パンツ泥棒の怪1
その住宅地は海と街を一望できる高台にあって、休日の真昼間であっても静かだ。隠れ家的な数時間しか開いていない店や、木の実がたっぷりと入ったペイグルが人気のブレド屋などがあっても、騒がしいことはない。
それは街で一番の高級住宅地といわれていた。
そんな住宅地に続く道をオルドとハーシュはとぼとぼと歩く。
穏やかな日差しが暖かく噂話も聞こえない道は、この場所に帰る家がなくともとても優しい空気をかもし出していた。
けれど二人は疲れたようにうつむいて足を動かす。
高台にある高級住宅地には階段と坂が多いからだ。
「ケーブの家に行こうっつったのは誰だよ……っ」
ハーシュがだるそうに歩を進め、ゴミひとつない暖色の石畳に愚痴を吐き捨てた。
二柱が疲れを隠しもせず坂や階段を上っていたのには理由がある。そこにオルドとコンジの級友であるケーブの屋敷があったからだ。
しかも彼女の屋敷は高級住宅地の中でもかなり高い場所にある。それなのに普段高級住宅地に行くような用事がない二柱は、屋敷がどれほど高い場所にあるかなどよくわかっていなかった。
そのせいでケーブの屋敷までの道のりを甘く見てしまい、こうして愚痴を吐き捨てながら歩くことになったのだ。
『……コンチャンではないか?』
愚痴を吐き捨てたハーシュの後ろを疲れた様子で歩いていたオルドが、顔を上げる。毛が黒一色であるせいか表情のわかりにくいオルドであるが、尻尾や耳は正直だ。長い尻尾は垂れて道を掃除し、三角の耳は心持ちよれていた。
オルドはハーシュよりも疲れていたのだ。
『被害者とその使用人の話を聞くためと、現場検証のためだとコンチャンはいっていた』
それほど疲労をさらけ出しているオルドは、それでも律儀にハーシュに答える。
「くそ……! 行かざるを得ない……っ」
話を聞くのも現場検証も、仕事としてパンツ泥棒を追っているハーシュがしなければならないことだ。それは時間外労働でもなければ賃金以上の仕事というわけでもない。
ただハーシュが考えていたより坂と階段が多かっただけだ。
『その上、ケーブの家に行くついでにもう一人被害者に会って帰りにはペイグルを買うのだろう? 木の実たっぷりのものもいいが、何も入っていない簡素なものに具を挟むのもいいといっていたではないか。オレは乾燥果実と木の実入りがいい』
「ああ、それも美味いよなぁ……この坂さえなけりゃ通い詰めるのにな、あのブレド屋」
しかもハーシュはあらかじめ自分自身へのご褒美も決めていた。
帰ったら心行くまで有名店のペイグルを堪能しよう、食べ比べもいいな……などとオルドに話をしていたのである。
『しかし……愚痴をいいたくなるのもよくわかる』
オルドはため息をつくように声を落とした。それは消え入りそうな小さな声であったのに、静かな住宅街では存外大きく聞こえる。
なんだか悪いことをいったような気分になり、オルドは誤魔化す様に目的地であるケーブの屋敷がある方に顔を向けた。この住宅地より下にある民家や店と違い、寄り集まっている印象はない。けれどその分、目的地がずいぶん遠く感じられた。
『どうして権力者というのは、高いところに住むのだろう』
その様子の違いがオルドに青臭いことまで口に出させる。それもまた気まずく、オルドは困ったように鼻を鳴らす。
「権力者に限らず金持ちってのは好きだからなぁ、高いところが。良い景色が好きだとか聞くがな。よくわかんねぇよ。けど、高いところが好きなおかげでわかったこともある」
『なんだ?』
ハーシュは足を止め、オルドのように高い場所にある家々を眺めた。オルドとは違った風景が見えるのか、ハーシュは首を掻きやれやれといった体で口を開く。
「この街で高い場所といえばここくらいしかねぇからなぁ……金持ちは大体ここに住んでるんだよ。それでパンツ泥棒はここにしか出ない。つまり狙いは金持ちのパンツだ」
