終わりの始まり Ⅲ

 足元から斜めに伸びる影は、実際の自分よりも細く伸びている。当然のことではあるが、数か月前の馬鹿息子の言葉が思い出されて、少し腹立たしかった。

 女心を弁えない。普段の行いがさして良い訳でもないフィネが、どうしてセレーヌのような可愛らしい嫁を拾ってこれたのだろう。

 フィネが結婚できたのは、今思い返しても奇跡だ。ミリーはこれからも息子を鍛えつつ、セレーヌが困った時は相談に乗って、息子の妻のつつがない成長を見守っていかなければならない。

 セレーヌちゃんを虐める奴は、このあたしが相手になってやる。

 女はがっ、と家事で鍛えられた手を握り、ひっそりとした路地裏に鋭い視線を投げかけた。義理の娘が、関わり合いにならない方が賢明な類いの女に連れられてから、もうずいぶん経つ。

 ミリーは一応、自身の気の短さを自覚している。そのため人を待つ際には、常に鷹揚を心がけているのだが、流石にもう待ちくたびれてしまった。

 唯一の入り口付近には、黒毛の馬が繋がれた馬車が停まった。そのためこちらからは話し合いの様子を窺えないのも焦燥を煽る。もうそろそろ、ミリーが加勢に行った方がいいのかもしれない。

 先ほどのセレーヌの様子や、おやつの合間にぽつぽつと打ち明けられた彼女の過去から察するに、この勘はあながち間違ってもいないだろう。普段は素直で正直者で働き者のセレーヌは、イディーズという女について語る際は、人形のように愛くるしい顔を唾を吐き捨てんばかりに歪める。 

 義理の母として、可愛い息子の嫁が性悪女に虐められるのを、黙って見過ごすわけにはいかない。

 女は少女を救うべく一念発起し、小柄な男をも圧倒する長身を支える足を、涼しい木陰の外にどっしりと出す。

「お久しぶりですね、ベルナリヨン夫人」

 だがその途端、馴染みのない低い声が背に投げかけられてしまったため、思わず歩を止めてしまった。ミリーは、死刑執行人の娘であり妻であり母である。その自分に話しかける者など、親類や同業者以外にはいないはずなのに。

 さっと後ろを振り返り、怖いもの知らずの正体を確かめる。するとひっ詰めた栗毛が幾筋か、年相応の年輪を刻んだ首元にかかったが、気に留める余裕などありはしなかった。

「ああ、あんたたちか」

 濃紺の瞳に映ったのは、どこにでもいそうな平凡な、けれども重要な役目を担う二人の青年。現在逃亡中の王弟ルベリク・アルヴァスを捕らえるべく、首都から派遣された憲兵団の一員の笑顔であった。彼らは、今日もセレーヌを守るため、密かに付いていてくれたのだ。

「今日もご苦労様だね」

「ありがとうございます。そう言って頂けると、交代時間が来る夕方まで頑張れますよ」

 すっかり顔なじみになっていた若者の面には、死刑執行人の一族への蔑みは感じ取れなかった。表面上は職業に貴賎なしと定められた現在においてもなお、身の裡に潜む嫌悪を押し殺そうとする焦りも。

「今日の見張りはあんたらなんだね。昨日は、あのいつも楽しそうに喧嘩してる……ええと、」

「ユーグとティドでしょう? あいつら、今日は別の任務なんですよ」

「あんたたちも毎日大変だね」

 もちろん王制時代にだって、死刑執行人を差別せず、尊敬すべき友人として扱ってくれた人間はいた。その数が百人か千人に一人程度の、いないも同然のものだっただけで。だが、世の中にこんな人間がもっと増えてくれれば、息子たちはもっと楽になれるのではないだろうか。

 女は死刑執行人の職務を継げない。それは幼少期の、男勝りで好奇心旺盛だったミリーにとっては、承服しかねる差別・・であった。だが長じてからは救いであり、自由であったのだと気づいた。自分だって、父や祖父のように罪人の皮を剥ぎ、首を落としたいと憧れていられたのは、実際にその現場を目撃するまでであったから。

