光陰矢の如し。

 デヴィッド・ボウイは、ボードレールから引用して青春の時間をタバコに例えたという。でも僕は、タバコでは遅すぎると思った。僕らの輝きは、ゆっくりと階段を下りていくようで、それでいて砲弾のよりも速く過ぎ去ってしまう。

 六月の二十四日、大安の日の土曜日。それが結婚式の当日だった。

 式場は、県庁前の大通りにある。数年前にできたゴシック建築の教会のような建物で、それでいてコンクリート造りがモダンさを思わせる不思議な場所だった。尖塔のてっぺんには大きな鐘があり、それが式の最後に鳴り響くらしい。ロマンチックなものだ。

 僕は新婦側の家族として先に式場にきていた。奏純たちとは、あとで合流する予定だ。

 式場の入り口では、スーツ姿のスタッフが出迎えてくれた。彼らが言うには、もう姉は着替えを終えているとの話だった。控え室でウェディングドレスを身にまとって待っている、と。あとは父がエスコートして、新郎のもとまで連れて行くだけだという。

 まったく姉さんは、いつだって行き急いでいる。結婚式の当日だって、家族よりも先に出て行ってしまったのだから。姉さんはいつだって砲弾よりも速く駆け抜けていってしまう。僕のずっと前を、悠然と、気軽に。


 新婦の控え室は、ワードローブとドレスルームを合わせたような場所だった。

 重厚なオーク材でできた扉を開くと、そこには光の降り注ぐ部屋があった。白いレースのカーテンと、そこから漏れ出る光たち。そして、そんなスポットライトを一身に浴びて鏡の前に立つ女性がいた。姉さんだった。

 姉さんが振り返ったとき、僕は心臓をつままれたような思いに駆られた。白いドレスをゆらめかせ、ヘッドドレスの下から顔を覗かせてる姉さん。その瞳は、僕が見たことない初めての瞳だった。

「あらあら、似合ってるじゃないの」

 母さんが途端に大声を上げて、姉さんに駆け寄った。

 父さんは何も口にしなかったけれど、表情だけですべてを物語っていたように思える。目頭を軽く押さえてから、母の後を追っていった。

 いっぽうで僕は黙って立ち尽くしていた。呆然と、口を堅くつぐんで。指先は震えて、目は姉さんの瞳を凝視し続けていた。お世辞なしに、文句なしに、ただ心の思うままに、このときの姉さんは綺麗だと思った。

 そうしていると姉さんと目があった。姉は僕に微笑みかけて、名前を呼んだ。

「雄貴、来てくれたんだ」

「……うん」

 僕はただそれだけ答えて、一歩も動かなかった。動けなかった。

 久しぶりに会った姉さんは綺麗で、あのときのままで、いつもと変わらなかった。でも……もうすぐ、変わってしまう。そう思うと、どうにも一歩踏み出せなかった。背中を後押しする何かがなければ、どうにもできなかった。

「久しぶりだね」

「うん……」

「円たちと演奏するって、聞いたよ。雄貴ってば、東京でミュージシャンやってるんでしょ? 楽しみにしてるね」

「うん……。姉さんの好きな曲、やるつもりだから」

 姉さんはコクリとうなずいて、それからまた両親との話に戻った。これから三人で新郎の家族に挨拶に行くのだろう。

 ――僕には、それはできなかった。

 僕は踵を返すと、奏純のもとへ戻ろうと思った。姉さんの視線を感じたけれど、僕は軽く手を振るだけだった。後ろを向いたまま、姉さんとは目も合わせずに。


 奏純たちはロビーの前で待っていた。受付が騒がしくなってくるなか、三人は楽器片手にパンツスタイルのスーツ姿で立ち尽くしていた。もちろんドラムセットは手に持ってなかったけれど、そこには円さんのリッケンバッカー・4001、奏純のレスポールと僕のリヴィエラがあった。