ハーシュはオルドに対してではなく、ここに住んでいる神々に対して思うことがあるようだ。それはハーシュの苦手意識なのだろう。オルドにはハーシュの疲れた背に、それが見えた。
オルドはハーシュが足を止めたあと少しだけ歩き、ハーシュの苦手は任せておけというかわりに横に並ぶ。
『……つまり、ここで張っていれば捕まえられるということか?』
オルドが隣に立つと、ハーシュはその凛々しい姿に目を向けた。
ハーシュは顔に一瞬笑みを浮かべたが、すぐにまた呆れた表情に変わる。
ハーシュの知るパンツ泥棒について話さなければならなかったからだ。
「そうなるが……戦えるやつらしくてなぁ……逃走を優先するおかげでまだ捕まえられない。パンツを盗んだ後はまったく隠れていないというのに」
ハーシュではなくても、ほとんどの神が呆れたことだろう。パンツ泥棒はまったく隠れなかった。それどころか、どこでもパンツで覆面をしているためいつも目撃されている。
おかげでパンツを盗んでいるのは同一の神であると事件を知る誰もが、すぐ理解できた。
しかし、いまだに捕まっていない。パンツが覆面の役目をしているということもあるが、それ以上にパンツ泥棒はうまく逃げたからだ。
だから普段はパンツ泥棒を追いかけたりしないカミナの荒事を力でねじ伏せることを生業とする神……ハーシュも、パンツ泥棒を追いかけることになったのである。
『なんと……いや、しかし……そうでもなければあのような目立つ格好で盗みに入ろうなど……』
「まぁなぁ。それにここは金持ちが住まう場所だ。使役もいれば、家を守る神もいる。簡単じゃねぇよ。それなのに何件も盗んでやがる」
『ハーシュが追っているというし他の被害者から話をきくというから、ケーブだけではないと思っていたが……それほどか?』
まだパンツ泥棒の噂は高級住宅地で止まっている。オルドも先日の遭遇が初めてだった。しかし、高級住宅地ではすでに何件かパンツ盗まれている。警戒もしているはずだ。
そのはずなのに、パンツの覆面をした男に毎回逃げられる。これは尋常ならざる事態だ。
「同じ家には二度と盗みに入らねぇみたいだけど、問題はだんだん……」
そこでハーシュはことばを切った。
今までとても静かだった場所に、急にざわざわとした何か他のものの気配が駆け寄って来たからだ。
それはオルドとハーシュが立ち止まった場所から少し離れた屋敷の陰から飛び出した。
「そこの変態捕まえてくれ!」
子供騙しの仕掛け箱とて、これほど斬新な中身は飛び出さない。
目が見えるようにパンツを被った覆面の紳士……まったく風景に溶け込むことのできない男が、屋敷の陰から飛び出したのである。
そいつはオルドたちが捕まえなければならないパンツ泥棒だった。
そのパンツ泥棒を追って声を張り上げたのは、朱色と黒の髪の青年だ。
単体で見れば大変目立つ青年だが、パンツ泥棒の異様は青年を随分目立たぬ存在へと変えたのである。
しかし、オルドもハーシュもパンツ泥棒に気をとられることなく、青年の声をしっかりと耳にした。
『つい最近聞いた覚えのあることばだ……それに見覚えがある紳士もいる』
オルドは目を細めるとパンツ泥棒の道を塞ぐ。
今度こそパンツ泥棒を逃すまい。そんな強い意志が、オルドの疲れを吹っ飛ばした。
四つの足でしっかり地面を踏みしめ、オルドは牙をむく。
「これで捕まえられたら最高だよなぁ。給料あがらねぇかな」
オルドと一緒に道を塞いだハーシュはオルドとは逆にすぐ動けるように、軽く身構えた。
下心丸出しであるが、ハーシュは下心に足元をすくわれたりしない。むしろ下心の分だけ力を入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます