うじむしのわく頃に

糾縄カフク

Why they Fly ?

 これは僕の友人、Y君の話。T美大を出てアニメーターになった彼は、 会社からそう遠く無い、N区のアパートに住んでいた。彼と僕との馴れ初めは、学生時代に僕が作っていたアニメーションが切欠で、趣味があったのか、同年代という事もあったのか、なんだかんだと付き合いが続いている。


 とは言え僕が上京したのはつい最近の出来事で、福島の復興作業を終え、神奈川で期間工、横浜で風俗店員を経てのようやっとの二十三区だった。だから僕と彼が顔を合わせる頃には、ネット上で知り合ってから既に十年近くが経っていて、それはそれで中々に珍しい邂逅のようにも思えた。


 Yは元来の無精にアニメーターの多忙が重なり、ゴミ屋敷と呼んでいい部屋で暮らしていた。当初はルームシェアでもどうかと打診された僕ではあったが、その光景を見るにつけ一笑に付し、クリスマスプレゼント代わりに掃除してあげてから別れてきた程だ。おまけに職人気質特有のよく分からない拘りがあり(ゴミ屋敷の雑然の中にも、彼なりのルールがある)それが余計に物事を面倒なものにしていた。――なお地雷ワードは「そんなんだから彼女ができない」である。


 さて、そんなYの部屋はいつだって汚いし、いつだって鍵が開けっ放しだった。まあこんな部屋に好き好んで泥棒に入る人間も居ないかと思いつつも、シークレットでゲリラ掃除にやってきた日などは、流石のYも驚いたらしい。僕はたまにワインだとかを差し入れがてら、代わりにYからは要らなくなった本などを貰っていた。


 しかして巷で言われる通り、アニメーターの暮らしはお世辞にも楽とは言い難い。三十の頭になったYも、一ヶ月馬車馬のように働いて手取りは十万と少し。それでも一応は有名なアニメ会社であるにはあるのだ(なにせ定期的にカフェやイベントまで催している訳だから)ただ彼の曰く内情は火の車で、外から見えるほど順風満帆とは言い難いらしい。まあアニメを専攻しながらも業界とは無縁となってしまった僕としては、こうして内輪の話を聞けるだけでも十分な酒の肴と言えた。


 そんなこんなである日、ちょうど近所で仕事のあった僕は、寄り道がてらYの家に向かっていた。うまい具合にYがいれば雑談でもすればいいし、いないならいないで、差し入れを置いて帰ればいい。特にこれといった目的も無くYの家に着いた僕は、いつも通り鍵の掛かっていないドアノブに手をかける。




 暗く灯りの無い部屋の、玄関先だけが照らされた室内。だがそこで僕は違和感に気づく。ゴミでは無い蠢く何か。そして異臭。見慣れたゴミ屋敷でない、異物の混じるそこ。


 予てから創作の名義に於いて「蝿」「蛆虫」を頻用していた僕だったが、そもそもは汚いものが大嫌いである。汚物あらばこれを消毒し、青き清浄なる世界を取り戻さんと欲するのが心情である。ゆえにそれらは、僕の眼前に顕現せしそれらは、全くもって許容し難い汚濁の権化であった。


「うおっ?!」

 当然の如く飛び跳ねる僕。小蝿と思しきものどもは、死しているようでありながら小刻みに震えている。いかにYの部屋がゴミ屋敷とはいえ、ここまで酷かった事は一度も無い。次に僕はYの安否が気になり、声を上げて呼ぶ。まさかとは思うが、命を落としているケースなどありはしまいか、と。


「Yー!」

 徐々に視界の馴れてくる1DKの室内には、相変わらず雑然とダンボールが積まれている。だがよく見れば、そこかしこにあるのは蝿、蝿、蝿。これは最早、要するに、恐らくは。アレが孵った後ではないのか。湧いた蛆が、蝿に。過る最悪の予感を胸にしまい込みながら、僕は意を決して進む事にする。無論のこと、土足で。


「はーい」

 しかして。聞こえたのはYの細い声。おお!と僕は声を上げ、友人らしきの無事を言祝ぐ。やがてゆっくりと姿を現すYは、よれたTシャツを着て、生気のない痩せこけた頬を晒していた。


「生きてたの??? っていうか何これ???」

 僕は周囲の惨状を示し、何が起きたのか問いただす。冷静に考えて、自然発生的にこれだけの蟲が発生する訳もない。するとYから返ってきたのは、聞けば納得、されど日常の陰の盲点とも言うべき答えだった。


「いやあ、上で人が死んじゃって」

 ぽりぽりと頭をかくY。ぼろぼろとそこから落ちるのが、フケなのかゴミなのか、はたまた蟲の死骸なのか判別がつかない。


「死んだって……自殺?」

 なるほどYの居室は一階で、二階で死んだ人間の体液が落ちてくるという可能性は十分に考え得る。よく怖い話でもあるだろう、ぽたぽたと血が滴ってきたとか、そういう系の。


「いやあ、それが病死みたいで」

 しかしてYが言うには、ここの所ずっと続いていた上階からの咳が、ある日突然ぴたりと止み、どうやらその止んだタイミングで居住者が他界していたらしい。初秋とは言え残暑厳しい東京の事、腐敗の結果はすぐに訪れた。


