悪夢 Ⅳ

 清しい空気と早朝の光に彩られた食堂に、祈りが響き渡る。目を伏せて聖典の一節を読み上げる若い女の面からは、いつもの怯えを除いては、一切の表情が抜け落ちていた。反抗であれ、嘲りであれ、イディーズを害する感情は、全て。

 テレーズの地味な顔には、見苦しい雀斑が散っている。だが、これならば預言者の花嫁として、聖院に置いてやれないこともないだろう。彼女をここまで導いたのはイディーズなのだから、テレーズには今後は、院長たる己を父母同然に敬ってほしいものである。

 麺麭と乾酪一欠けらに、修道院の畠で育てた野菜数種を煮込んだ汁物。清貧を形にしたかのような朝食を嚥下するといつも、イディーズは我が身が更に清められたことを実感していた。

 どこかの無礼な娘やその母親とは違って、イディーズは生まれ落ちてから現在に至るまで、尊い純潔を守り続けた。その上、イディーズは元より神や天使から特別清らかな魂を与えられているのだ。自分を愛する大いなる者たちのためにも、贅沢品で身を穢してはならない。

 接してはならないのは贅沢品だけではない。祈りと節制に努めるべき神の家にあるまじき、笑顔や談笑もまた同じだった。そのためにイディーズは、前任の遅すぎる死の後直ちに、配下の修道女の教育に励んだのである。

 かつてのセレーヌの定位置が、別人の席となってからもう半年も経つ。院内は完璧には程遠いが、己が起居するに相応しい場へと変貌しつつあった。

 卑屈な目で周囲の様子や食事の速度を窺う彼女の面立ちは、何度見ても地味で平凡。どころか野暮ったくすらあるが、仔羊のごとき従順さは評価できないこともなかった。

 この動乱の時代にイディーズの元に押し掛けてきて、イディーズを無用に煩わせたテレーズは愚昧極まりない。

 テレーズは、それまで暮らしていた修道院が解体され、この修道院に身を寄せた。でも、それがどうしたというのだろう。高潔なる遣いの重荷となるよりかは、自ら命を投げ打つのが信徒としてあるべき姿だったのではないだろうか。

 しかもテレーズは、イディーズが治める聖域に死刑執行人を招き入れるという、決して看過できぬ罪を犯した。ゆえに彼女は死後、神の愛しい子たるイディーズに対して犯した無礼の報いを受けるだろう。

 とはいえテレーズは、現在では己の忠実なる仔羊である。だから、生前ぐらいは修道女の身に相応しい扱いをしてやらなくてはならない。

 イディーズの働きかけがなければ成り立たなかったとしても、テレーズが神のために邁進する姿が、天上の大いなる存在の目に留まれば。そうすれば、彼女の罪は許されるのかもしれない。どから、その機会を恵んでやるのも、大いなる者の務めである。

「テレーズさん」

 朝食を平らげた女が、同じく席を立った若い修道女を呼び止めると、質素な衣に包まれた肩はびくりと震えた。

「……如何なさいましたか、院長さま」

 返された返事は相変わらず陰気だったが、疑いの影は射していない。

「ええと、今日も、」

「ああ。客室のあの方に朝食をお運びすれば良いのですね?」

 院長たるイディーズの言葉を遮り、自分の意見を述べる傲慢は、折を見て正さなければならないだろう。

「ええ、そうなの。それと、」

「九時課頃に訪れる、大工の徒弟の方々への応対ですよね? もちろん、自分の務めを忘れてなどいませんから!」

「あら、それは、」

 この修道院の主は、頼もしいわね、と更なる贖罪の機会を恵んでやろうとした。しかし年若い修道女は、はしたなくも大声でイディーズの声を遮った。

「い、いつものように、扉の前に置いてくれば良いのでしょうか?」

「……ええ、そうね。では、お願いするわ」

 はしたなくも小走りで自分の目の前から去っていった彼女には、近いうちに罰を与えなければならない。だがそれは、所用が済んでからでも遅くはない。というより、用が全て終わってからでないとならなかった。