 フィネは、幸か不幸か跡継ぎたりうる男として生まれた。息子はあの何も考えていなさそうな顔の下に、ミリーには想像もできない葛藤を隠しているのだろう。

 母としてミリーがフィネのためにできたのは、ただ一つ。フィネには死刑執行人の責務への躊躇いも、余計な希望も見せないことだった。

 死刑執行人の息子は死刑執行人にしかなれない。たとえ遠い土地で素性を隠し別の職に就いても、いつか必ずどこかから素性を暴かれて、いずれ廃業か自死に追い込まれてしまう。一族に伝わる歴史は、ミリーの考えが真実だと証明していた。

 だからミリーはフィネがどんな酷いことをしても、お前は立派に職務を果たしたと囁いてきた。口には出さないだけで、息子に対して申し訳ないと思うこともあったけれど。

 自分たちの息子として生まれたから、フィネはどんなに望みまた努力しても、ミリーの目の前で朗らかに笑いあう青年たちと同じにはなれない。

「で、あんたたち、わざわざあたしに声をかけたってことは、何か聞きたいことがあるんだろ?」

 一抹の哀しみが混ざる笑顔が零れた途端、青年たちの面から溢れんばかりの陽気さがすっと消えた。

「ええ。その、セレーヌさんのことで。先程僕たちが見かけた時には一緒にいらっしゃいましたけど、セレーヌさん今はどちらにいらっしゃるんですか?」

「ああ。実はあんたたちに話しかけられる結構前に、セレーヌちゃんが暮らしてた修道院の院長の、イディーズっていう女と出くわして。そしたら……」

「ミ、ミミミミミミリーさん!」

 それだけでなく、二人組の片割れは痛みを覚えるほどの力でミリーの肩を掴んだ。もう一人も、今度はざあっと顔色を蒼ざめさせる。

「な、何なんだい? あんたたち、急に大声なんか出しちゃって」

 ミリーとて、セレーヌが驚嘆すべき出生や彼女の身に迫る危険を理解し、また警戒している。けれども、一介の修道院長と王弟に何らかの繋がりなどあるはずはないから、少しくらい二人きりにしても構わないはずだ。なのに彼らは何故、口から泡を吹かんばかりに慌てふためいているのだろう。

「そ、その、セレーヌさんと修道院長は、今どちらに?」

「ほら、あそこ。あの、馬車が停まっているとこに、」  

 青年たちの焦燥の理由は察しえないが、必死の形相に急き立てられ、女は少女が消えた路地裏の一画を指さす。すると日々の家事によって荒れ、鍛えられた手は、たちまち力を失いだらりと垂れ下がった。

「ちょっ、あの野郎、一体何していやがるんだい!?」

 今しがた馬車に乗り込んだ、質素な身なりの男の腕の中で、ぐったりと白金の頭を傾けていたのは、まさか。

「――ああ! セレーヌちゃん!」

 ミリーと青年二人は、何事もなかったかのように駆けだす馬車を食い止めんと、懸命に脚を動かした。けれども人間の脚力が、古来より荷役に、あるいは戦士の道具かつ友として用いられた獣に適うはずはなかった。

