終わりの始まり Ⅳ

 高みから射す一筋の光が、二つの白い顔を照らす。半ば朽ち果てつつある信徒席に横たわる少女と、彼女を見下す男の顔は酷似していた。一目で確かな血の繋がりを感じさせるほどに。

 比べてみれば、女であるセレーヌの方が頬や唇の薔薇色が濃い気もする。だが、目元や鼻筋といった、顔の造りそのものは瓜二つだった。陽の光に融け込みそうな、白金の髪の癖までも。

「まこと愛らしい姫君ですね」

「ああ、そうだな」

 感嘆の溜息をつく配下とは、ルベリクは対照的だった。セレーヌの父親である彼は、市場に出荷する家畜の肉付きを品定めするような手つきで、娘の頬を撫でるだけ。冷え冷えとした翠の双眸や声色からは、親愛の情など一切感じられなかった。

 そもそも、この男に肉親や親としての何がしかなど、端から存在しているはずがない。父親と娘の感動の対面を実現させるべく骨を折ったイディーズへの感謝など、やはり期待するだけ無駄だったのだろうか。

 修道院長は、隠しもせずに大きく息を吐く。ルベリクがどれ程無礼な男かは、十分すぎるほどに弁えている。しかし労いの言葉一つかけられぬという粗雑な扱いに、不満を覚えないはずはなかった。彼らが命拾いできたのは、ひとえにイディーズのおかげなのだから。

「ええと、貴方達、」

 健やかな寝息を立てる少女を囲んで見下ろしていた男達は、イディーズが声を荒げるとようやくこちらを振り返った。

「これから東に向かうのよね?」

「はい。夏ならばあの湿地帯も幾分かは通りやすくなりますし、東方の国主は亡命者に寛大だとも耳にしましたから」

「ああ、そうなのね」

 実のところ、世を忍ぶ身であるルベリク達に実体を伴う感謝の証など、あまり期待していなかった。

 それでも、何がしかの謝礼の文句を欲するのが人情ではあるし、礼儀でもある。だからせめて、彼が政権を取り戻した後はこの修道院を、イディーズが在籍するに相応しい壮麗かつ壮大な――首都の大聖堂にも劣らぬ規模に立て直すとか。そうでなくとも謝礼金は弾むとか、そういった約束をイディーズは欲しかったのだ。

 しかしそんな・・・話題を修道女たる自分が口に出せるはずもない。だから彼には察してほしかったのに、ささやかな希望は見事に裏切られてしまった。ルベリクが獣並みなのは、心だけではなく頭の方も、ということなのだろうか。

「では、旅の安全をお祈りするわ」

 ルベリクの方は手の施しようがないとはいえ、彼の配下も、かつては都の教会の司祭という輝かしい地位に就いていたらしいが、今ではすっかり堕落してしまっている。かつての位も、きっと当時蔓延はこびっていた官職売買同様、金銭か血縁をちらつかせて不当に掌中に納めたに違いなかった。

 表向きは唯一神に恭順しながら、裏では神の尊い名を穢す不届き者たちがいるから、イディーズのような真の信仰者が不遇を強いられる。この男達は所詮、大恩あるイディーズに暴言を吐き、あまつさえ暴行を加えたセレーヌと同じ類いの人間なのだ。

「貴方達の頭上に、永久に神の栄光が降り注ぎますよう、」

 修道院長は、自身は修道院長の座に相応しいと確信している笑顔を作る。しかし線がぼやけた唇の端に張り付けた威厳は、思いがけない邪魔が入ったために、呆気なく剥がれ落ちた。

「まあ、待て。そなたに今一つ用があるのだ」

 どうやら、人間の皮を被った悪魔の中にも、最低限の良心は備わっていたらしい。ルベリクが退出を促すと、彼の配下は一切の表情を消して主の指示に従った。控えめな足音が完全に聞こえなくなると、常に仄暗い礼拝堂は、さらに暗くなってしまった。