 四人ともスーツのうえに、小脇にはモッズコートを抱えていた。さすがにこの季節には暑いが、でも必要だと思って僕が持ってくるよう呼びかけたのだ。

「遅いわよ。はいこれ」

 奏純が投げやりに言って、僕のリヴィエラとモッズコートを差し出した。彼女は少し怒り気味だ。姉のせいだろう。

「舞結はどうだった? ウェディングドレスは? やっぱりよかったか?」

 一方で相変わらず冷静な円さんは、今日はバシッとパンツスーツで決めていた。背の高い彼女がスーツを着ると様になる。ユニオンジャックカラーのラペルピンが三色に輝いていて、若い頃のピート・タウンゼンドを彷彿とさせた。

「ウェディングドレスは女性の憧れっすもんね。いやぁ、舞結さんがどうなるか楽しみっすよ」

 そう言う保志さんは、ボタンを緩く留めたチャコールのスーツ。小脇にはモッズコートとドラムスティックを抱えていた。

「はい。姉さん、綺麗でしたよ。あんまり言うと奏純が怒るんで、これだけにしときますけど。でも、ちょっと残念に思えるぐらい綺麗でした」

「残念、ね。それは楽しみだ」

 苦笑しながらもうなずく円さん。

 親友として、心の底からうれしがっているようだった。僕もそう思えたし、姉さんの結婚を祝福したい気持ちでいっぱいだった。

 だけど――

 僕の頭の中には、一つのヴィジョンが浮かんでいた。


 それは、ある映画の一節。

 映画、『卒業』の一幕。中学生のころ、映画にハマっていた姉さんが見せてくれた映画だ。

 そのラストシーンは、映画のストーリー以上に有名になっている。主人公が教会に飛び込んで、花嫁を奪うのだ。男は教会を見下ろすようにして、二階の窓を叩く。そして大人の制止を振り切って、花嫁を奪い去り、式場を出るのだ。二人はちょうどよく現れたバスに飛び乗って、その後ろの席に座る。一連の逃走劇に二人は大笑いをあげるのだが、しかし直後には現実の波が押し寄せてくる。ほかの乗車客の冷たいまなざしに触れて、ヒロインは徐々に夢から醒めていく……。

 あのシーン。花嫁を奪う瞬間を、僕は自分と照らしあわせていた。

 この日、これから訪れる一瞬を境にして、姉さんは泉舞結ではなくなる。たしか、相手の名前は芳屋樹よしやいつきだと聞いた。つまりもう姉さんは、芳屋舞結になってしまうのだ。

 僕はその前に、一瞬でもいいから姉さんを自分の元へ引き留めたいと思った。

 でも、一瞬だけでよかった。

 長く引き留めてしまったら、その先はきっと悪い方向へと落ちていってしまう。それは、『卒業』のラストシーンが物語った通りだ。一時の感情が見せた夢は、長く続くわけではないのだから……。

 ――『サウンド・オブ・サイレンス』でも歌おうか?

 僕は自嘲気味に考えた。


     *


 まもなく挙式は始まった。

 僕らシスターズ・ルームのメンバーは、四人掛けの席を別に用意されていた。最前列には両家の家族が並び、その後ろに新郎新婦の友人が並ぶ。僕らはその友人のなかに含まれていた。むろん僕は血縁者だけれど、無理を言ってこちらにしてもらっていた。

 式は滞りなく進んだ。父さんに連れられてきた姉は、控え室で見たときよりずっと綺麗だった。真っ白いウェディングドレス姿の姉と、涙は流すまいと天井を仰ぎ見る父。姉さんは、そんな父さんに微笑みかけたが、しかし父は仏頂面のまま。表情を崩すまいとカチコチになっていた。

