終わりの始まり Ⅰ
厳めしい蔦の彫刻が施された扉は、片手で開くには重すぎる。中年の修道女は抱える白百合の束を足元に放り、赤錆が目立つ取っ手に手を伸ばした。
古びた金属には、僅かながら他者のぬくもりが残っているようだった。しかしそう感じられたのは、降り注ぐ陽光のためかもしれない。今日は旅立ちに相応しい、良い天気だから。
ぎしぎしと開け放たれた扉の向こう。預言者の像の前で、男が独り佇んでいた。ごく淡く白に近い、麗らかな春の日差しを想わせる白金の髪は、ふわりと波打っている。ルベリクだ。
「なんだ、そなたか」
彼が修道服を脱ぎ捨て、きちんとした男の恰好をしている姿を見るのは、これが初めてだった。見ず知らずの他人と接しているようで落ち着かない。
「あなた、よっぽどここがお好きなのね。ほぼ毎日のように訪れているじゃない」
遙か高みに設けられた窓から差し込む一筋の光は、類まれなる白金の髪を輝かせる。
仕立てのよい襯衣と黒の脚衣という飾り気のない恰好をした彼は、舞い散る光の粒の効果もあって、天から下された御使いのようであった。もっとも、それは見た目のみの話であるが。
「もしやそなた、それをこの何人たりとも拝せぬ祭壇に捧げるつもりなのか?」
――それは、大層酔狂な真似を。
触れずともその柔らかさと伝えて来る、繊細な唇に乗った笑みは皮肉げで。舌の上で儚く消え去る砂糖菓子のようでありながら、確かな毒を含んでいた。
ルベリクの顔の造り自体は人形めいているのに、鼠をいたぶり殺す猫を彷彿とさせる。どんなに見てくれが整っていても、この男の本性は獣なのだから、油断してはならないのだ。それに、この顔には十余年前から見慣れているではないか。セレーヌとルベリクは、丸きり同じ顔をしているのだから。
なのにどうして、ほんの一瞬とはいえイディーズは、彼の微笑から目を離せなくなったのだろう。
これはやはり、ルベリクが密かに怪しげな呪いをかけ、イディーズを己の意のままに操ろうとしていたのだとしか考えられない。つまりルベリクは、やはりイディーズの清らかな肉体を狙っていたのだ。
「これはマリエットさんのお墓に備えるのよ」
強い調子で返事を発してしまったのは、彼の不埒な欲望を制するため。イディーズがこの花を捧げると決めた女のように、毒牙の餌食となってはたまらない。手元の白百合の甘く爽やかな香りは、堂内に蔓延する埃臭さを霧散させるには至らなかった。
狂気的な熱意を携え、幾度となくこの礼拝堂に足を運んだ女が死んだのは、侘しい冬の日のこと。対して今日は、雲一つ見当たらず、雪など一粒もちらつかぬ初夏である。
だのにイディーズが少々日焼けし、虫に食われているとはいえ一輪の百合を手折ったのは、ひとえに天上の大いなる存在を喜ばせるために他ならない。
死者の寝所への訪問は、聖典が推奨する善行の一つである。故にイディーズは、亡き修道女たちの月命日には、できるだけ花を供えてきたのだ。実の娘にすらその死を忘却された哀れなる女を悼む自分の、敬虔かつ慈悲深い様は、さぞかし唯一神の慰めとなっただろう。
どうせなら、この獣を改心させてみるのもいいかもしれない。イディーズの聖性があれば、野の獣とて説法に耳を傾けるだろう。だから、一応は人間であるルベリクを感化できなくはないはずだ。
「折角だから、あなたもお参りしてみない?」
「私は生憎、初めて耳にした名の、顔も知らぬ女の墓前に赴くほど暇ではないのでな」
意図して絞り出した明るい声と誘いは、一笑に付されて終わった。そもそもマリエットとて、自分を暴行した男の訪れなど望んでいなかっただろうから、これで良かったかもしれない。だが、それにしても、「初めて耳にした」とは。
「……ああ、そうね。あなたはこれから、大切なことをしなければならないものね」
黒の頭巾を傾け、亡き女へ哀れみの情を捧げる修道院長は、ぶよついた肉がこびり付いた肩にのしかかる重さに溜息をつく。
「他人事のように吐き捨てたが、私の策の成否はそなたの働きにかかっておること、忘れたのではあるまいな?」
「そんなことないわよ。あなたの行く末は、私たちの生活をも左右するんだから、しっかりお手伝いさせていただくわ」
そして彼は重い足音を虚ろな堂に響かせ、若葉の緑の双眸を冷酷に眇める男の前から立ち去った。
◆