 春と夏の境の刻にこの修道院に駆け込んできたルベリクは、病によって声を失った商家の夫人と身分を偽り、客人の間に籠っていた。獣を通り越して悪魔に近い彼にそもそも痛む心などないだろうに、あろうことか傷心を癒すためという名目を掲げて。

 精神はともかく肉体は紛れもない人間のものである以上、ルベリクも食物を摂取せねばたちまち息絶えてしまう。ゆえにイディーズは、配下のうち最も愚鈍で御しやすそうなあの修道女に、ルベリクの食事の世話を任せたのである。

 常に静寂に包まれてしかるべき修道院にさえ、軽薄な好奇心の誘惑に惑わされる恥ずべき輩はいる。従って、本来ならばイディーズがルベリクの世話を担うべきなのだろう。しかし、イディーズは貞潔を守り続けるために、万全を尽くしたかった。

 自分が庇護しているのは、年端も行かない少女やその屍を愛好する、唾棄すべき嗜癖を有する獣である。しかし、彼とて立派な男なのだから、己の新雪のごとき肉体に不埒な欲望を抱いて当然だ。

 そういえばルベリクは、頻繁に院長室の隣の書庫に足を運ぶ。あれも全て、イディーズの隙と肉体を狙っているがゆえの行為だったのでは……。

 ――神の花嫁を付け狙うなど、なんて不遜で恐ろしい企てなのか。けれども彼はもうすぐここから出て行くと言っていたから、もう少しの辛抱だ。

 高潔を自負する女は、採光窓から漏れる白金の光に目を細める。この時の彼女は己に待ち受ける未来が、蒼穹に坐す太陽さながらに輝かしいものであると信じて疑っていなかった。


 ◆


  鬱蒼とした深い森林を、手つかずの翠緑玉エメラルドの原石とする。さすれば人為的に整えられた菜園は、磨かれた翡翠に比せられるだろう。

 いずれ儚く霧消する朝露は植物の緑をより深くする。蒼穹を飛び交う小鳥の鳴き声は軽やかで、不当に幽閉されていた離宮を抱く森を住まいとしていた同胞の囀りとは、まるで異なっていた。修道女たちの朝食時を見計らって行っている、散策の終わりが惜しくなる程度には。

 とはいえ、油断は死を招きかねないのだから、息抜きは早々に切り上げるべきだろう。

 男は緑の香気入り混じる清冽な空気を惜しみつつ、与えられた居室に足を向ける。しかしその途中、小さな声に呼び止められてしまった。

「……おはようございます。このところ、いいお天気が続いていますね」

 あの脳髄が腐り果てた女の監督下に置かれるという、悲惨極まりない境遇の修道女。彼女の面は笑みを刷かれてはいるものの、どことなく引き攣っていた。

 己に食事を運ぶという雑用を押し付けられている点を考慮すると、この娘は他の修道女より多くイディーズの慢心の犠牲となっているのだろう。それ故に、顔面の筋肉が凝り固まって、このように奇妙な笑顔しか浮かべられなくなったに違いない。

「あなたが珍しく外に出てこられたのも、だからでしょうか? だって、本当にいい朝なんですもの」 

 身体の線や肌を極力露わさない修道服も、柔らかではあるが、男のものでしか有り得ぬ低音は誤魔化しきれない。ゆえに男は、病により声を奪われた薄幸の夫人という設定・・に似つかわしい、舌の上で脆く崩れる砂糖菓子のごとき微笑で応えた。

「あの……不自由なお身体では苦労なさることが多いでしょう? ですから、何か困ったことがあったら、院長さまだけではなく私たちにも頼ってくださいね」

 修道女は食事が乗った盆をルベリクに手渡すと、慌ただしい足取りで去っていった。もしや彼女は、少々の会話の時間さえ惜しまなければならないほど、イディーズに使役されているのだろうか。だとしたら、なんと哀れなのだろう。

