雲間の別鶴

結城かおる

第1話 女官の手習い

 大唐は大明宮だいめいきゅうの一角に、青柳せいりゅうに囲まれ陰鬱な緑に沈む、小さな池がある。広々と大きな太掖池たいえきちとは対照的に、宮中でもこの池の存在を知る者はほとんどない。


「……何だか薄気味悪いわね」

「そりゃ、そうでもなければ酒令しゅれいの罰にはならないだろう?」


 ほとりに植わった柳のもと、ひそひそ話をしながら肩を寄せ合うようにしているのは、一組のごく若い宦官と女官だった。宦官かんがんの名は玉芝ぎょくし女官じょかんの名は木蘭もくらんといい、ともに幼いころに入宮にゅうきゅうして兄妹のように育ってきた、気の置けない仲である。

 二人が昼間から顔を赤くし、足取りが若干心もとないのには理由わけがある。彼等は太平たいへいこうしゅの宴に侍して酒令への参加を命じられ、ともに負けてしたたか罰杯ばっぱいを飲まされたあげく、罰として詩を一句、この池の柳の幹に彫り付けてくるよう課せられたのである。


 ――後ほど人を遣わして検分させるゆえ、しかと刻んでまいれ。


 母親の武后ぶこうとよく似た面立ちで、朱の匂う唇を歪めてそう念押しした公主の、楽し気な表情が忘れられない。

「なぜ公主さまはわざわざこの池を?」

 玉芝は眉を挙げた。

「知らないのか?俺は内侍高品ないじこうひんの張さまから聞いたことがあるんだが――」


 何でも、かつて太宗の皇太子であった李承乾りしょうけんには、情を交わした若い美貌の宦官がいたのだが、そのうち太常楽童たいじょうがくどうしょうしんに寵愛を移した。太子に捨てられた宦官は世をはかなんで下賜の玉璧ぎょくへきを握りしめ、愛する人と逍遥し語らったこの池に身を投げたという。承乾ものちに太子を廃されて没し、いまは父帝の昭陵しょうりょう陪葬ばいそうされている。


「恐れ多くも、陛下のおわす宮城の池をけがしたというので、宦官の家族も縁坐えんざで殺されてしまったんだよ」

 木蘭はぶるっと身を震わせた。

「恐ろしいわ……。でも、宦官といい楽童といい、太子さまはもちろん殿方なのに男性と情を交わされていたの?あ、宦官は男性というのとは、ちょっと違うけど」

 日頃、先輩の宦官からいろいろな知識を仕入れては木蘭に聞かせている玉芝は、肩をすくめた。

「男同士でもそういうことだってあるんだよ。男女にだけある関係ではないらしい。だって、宦官も女官と夫婦約束を交わしたりするじゃないか、秘密にね」

「そうなの?私達も、あなた方と?」

 木蘭は眼を見開いた。

「ええと、……でもどうやって?」

 木蘭とて、耳年増の女官から男女関係などの知識を断片的に聞いてはいるが、宦官と女官がどのようにして夫婦の関係を結ぶのか、想像もできない。

「さあね。でもどうだい?俺達もそのうち夫婦になろうか?ずっと一緒にいられるし」

 からかいに満ちた囁きが、女官の耳をくすぐる。彼女は宦官の頬をつまんで思い切りひねった。

「つまらないこと言ってないで、早く半句でもひねり出して、そこの幹に刻んでよ。公主さまに復命しなくてはならないのに、ぐずぐずしていると日が暮れてしまうわ」


 

 その夜、仕事を終えた木蘭が居室に戻ると、相部屋の冰心ひょうしんが灯りを頼りに繕い物をしていた。せいぜい人並みの容貌しか持ち合わせていない木蘭とは対照的に、冰心はといえば、宦官も女官も、宮中の誰もがすれ違いざまに振り返るほど、ろうたけて美しかった。いま彼女は黒々としたまげを傾け、長いまつ毛を伏せ、細い指を優雅に動かしている。

「熱心ね、昼間も針仕事なのに」

 声をかけられて顔を上げた冰心は、相好を崩した。彼女は宮中では刺繍を職分としており、せっかくの芙蓉ふようのごときおもてを一日中俯けて仕事に励んでいるのだが、周囲はそれを惜しみこそすれ、本人は全く意に介していない。彼女は螺鈿の細工が施された針箱に手を伸ばしたが、仕事に誇りを持っているためか、これを木蘭にすら触らせなかった。

「随分遅かったのね。御用が長引いたの?」

「ううん。参内なさっていた太平公主さまの酒令で罰を受けてしまったので、隅の池まで行ったのよ。ほら、あの昼間でも薄気味悪い池。知ってる?玉芝がぐずぐずして詩をひねり出せなかったものだから、結局古人の句に頼ることになって、馬鹿みたい。あれでは公主さまからお叱りを受けるわ。おまけに、遅れたものだから夕方の仕事にしわ寄せがいってしまって…」

