神様天国
亀吉
盗まれたパンツ
紳士はけして隠れない。
『随分と遅くなった……』
オルドは長い尾をたらし、とぼとぼと家へと続くはずの道を歩く。
見上げればすでに空は薄暗く、橙色に薄青の染みを作っていた。そろそろ夜になるのだ。
街道に並ぶ店も夜の気配を感じたのだろう。山吹色の明かりを灯し帰路を急ぐ神々を誘っている。そして彼らは誘われるまま次から次へと店の中へと入って行く。
当然、オルドも例外なく楽し気な空気に誘われた。街道や店に増え始めた楽し気な声が、オルドに耳と目を向けさせ足を止めさせたのだ。しかしオルドは明るく楽しそうな店を羨ましげに見るだけで、その場を動こうとしない。
『鼻は効かず、帰巣本能も働かない。耳はいい方だが……格好ばかりか。家に帰れもしない』
そう呟いて、オルドは垂れたままの尾をわずかに揺らす。その様子は寂しそうであり、途方に暮れた犬のようだった。普段はとがった三角の耳も、今はすっかりしおれた草のような有様である。事実、オルドはしょぼくれた黒い大きな犬でしかなかった。
黒い毛皮に黒い四本の足、もちろん耳も黒ければ尾も黒い。目だけは深い紫で、月の光を浴びる海に似ている。人間の大人に迫るほどの大きさであるが、四足で地面に立つと見上げるほどしかない。
そう、オルドは黒くて大きな犬の姿をしていた。
しかしオルドは犬ではない。
『いくらこちらに来たばかりとはいえ、こうまで家に帰れないのは……方向音痴というやつなのだろうか』
もしも彼が犬で鼻が効くのならば、こうして街中でポツンと立ち止まることもなかっただろう。
オルドは辺りを見渡し、まぶたを閉じる。
そうして耳をすましても、すでに酔っ払っている神の声や、それを相手にする神の声、帰路を急ぐ神々の足音くらいしか聞こえない。
家の近くにある海の音や木製の古い床を踏むギィギィという音、低く優しい『おかえり』は聞こえなかった。
寂しいと鼻を鳴らすような年齢ではなく、まして無闇に走り回るような気力もない。
オルドはまぶたを開くと、もう一度辺りを見渡し、ひとつ頷く。
『もう一度、道を聞こう』
正しい判断をしたオルドは再び前足をあげた。しかし、オルドは耳をピクリと動かし、すぐに前足を地面に下ろす。今まであった楽しそうな声に混じる迷惑そうなひそひそ声、興味を隠そうとしない明るい声や驚愕と嫌悪の声を耳にとらえたからだ。
「おっとすまない! 動かないでくれたまえ……っ」
男の制止する声と共にそれらの声はオルドのいる場所にだんだん近寄ってくる。
それらの声はまったく速度を落とさずオルド方へと近づく。辺りには神々が溢れているはずなのに、声の発信源が走り続けているからだ。
オルドは不思議に思い、声の発信源を見るために少しだけ前に出る。すると一柱の神とその神を避ける神々がオルドの視界に入った。
その一柱の神は背格好からして男神で、現在の人世で流行っている礼服を着た紳士である。だが、それは首から下のみだ。紳士はその顔に目が見えるようにパンツを被っていた。
『……なんだ?』
他との明らかな差異に、オルドはさらに前進する。
すると紳士のおかれた状況がオルドの目に飛び込んできた。
紳士は手に黒い布切れを握りしめ、ひたすら走っている。そしてオルドがぼんやりしているうちに、猛烈な勢いでオルドの目の前を駆け抜けていく。
「待て、ドロボウ!」
その後方から、これもまた猛烈な勢いで紳士を追いかける者が居た。それは見事な金の尾を複数持つ狐と黒と赤の派手な服装の女だ。女が狐の上に乗り、紳士を追いかけていたのである。彼女たちは紳士とは違った意味でかなり目立った。
だから紳士から随分離れているにも関わらず、彼女たちは通りにあふれる神々のなかにいても馴染むことなく、よく目についたのだ。
『ケーブにコンチャン、か?』