 五つになったばかりだろう少女たちを、死刑囚の群れに放り込んでも。息も絶え絶えになってもなお命乞いする彼女らの首に手を添えても、ついぞ芽生えなかった感情。その名も同情は、ルベリクがこの修道院で日々を過ごす最中、いつの間にやら芽生えていた。

 もしも、己が彼女と同じ環境に放り込まれてしまったら。一日どころか一刻が終わる前に、あの孕んだ雌豚でもあるまいに見苦しく弛んだ腹に刃を突き立てるだろう。

 修道女に身をやつした男は、部屋に戻った後も指先に僅か残る体温と肌の硬さに思いを馳せた。かつて弄んだ娘たちの、名も知らぬ修道女とは比べ物にならぬ、肌理細やかで滑らかな肌が懐かしい。

 確かな熱が消え失せ、氷と化すまでの泡沫の時間が、自分の手からもぎ取られて既に一年もの歳月が過ぎ去ってしまった。その間、顔を合わせた数少ない人間の中で、女に分類できるのはたったの二人。肉に埋もれつつあるとはいえ双眸を開いているのに寝言を呟くという、稀ではあるが称賛の誉れには全く値しない特技を披露してくるイディーズ。そして、ルベリクに食事を運んでくる娘だけだった。

『私が神に貞潔を捧げた身だということ、よくよく覚えていてくださいね』

 数日前の午後、手慰みに求めた書物の続きを訊ねた際の見苦しい笑顔が、思い出したくもない、むしろ忘れてしまいたいのに脳裏に蘇ったのは何故なのだろう。

 初夏の陽光によって染みと皺を余すことなく暴かれた頬は、慈愛の聖女を気取った微笑みゆえに、より一層醜さを露呈していて。

 あの女は何故恥じ入りもせずに、己が男の興味を惹くという寝言を呟けたのだろう。特筆すべき美点など何一つ備えぬ凡庸な顔にも、とうに盛りが過ぎて肥満の萌しが刻まれた肉体にも、ルベリクは欠片ほどの興味も抱いていないのに。

 いかにその身を飾ることが戒められる修道女とて、一度か二度は鏡の前に立った経験があるだろう。であるのにありもしない自己の資質に誇りを持ち続けるイディーズの姿は、どんな喜劇にも勝る滑稽さを有しているが、一方で神話に題を取られた悲劇など足元にも及ばぬ憐憫を催させる。

 忠告などされずとも、足元に縋りつかれて乞われても、ルベリクはイディーズにだけは手を出さない。たとえ世界にあの女と自分二人きりになっても、だ。なんせルベリクの欲望は、あの小煩い雌豚と、などと仮定するだけでも萎え、枯れ果ててしまうのだから。

 その仮定とて、自ら思い描いたものではない。殺意を覚える程度では到底言い表せぬ、忌まわしい発言に迂闊にも釣られてしまったからで――瞬き程度の間とはいえ、イディーズの裸体を想像してしまった時。あの瞬間は、あの女を生きながら細切れにして、犬の餌にしたくなった。あれが恐らく、世で言われている生理的な嫌悪感というものだろう。

 腐敗が脳にまで及んだ豚の相手など、蛆さえ忌避するだろう。そもそもルベリクは獣ではないのだから、皿に乗せられるべき刻を遙か逸してしまった肉は食さない。だからこそ自分には、娘が必要なのだ。

 八年前、アランの息子と養女を番わせてみたのは、ほんの気まぐれの暇潰しだった。

 氷雪の精めいた麗しさで名を馳せた母親と瓜二つのジリアン。義兄と並べれば見劣りするし、早々と醜悪な雌豚と化していたとはいえ、華やかな容貌に恵まれたレティーユ。

 彼らの間にならば大層美しい子が産まれただろうし、あの公爵家の娘ならば、王妃とするに何らの不足もない。いずれ王となる以上、ルベリクも生きた女を娶り、子を儲けなければならないのだから、と。

