終わりの始まり Ⅱ

「私の姿を見るなり逃げだそうとするなんて、失礼にも程があるわ。私はあなたのために、大切な話をしに来たのに」

 彼女にしては珍しく他者の身体に触れるイディーズは、実体である。それは、伝わる体温から判じられたが、全くもって嬉しくはなかった。

 セレーヌはもう、一瞬だってイディーズの顔を見ていたくない。身体が汚れるような気がするから、同じ空気を吸うのも嫌だった。

「でも、これからあなたの家に向かおうとしていた丁度その時に、こんな場所で巡り合えるなんて。神のお導きに違いないわ」

 いっそ、目の前の女が幽体だった方が、まだ良かったかもしれない。

 少女は隠すつもりなど全くない怒りと苛立ちを込めた視線を、弛んだ頬に突きさす。だが路上で繰り広げられる人形劇の、底意地悪い継母のごとくふんぞり返る女は、セレーヌの意思など最初から考慮していなかった。

「おい、放せ!」

「すみません。そこの、この街の先代の死刑執行人の奥様。この子に話さなければならないことがあるので、お時間をいただくわ」

「わたしにはお前と話したいことなんて、何一つないぞ!」

 少女は掴まれた手を振り解くべく、じたばたともがく。しかしあえかな抵抗は、セレーヌの耳だけにしか届かなかっただろう囁きに封じられた。

「それがマリエットさんに関することでも?」

 未だセレーヌの大部分を占める彼女の、姿が眼裏に映る。脳内で佇むマリエットは在りし日そのものの、儚く寂しげで――何より悲しげな顔をしていた。どんなことがあっても母を愛し守り抜こうと、幼かったセレーヌに誓わせたあの顔だ。

 誓いは、結局は守り切れなかった。セレーヌは母を愛しきれなかったから。だからこそ、母の名を聞かなかった振りはできない。

「すみません、お義母さん。少し、長くても四半刻ぐらい、ここで待っていてもらえませんか?」

 イディーズはミリーの返事を待たずに、セレーヌを中心市街のはずれの、人気のない場所に追い込んだ。市場に出荷される子牛は、このように惨めで、不安な気持ちと闘っていたのかもしれない。だとしたら、今度子牛の肉を食べる時は、もっと子牛と牧人に感謝し、味わって食さなければ。

「この日この時あなたに出会えて、本当に良かったわ」 

 寂れた路上で目の当たりにした笑顔は、これまでの人生で嫌というほど眺めてきたものとはまた異なる歪みを湛えていて。あらぬ方向に現実逃避していた少女を、容赦なくこちらに連れ戻した。

「だけどその前に、一つ言っておきたいことがあるの」

 こういった時に発せられる一つが、一つで終わった試しなど、それこそただの一度もない。

 長くなるだろう説教の始まりを予感し、鬱屈とした溜息を吐いた少女であるが、しかし逃げ出そうとはしなかった。


 白金の毛先を嬲った一陣の風は、突き当りの壁に当たって砕ける。

 薄く小さな胸は、周囲に充満する空気にも劣らぬ淀みをすったり溜めこんでいた。緑の瞳は、線がぼやけ色褪せた唇をこっそりとねめつける。

「どうしてあなたは、私が折角神にのみ捧げるべき時間を割いて、あなたのためを想って諭してあげているのに、いつもいつも私の努力を台無しにしてしまうのかしら?」

 十四年の人生の間で、すらすらと暗唱できるほどに投げつけられた小言の語彙はいつも同じで、いい加減に聞き飽きてしまった。だが数え上げるのも馬鹿らしくなるほど耳にしてきたはずの叱責は、鬱鬱とした怒りの起爆剤としての役割だけは十分に果たす。

 ――おかあさんの話とやらはただの口実で、イディーズはわたしを怒鳴りに来ただけなんじゃないだろうか。

 引き攣った蟀谷を揉み解したいのはやまやまだが、少女はひたすらに貝となって口を閉ざした。下手をやらかしてイディーズの気分を害してしまえば、説教が伸びてしまう。だから、こうして終わりを待っているのが一番いいのだ。

「そりゃあね、あなたみたいな子に過分な期待をしてしまった私も悪かった、とは思っているわよ。でも、さすがにあれは私に失礼でしょう? あなたが今よりも小さくてもっと手が掛かっていた頃から――あの頃は毎日が本当に大変で、何度倒れそうなったか分からないわ――世話をしてあげていた私に」