 そうして姉さんは新郎の元に届けられた。これから夫となる芳屋さんは、なにか姉さんに優しく語りかけていた。でも、僕の席からでは聞き取れなかった。

 それからは、すべてがあっという間だった。

 指輪を交換して、あの有名な誓いの言葉を口にして……。映画やドラマのなかでしか見たことのない、あの言葉。それを姉が口にしていた。

「汝、病める時も、健やかなる時も、この者を愛し、支え、死が二人を分かつまで、共に歩む事を誓いますか。」

 豊かな白髪を蓄えた老牧師が問うた。

 死が二人を分かつまで。その決まり文句のあと、姉さんと芳屋さんは顔を合わせてから答えた。

「誓います」と。

 そしてベールがあげられ、口づけが交わされた。

 会場じゅうがその一瞬を待っていたのだろう。姉さんの同級生たちは静かに声を上げ、父さんたちは涙ぐみながらも拍手をあげていた。あの円さんでさえ、眼をしばたたいていた。

 でも僕は、なぜかこのときだけは涙をこぼさなかった。母さんから初めて報せを受けたときは、自然と涙がこみ上げたはずなのに。このときは非常に落ち着いて、弟としても、一人の友人としても姉の姿を見ていられた。

 それはきっと、これから起きることを僕が察知していたからだろう。それに何より、テーブルの下で奏純が僕の手を握り続けていてくれたからだと思う。


 披露宴に移ると、雰囲気は一気に和やかになった。新郎新婦それぞれの紹介がスライドショーに映されて、数々の写真が笑いを誘った。

 新郎側――つまり僕の義兄になる人――の人となりがここでわかった。どうやら隣町の出身で、両親ともに教師という一家。そして本人も今では中学教師という、いかにもな家庭らしい。見た目からして誠実そうな雰囲気はあったので、悪い男にだまされた、なんてことはなさそうだった。

 しかし、僕が不安を覚えたのはそのあとのこと。姉さんのスライドショーだ。そこには赤ん坊のころの姉さんから、僕が知る幼少期の姉さん。そして大学から今に至るまでの写真が映し出されていた。ときおり僕や円さんも写ったりしていた。だが、それはいい。問題はそのスライドショーに使われていた曲だ。それは最近流行りのポップソングで、結婚式や卒業式なんかによく使われている曲だった。僕も大学で何度も耳にしている。「育ててくれてありがとう」とか、いかにもな歌詞を羅列した歌だ。それが悪いとは思わないけれど、一時期の姉を思うと、不思議に思えた。

 それに姉のスライドショーには、シスターズ・ルームの写真が一枚も入っていなかったのだ。それが僕に心のざわつきを覚えさせた。内心、予感していたことではあったけれど。

 シスターズ・ルームを解散させてから、姉さんは音楽の話を一切振ってこなくなった。自分からも進んで話そうともしなかったし、バンドを組んでいたことなどなかったかのように振る舞い始めた。そしてどうやらその頑固さは、今も続いていたらしいのだ。

 僕は少しだけつらい気持ちになった。


 それから祝辞で幼なじみ代表として円さんが出ていったり。父が珍しく涙ぐみながら手紙を読んだりした。

 円さんは、やはりクールだが本番には弱いのだろう。「このたびは、ご結婚おめでとうございます」と言うべきところを「ご卒業おめでとうございます」と間違え、盛大に笑いを誘っていた。でも、おかげで場の雰囲気はとても和やかになった。席に戻ってきた円さんは、顔を突っ伏して「死にたい」などと口にしていたけれど。

 それからケーキ入刀。巨大なケーキが振る舞われ、参列者には歓談の時間が設けられた。そして、そのあいだに新郎新婦はお色直しに入った。

 披露宴は、半ば同窓会に近い様相を呈しはじめていた。あちこちで「久しぶり」という声が聞こえてくる。実際、僕も知人を何人か見かけた。けれど僕らには、そのような時間はなかった。僕ら、シスターズ・ルームには。

 お色直しが始まると、僕らはすぐに席を立った。理由は明白。このあとの余興の時間で、僕がベンジャミンになるためだ。

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