 そしてその事情は、一度は王家が斃された現在においても変わらない。王家の手からルオーゼをもぎ取った不遜の輩を処刑し玉座に坐せば、必ず後継者を求められる。第一王朝や、他の国々の滅びて久しい王朝が辿った末路を回避するために。

 だがルベリクは、子を身籠り育むためのおぞましい脂肪を備えた女たちに触れる気など、一切なかった。ゆえにルベリクは娘を取り戻し、至尊の座に至るまでの援助と引きかえに適当な男に嫁がせ、子を産ませなければならないのである。

 ルオーゼの王位継承法では、庶子姫の夫や息子には、王冠を被る権利を認めている。あの修道女が孕んだと訊かされた際に、娘を母体共々潰させずに正解だった。

 ルベリクは、黒髪の修道女に似た娘を欲していた。ゆえに生まれたのが女児ではあれど、母親には全く似ていない赤子であるとの報を受けて以来、我が子の存在をすっかり忘却してしまっていたのだ。けれど、血を分けた子などもう二度と得られぬだろうから、この際直視に耐える容姿をしているのなら、何でも構わない。自分に似たという娘が、不器量であるはずはないのだが。

 ただし肝心の娘が母親亡き後、前院長の計らいで彼女の世話を見ていたというイディーズの毒気に中てられてしまっていたら。ルベリクは娘を犬に犯させながら、四肢と舌を切断させるだろう。子を儲けるには、子宮があれば事足りる。

 もしくは、娘に孫息子を二人程産ませたら、飢えた囚人たちに息絶えるまで襲わせても良いだろう。あるいは、あえて殺さずに飼い続けていれば、そのうち黒髪の女児を産むかもしれない。娘を始末するのは、それからでも遅くはなかった。

 ――どちらにせよ、娘を得ぬことには、ルベリクの未来は開けない。

 まだ見ぬ娘の幻を眼裏に描きながら、男は手にした盆に視線を落とす。かつて娘も口にしていただろう粗末な汁は、すっかり冷めてしまっていた。


 ◆


 盛りを控えた夏の午後の日差しは、これから成される罪を糾弾するかのごとく苛烈であった。

 年若い修道女は、身体を動かしてなどいないのに吹き出る汗の冷たさに怯えながら、約束の刻限を待つ。

 心臓は今にも張り裂けんばかりに脈打っていて、正直立っているだけでもやっとだった。けれどもここまで来た以上は、志半ばで道を引き返すことももうできない。何より、テレーズはやり遂げなくてはならないのだ。全ての同胞のために。浅はかな嫉妬心を振りかざして、深く傷つけてしまった少女への贖罪にはなりはしないけれど。

 テレーズがもはや院長と呼ぶことすら躊躇われる女の、恐ろしく愚かしい企みに気づいたのは、一月以上前のこと。

『あの、これ、今日の夕食です』

 稀に顔を合わせれば、優雅な微笑を浮かべて食事を受け取ってくれる彼女の手は、女のものにしては骨ばっている。

 ほんの些細な、しかし決して看過できぬ疑念は胸の中で膨らみ、ついに国中を揺るがす大事件と結びついた。イディーズに命じられて足を運んだ俗世でたまたま垣間見た王弟の似顔絵と、彼女・・はあまりにもよく似ていたのである。

 一人で抱えるには重大すぎる事実に三日三晩悩み抜いた末、テレーズは一通の手紙を認めた。自らの側に潜む者について綴った文を。

 それからうら若き修道女は、他の修道女は厭うイディーズの細々とした用足しの任を率先して担い、街に繰り出した。国軍支部を訪れ、適切な助言を求めるために。

 そうして彼女・・の監視に励んだテレーズは、密かにルトに潜入した憲兵団と接触するに至ったのである。

「あなたがテレーズさんですか?」

 雀斑が浮いた顔の青年を連れた、眼鏡の青年の笑顔は親しみやすく、好感が持てるものだった。

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