 冰心は繕い物を膝の上に置き、優しく、しかし咎めるような目つきをした。


「あの池が気持ち悪い?…そうかしら?柳の緑が水面に映えて、美しい池だと思うけど」

「えっ……冰心はそう思うの?美しいって?」

「だって、報われぬ愛に破れた者が、最期に選んだ死に場所でしょう。悪く言っては、可哀そうよ」

「そ、そう?」

 冰心は頷き、濡れたような瞳で木蘭をじっと見つめた。そのようにされると、木蘭はいつもどきどきしてしまう。冰心はその相貌と温和な性格から後輩女官たちの憧れの的で、同室の木蘭は羨ましがられているのだが、木蘭自身もその羨望をくすぐったくも誇らしく受け止めていた。彼女は照れを隠すために視線をそらし、やや離れたとうの上で両脚を抱え、おとがいを載せた。


「愛だの、恋だの、わからない。……どうせ私達は、聖上からのお情けでも頂かないかぎり、男女の情愛には縁がないのだから。考えてもわからないし、考えすぎても虚しいだけ…」

「虚しくもないし、簡単なことだわ」


 いつの間に木蘭の前に来たのか、冰心が跪いて彼女を見上げ、ふっと笑うとしなやかに腕を伸ばし、相手の両頬を手で挟んだ。そして顔を近づけたかと思うと、唇を木蘭の唇にごく軽く触れ合わせ、さっと離れて立ち上がった。

「例えば、こういうことよ。言葉でも心でもいいし、いまのような動作でもいいの。思ったよりも簡単でしょう?書の手習いのように」


 不意打ちを食らった鳩のように目をしばたたかせる木蘭に、美貌の女官は嫣然と微笑みかけると、繕い物を済ませたのか、針箱に道具をしまう。

 木蘭はそんな彼女をぽかんと見つめ、口を手の甲で拭ってから眼をも擦ったが、それは一瞬相手が女でもなく、さりとて男でもない、不思議な生き物に見えたからだった。


 冰心が使っている灯りに、色鮮やかな蛾が飛び込んで、じゅっと燃え尽きた。


****


 皇宮の瑠璃瓦るりがわらからは氷柱が下がり、池の氷も次第に厚くなっていく。例年よりもさらに寒さの厳しい冬で、長安の都も人々も、何もかもが凍えていた。

「私にお客?この寒い日に?」

 木蘭は首をかしげたが、自分の親族だということで、厚い綿入れの上着を羽織って、大明宮の裏門にまで出かけて行った。


「ああ、お嬢さま…」


 赤子の時分に両親を亡くした木蘭を入宮まで育てた、母の乳母だった。面会に使われる小さな房間で、腰の曲がった老女は木蘭の手をとり、さめざめと涙を流した。

「お小さいときに宮中に入られて幾星霜、ここまで無事に生い立たれたとは…」

 この乳母は、在地の洛陽からわざわざ長安まで木蘭を訪ねてきてくれたという。養われていたのはごく幼い頃で乳母の記憶も朧気おぼろげになりかけていたとはいえ、木蘭はその真心に鼻の奥がつん、とした。

「で、御用の向きは?乳母や」


 乳母は須臾しゅゆの間ためらっていたようだったが、やがて懐から手巾しゅきんを取り出した。色の褪せたそれの中から、一枚の白玉が現れる。細工はまれに見る精緻でなものであったが、どうやら一つの璧を二つに割ったらしく、割り口はすぱりと断ち切られたまま、研磨もしていない。


「これをお嬢さまに……曾祖父ひいおじいさまのお形見の品ですよ」

「曾祖父さまの?どなた?」

 木蘭は怪訝な顔をした。父が下級官僚であったことは知っていたが、曾祖父のことなど、いままで聞いたこともない。

「はい、お嬢さまはもはや嫦娥じょうがのごとき別世界の方。ご出世の障りにならぬとも限らないため、死ぬまで黙っていようと思いましたが、私も寿命がいつまで持つかわかりませぬゆえ、真実をお知らせいたします」

 乳母は一つ咳払いをして、木蘭を見据えた。


「あなた様の母方の祖父上おじいさま鄂州別駕がくしゅうべつがさま、そして曾祖父上ひいおじいさま恒山王こうざんおうさま――つまり、太宗さまの廃された太子であらせられます」


 木蘭は呆然として、手にした玉璧を眺めた。そして、昼でもなお薄暗い陰鬱な池を思い出した。まさか曾祖父が廃太子承乾であったとは――あの池に沈んだ宦官の想い人が、自分の曾祖父であったとは!


「恒山王さまは生涯この玉を大切になさり、亡くなる際に鄂州別駕がくしゅうべつがさまにお譲りになられました。しかし別駕さまは、この玉を顧みることもなく、そして時は巡り人も巡り、玉も転々として今はこうしてあなた様のもとへ…」


 木蘭は玉をぎゅっと握りしめ、乳母に向かって微笑んだ。

「教えてくれてありがとう。たとえお目にかかったことがなくても、曾祖父の大切にしたものなら、私が守り伝えていけばいいのね。これも何かの縁でしょう。ああ、心配しないで、恒山王の曾孫だということは、黙っておくから」

 すでにおくりなされた故人とはいえ、そのような者の係累が女官になっていると、いろいろ面倒が生じかねない。木蘭もやはり宮中の人間、乳母の意を正しく受け取ったのである。

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