第2話 繋ぎ合わされたもの

 その三日後、木蘭もくらんはうきうきした気分で自室の敷居を跨いだ。手習いのための反故紙を多く入手することができたからだった。

 彼女は入宮にゅうきゅう時より書の才を見せ、今はこの能力を生かし、折々に代筆などを請け負っている。夕餉ゆうげの後は書の稽古に当てるつもりだった。そのために、今日の仕事を精励したのである。冰心は宿直で、深更しんこうにならないと戻ってこない。のびのびと手習いをするには絶好の機会だった。炭火を大いにおこして外から帰ってきた身体のこわばりをほぐし、手を温めてから愛用の文房具を広げる。


「さあて、次はどの紙を…」

 何枚か書きつぶして真黒にした後で、何気なく取った一枚の古い紙に眼を通し、木蘭は固まった。

「……これは」

 ある一人の宦官の名。容貌。家族構成。入宮の年月。池にいたおおよその日時。周囲と遺体の状況。身に着けていたもの――。


 燭を引き寄せ、彼女は貪るようにそれを読む。曾祖父に焦がれて身投げした、かの宦官を調査した書類だった。年月が経って廃棄され、反故ほごとして扱われたものが木蘭にまで回ってきたのだろう。さらに、彼女はそのなかのある図に眼が釘付けとなった。池から引き揚げられた宦官の握りしめていたものが描かれている。それは玉。半月型で中心がくりぬかれた、璧を二つに割った形の――。


 震える手で懐からあの玉を出し、その図に重ね合わせる。自分の持つ玉と、図に描かれた玉と、ぴたりと合って全き円となる。おそらく、もとの実物を原寸大に描きとったものと見える。


「……あ」


 窓外からの冷気ではなく、身体の内からの寒気に襲われた木蘭はふらりと立ち上がり、半ば泳ぐかのように部屋を横切った。喉がからからに乾いて水が欲しかったのだ。だが上手く歩けず、冰心ひょうしんの寝床脇の小卓にぶつかり、その上に載っていた螺鈿細工の針箱を払い落としてしまった。


 ――いけない、冰心が常々『中を見ないで』『触らないで』と頼んでいたじゃない。怒られるわ…。


 そう思う間に、箱は床に当たって蓋が外れ、針山や糸、指ぬきなどが飛び散った。さらににしきの袋から飛び出した中身が、からんと音を立てて転がる。慌てて拾い上げた木蘭は、眼を疑った。それも、やはり玉。しかもあの図とまったく同じ、木蘭が持つものと一対になる。璧が半分に断ち切られていて――。

 木蘭は首を横に何度も振り、のろのろと二つの玉を合わせた。隙間なく合わさり、完全な形となる。

 がたり、と戸口が鳴って人影が立つ。我に返った木蘭は顔を引きつらせていたが、それは相手も同じだった。


「――冰心」

 菩薩のようにいつも穏やかで、秀麗な面差しはだがしかし、いまは阿修羅のようになっていた。

「どうして…!開けないで、見ないでとあれほど…!」

 まなじりをつり上げた同輩に、木蘭は震えあがった。しかし、冰心は木蘭の手元によくよく目を凝らしたようだった。阿修羅が変じて、今度は狂恋の形相となる。


「ああ!ここにいらしたとは……何故、今日の今日まで気が付かなかったのか。あなたが私の…」

 女官は一声、高笑いを上げた。

「何度でもこの宮中に生まれ変わり、あの方を待とうという宿願がついに果たされるとは…!天もひとりの哀れな、よるべなき宦者かんじゃの魂をよみされたか!こんな近くに我が君がいらしたとは!」

 木蘭は混乱して、何が何だかわからない。だが、冰心は彼女を部屋の隅に追い詰め、怒りに歪んでもなお美しい顔を突き出した。

「なぜ私をお捨てになられた!永遠とわの誓いは偽りであったのか!歓を尽くし寝食を共にしていながら、なぜ塵芥ちりあくたのようにお捨てになられた……憎らしい、憎んでも余りある我が君…」