「……くそっ!」

 しばしの後、三人は汗が浮いた顔を悔恨に歪めずにはいられなかった。

「僕たちはこれから隊長の所に向かいます」

「だからミリーさんは、今あったことを息子さんに!」

 栗色の髪を狂女さながらに振り乱し、眦を吊り上げる女は、真っ直ぐに帰路を急ぐ。青年たちの忠告通り、息子に全てを教えるために。

「フィネ!」

 縺れる足を引きずりながら自宅の扉を開けた女は、あらん限りの気力と体力を振り絞って息子の名を呼ぶと、膝から崩れおちてしまった。

「……何なんだい、母さん」

 丁度、手入れを終えたところだったのだろう。鞘に納められた斬首用の剣を片手に階下に降りてきた息子は、そのやや細い目を見開いた。

「どうした、母さん。普段運動してないのに急に走ったりすると、また腰を痛め、」

「今はそんな悠長なこと言ってる場合じゃないんだよ!」

「は?」

「セレーヌちゃんが、イディーズっていう修道女に、」

 途端、青年は母ですら怯える殺意を纏い、言葉の終わりも待たずに玄関から飛び出したのだった。


 ◆


 小さな薄赤い海に、物憂げな溜息がさざなみを立てる。青年は汗で滑る眼鏡の柄や、少々汚れが付着している硝子を袖で拭い、甘木苺の風味の甘酸っぱい果実水で喉を潤した。

 ルオーゼ国軍では業務中の飲酒は禁じられている。けれども、代金を支払いさえすれば、果実水や炭酸水などの、業務に支障を及ぼさない嗜好品を楽しむのは許されていた。

「おい、ティド。お前、最近顔に似合わない感傷的な溜息ばっかり吐いてて、気持ち悪いぞ」

 目下貴重な休憩時間を、真鍮の器を傾け菓子を貪りながら満喫している雀斑の青年は、悪友の背を乱雑に叩いた。

「何か悩み事があるなら俺に言ってみろよ。俺たち、友達だろ?」

 ティドは木苺の酸味に噎せながら、当節の心のざわめきの始まりの日に思いを馳せる。

『だから、どうか……』

 彼の脳裏に焼き付いた、一人の女の涙は清らかで気高かかった。

 ティドとユーグは、同程度の家庭環境で生まれ育った。時に、年の頃も同じ自分たちの唯一にして重大な差について拳を交える友人は、そういった・・・・・事柄を多く体験してもいる。

 確かに、こいつなら多少は役に立つかもしれない。

 胸塞がる悶々とした日を終わらせ、ようやく訪れた青春の輝かしさを満喫すべく、青年は差し出された手をひしと握り締める。

「実は、俺、」

「おう。どうした?」

 そして頬を純朴に赤らめた青年は、頑なに内に秘めていた想いの丈の全てを露わにした。

「恋したんだ。お前と一緒に潜入したあの修道院で出迎えてくれた、テレーズさんに」

 

 ティドと彼女の最初の、そしてこのまま何らかの手を打たねば、「最後の」になってしまう出会いは、良く晴れた午後のことだった。

「あなたがテレーズさんですか?」

 最初は、雀斑が散った顔をおどおどと歪める彼女に、必要以上の関心は抱かなかった。テレーズは重要な情報提供者かつ協力者であり、丁重に遇すべき人物ではあったのだが、ただそれだけだったのだ。

 だが、別れ際に彼女が流した一筋の雫は、朝露のごとく清らかで儚くて。ティドはさめざめと涙する彼女に、一瞬で惹かれてしまった。

「私は、昔――というほど時が経ったわけではありませんが、自分の衝動を暴走させ、ある方々を傷つけてしまいました」

 テレーズは下級貴族の娘として生まれたものの、物心ついてすぐに修道院に預けられたらしい。養育費や将来かかる持参金を減らすための、いうなれば口減らしとして。

 彼女は、不当に強いられた、真に望む者を求めても得られぬ運命を嘆いていた。そしてそれゆえに、自分が渇望するものを当然のように保持する少女に嫉妬し、罪を犯したのだという。