「そ、それで私にどんな用があるの?」

 そこはかとない不安に駆られ振り返ると、良くできた人形の顔は思いがけず間近に迫っていた。形良い薔薇色の唇から漏れた吐息が、たるんだ頬を撫でるほど近くに。

 ――神に貞潔を捧げた私に対して、邪な真似をしようだなんて思わないことね。

 イディーズの心身から発せられる清らかな気に惑わされるのは、致し方のないことだろう。とはいえ、神の花嫁に対する無礼は看過してはならない。

 欲望を叱責すべく眺めた面は、イディーズが知るどんな感情も乗せてはいなかった。感謝も、尊敬も。あるいは称賛も。自分に向けられるべき一切が見出せない代わりに、イディーズを妬み、類まれな資質を頑なに認めぬ不信心者たちにぶつけられてきた、蔑みや嫌悪の念も存在しない。

「あの、何も話すべきことがないようなら、私は忙しいので失礼、」

 少女の安らかな寝息だけが木霊する室内に蔓延する空気は、黴臭く淀んでいる。しかさは、この場から一刻も早く立ち去りたいと願ってしまったのは、背筋を駆けのぼる冷気。言い換えれば最悪の予感に急かされたため。 

 しかしくるりと踵を返した瞬間。柔らかな肩に固いものが置かれたのだから、戦慄する女は、足を止めざるを得なくなった。繊細で優美だが男でしか有り得ぬ力を備えた手は、紛れもなくルベリクのもので。

「待て。そなたにも休息が――神を忘れうつつを見つめる時が必要だぞ」

「なっ、何を……」

 優美であり繊細な唇の端を吊り上げた男は、震える女の肢体を乱雑に押し倒す。

「そなたには世話になったゆえ、特別な褒美をやろうと思ってな。ありがたく受け取れ」

 べたついた頬から深い皺が刻まれた首を撫でる男は微笑んでいるのに、彼の瞳は氷よりも凍てついていた。

「あ、あなた、何を。私に、こんなことしていいと、」

 イディーズの拙い抵抗も虚しく、おぞましい手は二つの乳房のあわいに伸びる。胸の上の男の手は、いつしか破れんばかりに脈打つ生命の源たる臓器の真上に置かれていた。

 やはりこの男は、この清い身体を狙っていたのか。

 頑なに守り続けた貞操を強引に散らされる恐怖は、未知の痛みへの恐怖にも勝った。このままでは、イディーズは神の園に逝けなくなってしまう。

「や、やめて! 神聖な修道院内で、神の花嫁を穢すなんて、」

 なけなしの気力を振り絞り、喉も裂けよとばかりに悲鳴を振り絞っても、埃臭い闇は声どころかイディーズの存在そのものすら呑みこむ。

「誰か、助けて! お願い!」

 滴らんばかりに噴出す汗の珠は、加齢の痕が刻まれた背をしとどに濡らす。

 院長たるイディーズの危機であるというのに、どんなに声を荒げてもこの場に駆け付けない配下の修道女には、腸が煮えくりかえった。愚鈍極まりない修道女たちだけでなく、この場にいるただ独りの部外者たるセレーヌにも。

 いくら強い薬を嗅がせたとはいえ、セレーヌはどうして目を覚まさないのだろう。いや、彼女はもうすでに目覚めているが、危機に瀕しているイディーズの様子を愉しむべく、寝たふりを続けているのだ。

 死刑執行人などに純潔を奪われた少女にとっては、この世に降臨した天の使いたるイディーズの身に降りかかった苦難は、この上ない愉悦なのだろう。だが、大いなる唯一神は穢れた性根を見逃しはしないはずだ。

 唯一神は今に雷を落として、セレーヌや愚かな修道女たちを罰してくれる。けれども、もしも神の怒りが降り注ぐ前に、イディーズの純潔が奪われてしまったら。――天上の預言者以外の男に身を許した己にも、雷霆は降り注ぐだろう。もはやこの気まぐれな男の御機嫌取りに励む以外に、我が身に及ぶ危険を回避する方法は残されていないのだ。