 万力のような力で璧の片割れをもぎ取り、木蘭を抱きすくめるとその口腔に自分の舌を押し込む。その口づけはいつぞやの戯れとは違う、濃厚なものだった。

「――!」

 木蘭はもがき、ありったけの力で相手を突き飛ばした。彼女と冰心の璧、二つの玉がともに床に転がる。冰心は結い上げた髷も崩れ、踏み潰されて断末魔となった虫のように、木蘭を上目遣いに見ながら床を後ずさりに這った。そして戸口にまで至ると、ぱっと身を翻して暗闇のなかに消えた。


「冰心! 冰心!」

 木蘭が追って外に出ると、既に空から白いものが舞い落ち始めていた。冰心は哄笑こうしょうをのこしながら、遥か遠くに走っていく。

 木蘭の大声に気が付いたのか、見回りの宦官の一団が駆け寄ってきた。その一人が玉芝ぎょくしであることにほっとした木蘭は、彼女を抱きとめた若い宦官に、うわ言のように繰り返した。

「彼が……いえ、彼女があの池に…」


 

 ようやく衛士や宦官、そして木蘭が池にたどり着いたとき、すでに美貌の女官は、氷に半ば閉ざされた水面に浮かんでいた。その顔は穏やかで、死の苦しみとも無縁そうだった。

「…この寒さのなか池に落ちたんだ、ひとたまりもあるまい」

 玉芝のつぶやきに、木蘭は頷くこともできず、ただ涙を流して震えていた。


****

 

 それからどれだけの時が経ったのか、池の氷もすっかり緩んだある昼下がり、若い女官と宦官が池のほとりに佇んでいた。


 ――酒令の罰に刻んだ詩句が、綺麗に消えてしまったんだよ、あれほど苦労したのにさ。不思議だとは思わないか?


 玉芝が慌てた様子で木蘭のもとへ告げに来たが、彼女はもうそれを奇異なこととはみなさなかった。


  むし野中やちゅう双鳧そうふるとも

  雲間うんかん別鶴べっかくとなるを願わず(注1)


 ――いっそ野原にあそぶつがいのとなるとも、つれあいと別れて雲間に飛ぶ鶴のようにはなりたくない。


 あのとき樹に刻んだ詩句を、木蘭はそらんじた。きっと彼女が玉を失った代わりに、この句を持って行ってしまったのだろう。


 そしていま、木蘭と玉芝の手のひらには、一対となる玉がそれぞれ載せられている。

「…もうこれで、彼が想い人を探してさ迷うこともないだろう」

「でも、想う相手は、彼を想い返すかしら?」

「さあ?でも情愛は、対価でやり取りするものではないから…想い返すも想い返さぬも、その人の自由だろう」

「彼の場合、万分の一でも、想う人が振り返ってくれればいいのにね」

「詩句だけではなくこの玉も持っていけば、きっと大丈夫だよ。振り返って、抱きしめるくらいはしてくれるさ」


 私もそう思う、木蘭は呟いた。曾祖父は、恋人を捨てたことを後悔する時もあっただろうか。情愛と裏切りの証しを、生涯持ち続けた廃太子――。


 二人はかがみ込んで、それぞれの玉をぴたりと合わせた状態で水面にそっと乗せた。水はたちまち璧を飲み込み、池の底にさらっていく。

 玉芝は水面を眺めたまま、囁くように問うた。

「なあ、木蘭」

「何?」

「もし良かったら、そのうち定婚しないか?皆には内緒で」

 木蘭は顔を赤くして俯き、ぼそぼそとつぶやいた。

「…考えておくわ」


 ばさりと音を立てて、池の端から一羽の鴨が飛び立った。


                           【 了 】


ここまで読んで下さってありがとうございました。

なお、同じ唐の大明宮を舞台とし、女官を主人公とした作品として、短編『螺鈿の鳥』があります。あわせてご一読賜れば幸甚です。


https://kakuyomu.jp/works/1177354054883003957


 


*****


 注1「寧作野中双鳧、不願雲間之別鶴」

 文中の詩句の出典は、南朝・宋の鮑照。読み下しと和訳は『漢詩名句辞典』(大修館書店、一九八〇年)に拠る。

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雲間の別鶴 結城かおる @blueonion

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