彼女たちをみてオルドは二度首を傾げる。オルドは彼女たちに見覚えがあった。呟くとともに彼女たちを凝視し、自分自身の知る二柱の級友と照合させる。オルドの記憶に間違いがなければ、彼女たちはオルドの級友だ。
『二柱ともさっさと家に帰ったはずでは……?』
小さな謎が解けず、オルドは彼女たちを見つめ続けた。するとオルドと女の目がバチリと合った。その途端、女はオルドに向けて声を張り上げる。
「そいつを捕らえてくれ!」
鬼気迫る顔で女が怒鳴ると、一も二もなくオルドは走り出す。
怒鳴った彼女の服装は攻撃的でもある。その上真っ黒な化粧が非常に強そうだった。それらすべてが重なり合い、彼女はかなり恐ろしく見えたのだ。
彼女らより紳士の近くにいたオルドであったが、紳士の後姿はすでに遠い。それでもオルドはその背を見失わぬように駆ける。
オルドの足は速い。女と狐よりも紳士よりも速かった。紳士の背中はぐんぐんと近づく。しかし、ここは街中だ。障害物が一つもない、神が一柱も歩いていない場所ではない。紳士にはその障害物を利用しない手はなかった。後方にいるオルドを確認すると、紳士は急に神々を縫うようにして走り出す。
オルドが女の声を聞いたように、紳士にも女の声が聞こえていた。紳士は声につられ何度か後方を確認し、オルドの足が速いと理解したのだろう。だからそうして神々が多い場所を走り始めたのである。
逃走経路の障害物として使われた神々は異様な紳士を避けた。そのため、紳士の走る道は勝手に開けて行く。けれど、もともとそこにいた神々は元の場所に戻ろうとする。すると紳士に遅れてその場を駆けることになったオルドには邪魔になったのだ。
オルドは思うように走れない中、それでも懸命に紳士を追う。神々を避け、紳士の背中を見失わぬよう駆ける。
その甲斐あってか、ようやく紳士が神々の切れ間にその身を晒した。ある建物沿いに道を曲がるためだ。オルドはそのまま紳士を追い、その建物沿いに曲がってすぐ足を止めた。
『……ごちゃごちゃしている……』
少し前に自らが方向音痴ではないかと疑ったオルドにとって、そこは絶望だ。
夜になり賑やかになってきた飲食店が並ぶ大通りの裏は、大通りよりもに賑やかだった。小さな飲み屋がところ狭しと並び、飲み屋の隙間を埋めるように伸びる小さな道は細かく枝分かれしていたのだ。
オルドの目には、もう紳士の背中は見えない。
それでも追いかけようとして、オルドは飲み屋の明かりを見つめ足をふらふらさせた。
また迷ってしまうかもしれない。そんな気持ちが透けて見える様子でオルドはその場をうろつく。思い切って小さな道に入るということがオルドにはできなかったのだ。
「オルドッ……! もしかして見失ったかッ……?」
そこにようやく女が息を切らせながら追いついてきた。
『……すまない、細かい道がこわい』
女の問いにオルドは頭と尻尾を下げて、すまなさそうに項垂れる。しょんぼりといった体だ。すっかり暗くなり街灯と店の光であふれた明るい道でも、オルドの姿はたいそう切なそうに見えた。
「細かい……? 何かわからないが、とにかくいないのか。パンツ泥棒」
そんなオルドを慰めるでなく事実だけを確認すると、女は腕を組み入り組んだ道を睨みつける。まるで道が憎いといわんばかりだ。
くわえて女は苛立ったまま、オルドの切ない気持ちを消し飛ばす名称をその口にのせたのだった。
『パンツ……ドロボウ?』
「そう、あの野郎、私のお気に入りのパンツ広げて悦ったんだ、家の前で!」
オルドという名の終末を食らい新しく創世する獣神は、終わった神話の神々が集まる世界のとある街にて、初めてパンツ泥棒に遭遇する。
オルドが生を受けて数千と数百たったある夕暮れの出来事だった。
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