「ねえ、お願い! どんなことでもするから、」

 窮地に追い込まれた女は、自身の上に跨り、整った造作を歪める男に哀訴する。もしも両の手が自由になっていたら、神と預言者に対するがごとく、指を組んでいただろう。

「だから、どうか犯さないで!」

 しかし彼女の祈りは獣には届かず、冷酷にして残忍なる嘲笑に蹴散らされて終わった。

 全ての希望が潰えたと悟った女は、諦観して目蓋を下ろす。

 これから我が身は想像もできない汚辱を強いられる。だが、おぞましい物体を目の当たりにして、魂までをも穢したくはなかった。

 さあ、この身体を穢したければ好きなだけ穢せばいい。だけど、私の魂までも穢させはしない。覚悟を決め、心中でただ神を呼び続けていた女だが、

「そなたもしや、本気で私がそなたを犯すとでも思っていたのか? ――これは傑作だな」

 肉が裂かれる厭な音と激痛は、女から神を忘れさせた。あまりの激痛と違和感に目を開いたイディーズの視界に飛び込んできたのは、おぞましい肉塊ではなく、胸に刺さった銀色の短剣。

 栓の役割を果たしていた剣が躊躇いもなく引き抜かれると、ぱっくりと開いた亀裂からは生温かな血が噴き出し、男の口元を、嘲笑をこの上なく残忍に、鮮やかに彩った

「生憎私は、見目良い娘以外にはそそられぬのでな。そなたは以前より、私がそなたを襲わぬかと気を揉んでいたが、それは無用な心配だったのだぞ」

 男ははむせ返る鉄錆の臭気など意に介さず、紅く染まった刃物を弄ぶ。二度、三度と、稚い子供が虫の脚を千切って遊ぶかのように。赤い洞に再び刃を埋め、引き裂かれた肉を抉る。刀身が半ば埋もれるまで突きさされた剣をぐるりと回されても、悲鳴を上げることすらできなかった。ただ、ぐちゃぐちゃと肉がこそげる音がひたすらにおぞましくて。

「然程に男を欲していたのなら、豚にでも相手にしてもらえ、イディーズ。そなたは豚に似ているから、余分な手足を切断し衣服を剥いで家畜小屋に放り込めば、雄豚どもも喜んで群がっただろう」

 あまりの激痛に悲鳴すら上げられず、荒い息を吐く女とは対照的に、彼女を苛める男は平静そのもの。

「もっとも、こうなってしまっては、そなたの願いも叶わぬだろうが」

 淡々と齎される責苦は、しかしイディーズに喜びをもたらす。

 ルベリクの目的は、この身を穢すことではなかった。さすればきっと、イディーズは楽園に昇天できるだろう。天上の唯一神や天使たちはきっと、残酷な殉教を遂げたイディーズを労わり、歓迎してくれるはずだ。このしばしの苦難を甘受しさえすれば、天上での輝かしい生活が待っている。

 おびただしい命の雫を失った四肢は痙攣し、視界は狭まる。己の死期を悟った女は、顔から胸までを紅い飛沫で汚した男を仰いだ。血塗れの唇は、なおも怖気を震わせる微笑みを湛えている。

「そうだ、イディーズ。そなたの最後の望みを叶えてやろう。そなたには世話になったのだから、借りは返さねばな」

 血飛沫さえなければ天使と紛う表情を浮かべた男は、だらりと垂れ下がった二本の脚の間の、秘められた神聖な箇所に指を這わせる。

 聖俗に関わりなく一切の男の目に触れてはならなかった器官が、裾をたくし上げ露にされる。それは誰にも知られずに朽ち果てるはずの花だったのだが、ルベリクならば。屍を陵辱するという吐き気を催す趣味を持つ彼ならば、やりかねない。

 今際の際に己を死に追いやった男の嗜癖を思い出した女は、全身の産毛を逆立てさせる。しかし彼女の中に侵入したのは、温かな男の肉ではなく、冷ややかな短剣であった。

 肉片と脂肪がこびり付いた鋼は、性交の際の抽送じみた動きを繰り返す。鋭利な切先で中を抉られるたびに、既に尽きたと思っていた鮮血が、破瓜の血が流れ出た。

 ぶよついた内股を伝って滴り落ちる紅は、たちまち倒れ伏す虫の息の女の周囲に血溜まりを作った。色褪せた花弁を、柔らかな胎を、子を育む臓器を苛んだ刃は、厚い脂肪すらも突き破る。

 数多の苦痛を舐めた女が最後に目の当たりにしたのは、己の腹から切先を出した紅い刃と、

「かねてからの迷妄が成就し、求めた“男”を最期の最期に味わえたのだ。そなたは果報者だな」

 残虐な男の、天使と見紛う優美な微笑であった。

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