「ははは。腐った体液がですね。こう天井から滲み出てきて。風呂場もベッドも、蛆虫が」

 笑いながら話すYの目は焦点があっておらず、最早正気を失っているのではと僕は不安になる。


「で、蛆殺しを買って。見て下さいこれ。ダンボール一杯の、蛆殺し。全然余っちゃいましたよ」

 このご時世に蛆殺しなんて言葉を聞くとも思わない僕。一斗缶を示されても、引きつった表情で返す他できない。


「でもほっとくと蛆虫が蝿になるんです。外からも蝿が入ってくるから。エアコンの間からも蝿が。ああ電子ジャーも冷蔵庫も、全部」

 ここまで来ると人間の暮らしていい環境ではあり得ない。いったい仕事はどうしたんだと僕は問う。


「いやあ、最近、出勤も遅れちゃって。制作の人には怒られるんですけど」

「いやあじゃなくて、この状況を説明したら分かってくれるでしょ?」


 今日日蛆虫に囲まれて暮らす人間なんて、日本ではそういないだろう。なにせ覚せい剤の幻覚作用とて、蛆虫を見たことのない人間が増えた結果、白いモヤモヤに変わったというのだから。


「あー……。言ったんですけどね。上の階で人が死んだって」

「死んだだけじゃ分からんでしょ! 蛆虫が沸いて降ってきたって言えば、制作さんだって分かってくれるでしょう!」


「ああ……そうですよね。あはは」

 疲れすらも通り越して力なく笑い続けるYが流石に居たたまれなくなり、僕は手を引くと「外へ出るぞ」と促す。


「え、だってまだ蛆虫が……」

「いいから、飯食うぞ」

 差し入れのワインを床に置き、さしあたってはと駅前のファミレスまで僕たちは移動する。




「で、どうするんだ? あんなとこ、住めないだろ。賠償は?」

「いや、まだ何も。仕事も忙しいし……」


 適当にメニューを選ぶ僕。仕事の都合で体重を増やせなかった僕は、軽めのデザートを、Yにはなるべくカロリーのある、ハンバーグの定食を頼む。


「蛆虫の被害は不動産屋の責任なんだから、少なくとも使えなくなった家電の賠償と、引っ越しの為のお金は工面して貰うべきだよ」

「そうですね……あ、いただきます」


 目の前でもぐもぐと肉を頬張るY。同い年とは思えないほどに疲れ切っているのが痛ましい。


「忙しいなら、新居俺が探してくるぞ。会社の新住所、どこだっけ?」

 ちょうどYの会社は、その頃移転したばかりだった。


「ああ……K寺ですね。その辺りで調べて貰えると」

「分かった。とりあえず来月には時間作るから。Yも持ちこたえろよ」


 僕も僕でシェアハウスに住んでいた手前、泊まれとは言えなかった。なによりそれでは、会社との距離が余りに離れてしまう。


「はい……まあ馴れましたし。ある程度は駆除しましたし……〆切も迫ってるんですよね……新作の」

 ぼそぼそと幽鬼の如く喋るY。元からモヤシじみてはいたが、今では最早枯れる寸前といっていい。


「しかしまあ……俺には分からんよ。そんな給料で、それもこんな一大事に顧みて貰えない会社に、尽くす理由が」


「いや……僕ももう分からないんですよね……もうちょっとは続けたいと思うんですが……そろそろ限界なのかも知れないし」


 Yの実家はS岡だった。引っ越すか帰るか、ちょっと考えますと答えたYの顔は、妙に寂しげに見えた。


 


 それから三ヶ月。ようやっと時間を作り、いくつかの不動産屋を見繕った僕は

Yのラインにメッセージを送った。


「お久しぶり。今どう?」

「あ、◯◯さん。何とか無事です」

 返ってくるのは無難とも言える返事。文章にすると感情が見えないぶん、それなりに大丈夫そうに見えてしまうのが怖い。


「不動産屋、見てきた」

「ほんとですか? ……あ、すいません」

 しかして反応は芳しくない。やはり何かあったのだろうか。


「いいのいいの。今度内覧行こう。駐輪場付きのとこ、何件かあった」

「ああ、いえ。僕、もう静岡に帰ってきちゃってて」

 という疑念もすぐに吹き飛ぶ、明瞭な答え。なるほどそれは仕方も無いなと内心で僕は頷く。


「え? 会社は?」

「辞めました」

 分かりきった答えを敢えて問い、僕は短く「お疲れ様」と返す。


「はい。引越し代とかは不動産屋で負担してくれたので、暫く実家で仕事手伝いながら、なんとかします」


「うん。一応さ。俺も色々仕事はしてきてるから。何かあったら聞いてね。多分、一本道を歩いてきた人たちよりは、多少マトモな返事ができると思う」


 なんとなく、この結末を予感していた僕は「はい、ありがとうございます」と告げるYのメッセージに、笑顔の顔文字で結ぶ。


 少なくともYは、これでアニメーターという一つの夢を諦めたのだ。僕が自主制作というアニメの道を捨てたように。無責任に引き戻す真似はできない。本人は本人なりに極限の所まで頑張って、それで糸が切れたのだから、その意志は尊重されなければならない。たとえ外因がなんであったとて、だ。


 既読のついたラインの画面を閉じ、スマホを握って僕は空を見上げる。

 果たして怖いのはなんだろうか。人が死に、蛆虫が沸いたというのは結果に過ぎない。そこに至る過程、至った後の顛末。全ての恐怖はそこにこそ在るように思う。




 人が孤独に死に、誰にも看取られない社会。

 死体が腐り、血肉が滴り落ちたとて労りの無い企業。

 馬車馬の様に働いたとて、満足に得られない給金。


 全てはソレ、そのものが恐怖ではないだろうか。

 私たちは、怖い話より怖い社会に、とうの昔から生きているのかも知れない。

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