまえは、わたしの……!」

 しかし自分に覆いかぶさっている男は、そも人間の理性や心を備えていない獣であったのだと、痛感するに終わった。

「……妙だと考えたことはないか、娘よ」

「……」

「首都の大聖堂で犯したお前の母親がお前を孕んだと聞かされた時、私はお前を母体ごと始末してしまっても良かった。だがそうしなかったのは何故だか教えてやろう。お前がこの世に生まれてきた理由を」

 柔らかな突起を捻り上げられながら聴かされた、もう一つの出生の真実は、耳を防ぎたくなるものだった。

「お前をこれ・・に使うためだ。実の娘を抱く機会など、滅多に得られるものではないからなあ」

 ふざけるなと叫びたい。腹立たしい言葉をぺらぺらと捲し立てる口に拳を突っ込んで、歯を全て折ってしまいたいのに、もう指一本動かせない。

 セレーヌが母の愛を得られずに葛藤してきた全ての原因は、この男の醜悪な欲望に帰せられる。その上、自分が生まれたのは、この獣の暇潰し用の玩具にされるためだったなんて――こんな状況でなければ、腹を抱えて笑っていたかもしれない。

 鋭い歯列で挟まれ、爪先を押し当てられた蕾に滲むのは、誰から迸った飛沫なのだろう。心臓にぽっかりと開いた虚無から滲むセレーヌの血か。はたまた、残忍なる責苦の果てに絶命させられただろう、イディーズのものか。

「お前の母親は見目良い娘だったから、私はあの女に似た娘が欲しかった。だが、お前も悪くはない。私に似たのだから当然ではあるが愛らしい顔をしているし、何より余分な脂肪を蓄えていないのは好ましい」   

 唾棄すべき欲望を吐露した男は、今までの底冷えするそれとは全く趣を異にする、甘やかな笑顔を零す。

「お前の首を絞め殺すのと、お前の初花を散らすのは、どちらが先が良いだろうか。希望があれば考慮してやらなくもないぞ。お前は私のただ独りの娘だからな」

 死んだお前は、生きたお前よりも従順で愛らしいだろうから、やはり首絞めが先が良いだろうか。

 耳元で囁かれた言葉の真の意味を理解するのは、脳が拒絶した。だが、この男がこれまでにもこんな凶行を繰り返していたのだとしたら……。

「そして私がお前の亡骸に飽いたら、あれと同様に子宮を抉って豚にでもくれてやる。悪くはない最期だろう?」

 こいつはやっぱり化物だ。

 理解の範疇を超えた怪物に相対する恐怖と嫌悪感が、熱病に罹患したかのごとくと震える肉体から、一切の熱を奪う。

 絶望に浸り、嘔吐感を抑えながら横たわる少女の脳裏に過ったのは、懐かしい母の姿だった。

 マリエットもたった一人で、どんなに泣き叫んでも誰にも助けてもらえないまま、この男の餌食になったのだ。怖かっただろう。辛かっただろう。苦しかっただろう。そしてセレーヌは、哀れな少女の絶望を糧として生まれてきた。

 セレーヌは、母の想像を絶する苦しみの元に産まれてきた。だからマリエットが自分を愛してくれなかったのは、やはり仕方がないことだったのかもしれない。身の毛がよだつ愛撫が再開された際、扁平な胸の奥から湧いて出たのは、静かな諦観だった。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る