第2話 繋ぎ合わされたもの
その三日後、
彼女は
「さあて、次はどの紙を…」
何枚か書きつぶして真黒にした後で、何気なく取った一枚の古い紙に眼を通し、木蘭は固まった。
「……これは」
ある一人の宦官の名。容貌。家族構成。入宮の年月。池にいたおおよその日時。周囲と遺体の状況。身に着けていたもの――。
燭を引き寄せ、彼女は貪るようにそれを読む。曾祖父に焦がれて身投げした、かの宦官を調査した書類だった。年月が経って廃棄され、
震える手で懐からあの玉を出し、その図に重ね合わせる。自分の持つ玉と、図に描かれた玉と、ぴたりと合って全き円となる。おそらく、もとの実物を原寸大に描きとったものと見える。
「……あ」
窓外からの冷気ではなく、身体の内からの寒気に襲われた木蘭はふらりと立ち上がり、半ば泳ぐかのように部屋を横切った。喉がからからに乾いて水が欲しかったのだ。だが上手く歩けず、
――いけない、冰心が常々『中を見ないで』『触らないで』と頼んでいたじゃない。怒られるわ…。
そう思う間に、箱は床に当たって蓋が外れ、針山や糸、指ぬきなどが飛び散った。さらに
木蘭は首を横に何度も振り、のろのろと二つの玉を合わせた。隙間なく合わさり、完全な形となる。
がたり、と戸口が鳴って人影が立つ。我に返った木蘭は顔を引きつらせていたが、それは相手も同じだった。
「――冰心」
菩薩のようにいつも穏やかで、秀麗な面差しはだがしかし、いまは阿修羅のようになっていた。
「どうして…!開けないで、見ないでとあれほど…!」
「ああ!ここにいらしたとは……何故、今日の今日まで気が付かなかったのか。あなたが私の…」
女官は一声、高笑いを上げた。
「何度でもこの宮中に生まれ変わり、あの方を待とうという宿願がついに果たされるとは…!天もひとりの哀れな、よるべなき
木蘭は混乱して、何が何だかわからない。だが、冰心は彼女を部屋の隅に追い詰め、怒りに歪んでもなお美しい顔を突き出した。
「なぜ私をお捨てになられた!
万力のような力で璧の片割れをもぎ取り、木蘭を抱きすくめるとその口腔に自分の舌を押し込む。その口づけはいつぞやの戯れとは違う、濃厚なものだった。
「――!」
木蘭はもがき、ありったけの力で相手を突き飛ばした。彼女と冰心の璧、二つの玉がともに床に転がる。冰心は結い上げた髷も崩れ、踏み潰されて断末魔となった虫のように、木蘭を上目遣いに見ながら床を後ずさりに這った。そして戸口にまで至ると、ぱっと身を翻して暗闇のなかに消えた。
「冰心! 冰心!」
木蘭が追って外に出ると、既に空から白いものが舞い落ち始めていた。冰心は
木蘭の大声に気が付いたのか、見回りの宦官の一団が駆け寄ってきた。その一人が
「彼が……いえ、彼女があの池に…」
ようやく衛士や宦官、そして木蘭が池にたどり着いたとき、すでに美貌の女官は、氷に半ば閉ざされた水面に浮かんでいた。その顔は穏やかで、死の苦しみとも無縁そうだった。
「…この寒さのなか池に落ちたんだ、ひとたまりもあるまい」
玉芝のつぶやきに、木蘭は頷くこともできず、ただ涙を流して震えていた。
****
それからどれだけの時が経ったのか、池の氷もすっかり緩んだある昼下がり、若い女官と宦官が池のほとりに佇んでいた。
――酒令の罰に刻んだ詩句が、綺麗に消えてしまったんだよ、あれほど苦労したのにさ。不思議だとは思わないか?
玉芝が慌てた様子で木蘭のもとへ告げに来たが、彼女はもうそれを奇異なこととはみなさなかった。
――いっそ野原にあそぶつがいのかもとなるとも、つれあいと別れて雲間に飛ぶ鶴のようにはなりたくない。
あのとき樹に刻んだ詩句を、木蘭は
そしていま、木蘭と玉芝の手のひらには、一対となる玉がそれぞれ載せられている。
「…もうこれで、彼が想い人を探してさ迷うこともないだろう」
「でも、想う相手は、彼を想い返すかしら?」
「さあ?でも情愛は、対価でやり取りするものではないから…想い返すも想い返さぬも、その人の自由だろう」
「彼の場合、万分の一でも、想う人が振り返ってくれればいいのにね」
「詩句だけではなくこの玉も持っていけば、きっと大丈夫だよ。振り返って、抱きしめるくらいはしてくれるさ」
私もそう思う、木蘭は呟いた。曾祖父は、恋人を捨てたことを後悔する時もあっただろうか。情愛と裏切りの証しを、生涯持ち続けた廃太子――。
二人はかがみ込んで、それぞれの玉をぴたりと合わせた状態で水面にそっと乗せた。水はたちまち璧を飲み込み、池の底にさらっていく。
玉芝は水面を眺めたまま、囁くように問うた。
「なあ、木蘭」
「何?」
「もし良かったら、そのうち定婚しないか?皆には内緒で」
木蘭は顔を赤くして俯き、ぼそぼそとつぶやいた。
「…考えておくわ」
ばさりと音を立てて、池の端から一羽の鴨が飛び立った。
【 了 】
ここまで読んで下さってありがとうございました。
なお、同じ唐の大明宮を舞台とし、女官を主人公とした作品として、短編『螺鈿の鳥』があります。あわせてご一読賜れば幸甚です。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054883003957
*****
注1「寧作野中双鳧、不願雲間之別鶴」
文中の詩句の出典は、南朝・宋の鮑照。読み下しと和訳は『漢詩名句辞典』(大修館書店、一九八〇年)に拠る。
雲間の別鶴 結城かおる @blueonion
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