久方ぶりのルトの中心市街は、やはり行き交う人々の活気に溢れていた。
「ここにはまたいつでも来れるんだから、そんなにきょろきょろしなくてもいいんじゃないかい?」
少女は義母の豪快な笑い声に耳を傾けつつ、食い入るように国内第二の都市の中心街を観察する。赤い屋根の肉屋の隣には緑の屋根の青物屋が。その向かい側には、いつか訪れた服屋が並んでいて、そのまた隣には香ばしい匂いを漂わせる菓子屋があった。
少女はとある衣料品店から買い求めた品を納めた、少女趣味も甚だしい手提げごと、薄い腹を抱きしめる。そうしないと、軽い昼食を摂って一刻も経っていないのに、はしたなくも甘味を求める音が漏れ出てしまいそうだった。
わたしは腹なんて空かせていない。あの菓子屋から、牛酪のいい匂いが漂ってくるなんて。そういえば木苺が美味しい季節だなんて、考えてはいけない。
セレーヌは邪念を抑えるべくぶつぶつと呪文を唱えていたから、義母ミリーがある一点を見つめて立ち止まった折には、危うく逸れてしまいそうになった。
「そういえば、もうすぐおやつの時間だねえ、セレーヌちゃん」
慌てて自分の名を呼んできたミリーの元に戻る。義理の母たる女性は大きくはっきりとした濃紺の目を、柔らかく細めていた。
「折角だから、何か買っていこうか? そういえば、もう木苺が出回っている頃だろう?」
どうやら、セレーヌの邪念はミリーに気付かれていたらしい。羞恥に頬を赤らめながらも、少女はこくりと頷いた。
「よし! そうと決まったら、いいのが他の客に取られないように、急がなくちゃね!」
途端、ミリーは折れんばかりに細い手首を掴み、甘い誘惑を並べる店に向かって突進する。長年の家事で鍛えられていてもなお芯に柔らかさを秘めた手は、まさしく母の手だった。
少女は大柄でありながら俊敏に道路を渡る義母に引きずられるように、喧騒の中を進む。目指す場所に付いた頃、細い背筋は珠の汗の一粒に撫でられた。
ぴんと伸びた一筋の糸が、鈍く輝く刃に断ち切られたのは、彼女らの短い旅の半刻前のこと。
同様に切断された、
一着の襯衣として形を成しつつある布地と同時に買い求めた糸玉は、すっかり小さくなっていた。これでは、明日には足りなくなってしまうかもしれない。
今日はいい天気だし、散歩がてら買い物に行くのもいいだろう。
昼寝から覚めた猫のごとく伸びをした少女は、ぬくもりを吸った椅子から立ち上がり、階下の居間を目指す。
額に汗して食卓にこびり付いた細かな油染みを落としていた義母は、セレーヌの足音を聞きつけたのかぱっと面を上げた。
「あら、セレーヌちゃん。今日はどのくらい進んだんだい?」
自室で剣を磨く息子に悟られぬように抑えられた声は、しかしなおも彼女らしい明瞭さを滲ませていて、朗らかで。うっすらとした薔薇色の染まった頬をほころばせずにはいられなかった。
「ええと、あともうちょっと頑張れば完成しそうなんですけど、でも、」
「でも?」
明朗な笑みがよく似合う大きな口は、程なくしてセレーヌが待ち望んでいた同意であり誘いを紡ぐ。
「そういうことなら、これから二人で買い物に行こうよ、セレーヌちゃん。もちろん、フィネには内緒でね。なに、ほんのちょっとならばれはしないさ」
かくして、女と娘は買い物用の手提げをもって、家から飛び出したのである。
目的の糸玉のついでに、果物籠と小鳥の文様が可愛らしい桃色の反物と飾り釦。加えて幅が広い真紅の
こういう時は何軒かはしごするのが決まりだと、ミリーはセレーヌの背を推す。義母に勧められて入った店には、最初の店とはまた異なる雰囲気の品々が並んでいて、どれか一つになど選べそうになかった。
「あたしが腕によりをかけて、とっておきの服を仕立てあげるからさ。これはと思うのが見つかるまで、じっくり見てごらんよ」
セレーヌは半年前と比較すれば、胸はともかく身長は小指の第一関節までぐらいは伸びた気がする。なので、矢車菊の模様が優雅な青紫の布も、似合うようになっているかもしれない。
ついでに義母の技術は、セレーヌの同年代の少女と比較すると著しく貧相というか、全くもって膨らんでいない胸を華やかに見せてくれるのではないだろうか。
結局セレーヌは、義母の指が編み出す魔法にかかってその織物が、夫である青年の誕生日に纏うに相応しい一着となる日を夢見て青紫の布も買った。