「一時は院長様を通して、神にも縋ってみたのですが、心はちっとも楽にならなくて。それで、分かったんです。私は、彼らに謝罪していないから、こんなにも苦しいのだと」

 徒に他者を傷つけた償いにはならないが、私が勇気を出すことで、多くの人々が苦しみから解放されるのならば。

 微笑んだ彼女の目の端に浮かんだ雫は、ティドがこれまで目にしてきたどんな涙よりも清らかだったのだが――


「はあっ!? まじ? お前あんな地味なのが好みだったのかよ!」

 どちらかといえば華やかな外見の女を好むユーグは、そうは感じなかったらしい。

「黙れ。彼女を貶めるな」 

 青年は眼鏡を光らせながら、鼻息も荒く「あんな年増ないわー」と叫ぶ友人の襟元を掴む。

「俺はお前と違って、女を見た目じゃなくて中身で選ぶんだよ!」

 だがユーグはそれでも平静を保ったまま、残酷な言葉を吐き捨てた。

「いやいや。確かに性格も重要だけど、でも身体の方の相性も大切なんだぜ。ま、童貞のお前には分かんねえだろうけど」

 実体を備えぬ矢は幻であるにも関わらず強烈な毒が仕込まれていた。以前のティドならば、たったの一撃で倒れ伏していただろう。しかし恋を知って成長したティドは、今までのティドではない。

「あ? 童貞だからって何か悪いのかよ? 確かに俺は妹にも指さされて、“お兄ちゃん、二十超えたのにまだ童貞だって聞いたけどほんと? え、うそ、ほんとだったの? ……だっさ”なんて嗤われた童貞だけど、でもその分誰にも振られたことないぜ。――アマンダの前の前の女との別れ際は、そりゃあ愉快だったよな、ユーグ?」 

 ゆえに、一切の躊躇いも容赦のなく、友の古傷を抉ることもできるのだ。

「黙れえええぇぇぇぇ!」

 ユーグは巡回中に彼女と他の男の逢引の光景を目撃し、街中で派手な喧嘩を繰り広げた挙句、平手までお見舞いされて捨てられた。

 見るも語るも悲惨な思い出の傷は、未だユーグの胸に深く巣食っているのだろう。なんせユーグは、前の前の彼女の四人の間男の一人。それも予備の予備の予備に過ぎなかったのだと、公衆の面前で暴露されたのだから。

「その眼鏡かち割ってやるからな、クソ童貞眼鏡!」 

「やってみろよ! お前の安月給から弁償させてやるからな!」

「お前と俺の給料同じだろ!」

 悪友たちは、やる気のない声援を浴びながら、言葉と拳で自身の感情を伝え合う。

「や、やるな」

「お、お前も、な。……見直したぜ」

 胸に、肩に、頬に。何より拳にじんわりと広がるこの鈍痛こそ、かけがえのない宝物。友情をはぐくみ、青春を輝かせる宝石なのだ。

 ――自分たちはやっぱり、唯一無二の親友。この友情は、どんなことがあっても変わらない。などと青年たちが相手の肩を抱き寄せ、友情を確かめあった瞬間。

「さっきから何を騒いでいるんだ、お前たちは」

 いつの間にか、冷ややかな怒りを双眸に宿した上司が背後に控えていたから、二人の青年の面からは一切の血の気が引いた。ばきぼきと指の骨を鳴らすジリアンは、顔だけならば類まれな美女であるのに、猛り狂った熊よりも恐ろしい。

「いや、あのですね。これには、それはそれは、海よりも深い理由が……」

 二人の青年は、今度は仲良く抱きあって迫りくる危機から互いを庇いあう。

「理由が浅かろうが深かろうが、必死に職務に励んでいる他のやつらの気を散らせたのは事実だから反省しろ」

 しかさは懸命の弁解も虚しく、二人の頭頂には制裁の鉄拳がめり込んだ。

「隊長! こちらにいらっしゃったんですね!」

 頭蓋を砕かんばかりの怪力は、青年たちの意識を砕いた。けれども突然に仲間が休憩室に駆け込んできたのだから、呑気に伸びてはいられない。

「どうした? まさか――」

 額に髪をへばりつかせた部下の報告に耳を傾ける上司の横顔は、軍人に相応しい威厳と凛々しさに溢れていて。

「お前たち、直ちに突入の準備をしろ」

 そして数瞬の後。並々ならぬ決意を宿した声によって、待ちに待った作戦は始められた。

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