 この女は何故、自分がセレーヌに感謝されてしかるべき存在だなどと考えているのだろう。

 どんなに記憶の澱を漁っても出てこない、忘却の彼方に放り込んでしまった幼少期には、セレーヌがイディーズの手を煩わせることもあったかもしれない。だけど物心ついてからは、セレーヌは余程の用事がなければ、イディーズの顔など進んで見ようともしなかったのに。

「前の院長様からあなたの世話をお願いされた日のことは、今でも忘れられないわ。あなたは覚えていないでしょうけれど、私はあなたに“お母さんだと思って甘えてもいいのよ”と言ってあげたのよ? で、その後あなたは、何て言ったと思う?」

 ――知るか。そう吐き捨てられれば、嵐の後の雲の切れ間から覗く、青空のごとき心地になれるのだろう。

 一たび芽生えた衝動は甘美なる誘惑でもおる。荒野で修行を積んだという聖人ならいざ知らず、幼気な少女に押しのけられるはずがなかった。

「あなたは“おかあさんはもっと美人だった。イディーズなんてむり。ぜんぜんにてない”なんて言ったのよ。人の真価は移ろいやすい外面ではなく、神への愛と心映えの清らかさのみで決まるというのに、」

「おい、イディーズ」

 心の奥底から湧き上がり、身体の芯をどろりと蕩かす灼熱の衝動は、なけなしの理性を押し流す。ついに怒りの炎に巻かれた少女は、拳を握りしめて長年の敵に立ち向かった。

「この際はっきりと明らかにしておくけど、わたしはお前が大嫌いだ」

 長年小さな胸の奥にため込んでいた澱みを吐露した途端、寂れた突き当りは俄かに灰色の闇に覆われた。蒼天に坐す太陽がしばしの休息を求め、雲の間に隠れたためではなく、何者かが輝かしい光を遮断したのだ。

 周囲に木霊していた蹄の音や馬の嘶きすら消失した、不気味な静けさに支配された空間。そこで響き渡るのは、少女の滑らかな喉から出る鈴の音のみ。

「世界で二番目に嫌いだ。同じ空気を吸うことすら我慢できない」

 戦慄く薔薇色の唇は、思いがけない反逆に呆然と口を開く女に、最後の、もっとも痛切な想いを突きつける。

「お前からしたらちっぽけでくだらないものかもしれないけど、わたしはわたしなりの幸せを見つけて、フィネやお義母さんと生きると決めたんだ。だから今後一切、どんなことがあっても、わたしたちに近づくな!」

 お前がわたしの大切な人たちを傷つけたり侮辱するつもりなら、容赦はしない。

 渦巻く胸の裡を、声の限りを尽くして吐き出す。ただそれだけのことなのに、心臓は今にも飛び出んばかりに脈打った。こうしてこの場に立てているのが不思議なくらいに。

 少しでも気を抜けば、たちまち膝から崩れ落ちてしまいそうだった。けれども、自分を待ちわびている義母の許へ、戻らなくてはならない。

 少女は呆然と開いた口に蔑みの一瞥を投げかけ、くるりと踵す。そうして走り去ろうとしたものの、細い腕は柔らかだが不快な掌に包まれてしまった。

「……酷いわ。私はただ、今日はマリエットさんの月命日だから、あなたがお参りしたらあの人も喜ぶんじゃないか、と伝えようとしただけなのに」

 イディーズの声が震えているのは、怒りの故か。それとも拒絶された悲しみの故だろうか。

 嘆きの様相は、出生の真実を知らされる前ならば、幾ばくかの同情を引き出したかもしれない。けれども今現在のセレーヌの滾る胸の奥に、ほんの僅かの波紋も広げなかった。

「……放せ」

「い、た」 

 隙を付かれ突き飛ばされたために転倒した女の姿も。ほんの僅かの憐憫の情も湧き起こらなければ、いい気味だとも感じられない。まして申し訳なさなど、欠片も感じなかった。ただただ、この女がいない場所に戻りたいというだけで。

「……」

 少女は嫌悪する女から――過去の全てから逃避すべく、地べたに這いつくばる彼女に背を向ける。

「やっぱりあなたには、」

 しかし途切れ途切れの呪詛の幾つかは、頑丈な鎖となってか細い脚に絡みつき、平板な胸の中の泉を沸騰させた。

「……お前、今、なんて言った?」

 滑稽に唇を震わせていた女は、修道服に付着した埃を払いながら立ち上がった。少女は中年の女の襟首を掴み、互いの吐息がかかるほど近くに詰め寄る。頬や背筋を撫でる生温かく湿った風は不愉快極まりなかったが、細事に配る余裕など存在しなかった。

「ちょっとあなた、私にこんな無礼を働くなんて――」

「お前の気分なんてどうでもいいから、さっき言ったこと、もう一度言ってみろ」

 端々から血の色の染まる視界に映るたるんだ顔は苦しげに歪んでいるが、それがどうしたというのだろう。

「“やっぱりあなたには、神の花嫁を汚すような方の血が流れているんだわ。だからこんなに酷いことができるのね”――こ、これでいいかしら?」

 その意味を理解した途端、芽生え、あるいは噴出したのは殺意だった。

 滑らかな黒衣ごと握り締められた指の先は紅く染まったが、瑞々しい唇は血の気を――生気を喪失して蒼ざめる。

 長く眠りについていた火山の、大地を揺るがす目覚め。その心胆を寒からしめる光景を彩る紅蓮の溶岩にも匹敵する激情は、小さな心臓から血の管に、血の管から全身に送られた。

 憤怒は春の妖精を連想させる貌を歪める。元来は優しげに垂れ下がっている眦を吊り上げた少女の貌には、普段の可憐さは微塵も残っていなかった。

 一切の光射さぬ洞窟めいた、深淵の闇を湛えた瞳を向けられた女は、なおも執拗に自身の正当性を主張する。

「だって本当のことなんだから、仕方ないでしょう?」

 頂点に達した激怒は冷えて固まり、修道服の黒すら及ばぬ漆黒の塊となった。どんな炎でも。それこそ地獄の猛火ですら融かしきれぬ欲求を満たすには、この女の舌の動きを息の根ごと止めるしか――イディーズを殺すしかない。

 究極の答えに辿りついた途端、少女の裡で吹き荒れていた暴風は、ぴたりと鎮まった。これほどに晴れやかで穏やかな心地に至れたのは、生まれて初めてかもしれない。もっと早くこの解決策を思い付かなかったのが、不思議なぐらいだった。

 ほころんだばかりの薔薇の蕾を連想させる可憐な、しかし禍々しい笑みを口元に湛えた少女は、たるんだ首に指を回す。そして緩やかに、だが確実に小さな手に力を込めた瞬間。

「――っ、やめなさい!」

 平均的な少女よりも著しく小柄なセレーヌでは、到底抗えぬ力に弾き飛ばされてしまった。

「あなたは唯一神の教えに背くことをしでかしたんだから、今すぐ私と神に謝罪しなさい」

 強打した右半身の痛みを噛みしめながら仰ぐ女は、自身の絶対的な優位を確信していた。それでも少女は、荒い息を吐き呻きながら、なおも毅然と腹立たしい顔をねめつける。この女に膝を折るぐらいなら、死んだ方がましだった。

「だ、誰が、お前なんか、に」

 柔らかな大地から顔出したばかりの若芽の双眸はなおも、磨かれた剣にも劣らぬ鋭い憤りを宿している。

「あら、そうなの」

 存外あっさりとセレーヌとの二回戦を断念したイディーズは、これまで耳にした彼女のどんな文句よりも冷ややかに呟いた。

「だったらもう私には、あなたをどうすることもできないわ」

 そして修道服の隠しをまさぐり、一見何の変哲もないごく普通の、だが得体のしれない匂いを振りまく手巾を取り出す。

「だけどこのままあなたを野放しにしていると、あなたはきっと地獄に堕ちてしまうわ。それは流石にあんまりだから、」

 なけなしの抵抗も虚しく、小さな鼻と口にひやりとした湿り気を帯びた布を押し付けられてしまった。

「あなたを躾けられる人にあなたの未来を託すしかないわね」

 どこか嗅ぎ覚えのある臭いは、本来は紙のごとく軽い目蓋を石か鉛にする。

 濃い霧に侵食される脳裏で導けたのは、自らの出生の経緯を知らされた際も、幽かながらこの臭いが漂っていたという些細な発見だけ。あれは確か、薬草茶から……これ以上は、もう何も考えられない。

 イディーズではない誰か。恐らく男の足元を朦朧とした瞳で捉えた直後、緑の双眸は完全に閉ざされる。本物の人形さながらに倒れ伏す少女を見下す女の面は、歪な喜悦を湛えていた。

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