選んだ生地に合う深い紫の飾紐を仕舞った手提げは、今はセレーヌの膝の上にある。フィネと二人で訪れた公園の椅子に並んで腰かけ、溢れんばかりに木苺が盛られた掌ほどの大きさのタルトを、たったの二口で平らげた義母は逞しかった。
「セレーヌちゃん。これも食べちゃおうよ」
「いいんですか? これ、フィネの分なんじゃ……」
「いいんだよ。これは母親の繊細な女心が分からないあいつには勿体ない菓子だからね」
母の体型を見誤り、あまつさえあらぬ不名誉な疑惑をぶつけた咎で、フィネは未だおやつ抜きの刑を継続させられているのだ。
哀れな青年にはただの一枚も分け与えられぬ焼き菓子は、次々に小さな口に放り込まれる。香ばしい風味を舌で堪能し、心地よい歯触りを愉しみながら咀嚼し終えた頃には、少女の腹はすっかり満たされていた。
「さ、腹ごしらえもしたし、そろそろ家に戻ろうか」
ミリーは今日の収穫を仕舞いこんだ袋を逞しい腕にぶら下げ、並みの男にも匹敵する長身を更に大きく伸ばした。
「そうですね、お義母さ……えっ!?」
指に沁みついた油分を
真夏にはまだ早すぎるが、自分は陽炎か何かの、妙な幻に惑わされているのだろうか。それとも、目が疲れているのだろうか。
「一体どうしたんだい、セレーヌちゃん。これ、セレーヌちゃんが頑張って刺繍したやつだろう? なのに落として汚しちゃもったいないよ」
少女はいぶかしげに眉を寄せる義母が差し出す手巾には目もくれず、だんだんとこちらに近づいて来る怪奇現象を凝視する。
見間違いであればいい。あるいは白昼の炎天が見せる腹立たしい錯覚であれば、と願ったのに、それは間違いなく
ごしごしと目を擦っても、爪痕が残るまで思い切り頬を抓っても、幻想のイディーズは、セレーヌにどんどん接近して来る。ならばこれは、信じがたいことではあるが、やはり本物なのだ。
とはいえイディーズが修道院の敷地の外に出るなどありえないし、死んだという話も聞かない。だからきっとこれは、肉体から抜け出したイディーズの魂だけが、彷徨っているのだろう。つまり現在セレーヌが目撃しているのは……。
その正体に感づいた途端、全身からざあっと血の気が引いた。こうなってしまった以上、あの女にこちらの気配及び、セレーヌがイディーズに感づいていることを把握される前に、一秒でも早くこの場を離れないといけない。
「……なんでもありません、お義母さん。ただちょっと、ここ最近、少し目を使いすぎていたから、目が疲れているんだと思います。わたしが見たのは、疲れが見せる幻なんです」
「え、どういうことなんだい? セレーヌちゃん?」
今にも細い喉を突き破って迸りそうな悲鳴を懸命に堪え、少女は傍らの女性の袖を引きちぎらんばかりに引く。義母への遠慮や気遣いを気に掛ける余裕など、ありはしなかった。
「ええ、そうです。はい、大丈夫です。家に帰って少し休めば、きっと治りますから、」
「セ、セレーヌちゃん?」
「ああ、そうです。はい。実は大丈夫じゃないんです。早く逃げないとなんです、はい、は、はいいぃぃぃぃぃぃっ!?」
華奢な背を戦慄かせる少女が、ついに身の裡で渦巻く恐怖と衝撃をぶちまけてしまったのは、彷徨える魂が間近にまで迫っていたため。
息子とそっくり同じ上がり眉を困ったように顰める義母の背後に、ぬっと佇んでいるのは、間違いなく……。
「うわあぁぁぁぁぁぁ! お義母さん! 後ろ! 後ろ!」
このままでは、ミリーがイディーズに憑り殺されてしまう。あの女はきっと、あからさまに去年よりも多くなった皺や染みを消すために、禁断の術に手を出したのだろう。そして、身勝手でおぞましい願いを叶えるための贄を探すべく、俗界に下りてきたのだ。
「後ろを見……いえ、逃げて!」
セレーヌがこの危機をもっと早い段階で察知できなかったせいで、ミリーがおぞましい術の餌食とされるなど、あってはならない。
「お義母さん、逃げてください! わたしと一緒に!」
「セレーヌちゃん!?」
少女は何故だか背後ではなくこちらを不安げに凝視する女性の手を掴み、安全な我が家に向かって駆けださんする。しかしか細い脚は、どこかべたついたぬくもりによって阻まれてしまった。
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