姉さんの趣味は、三ヶ月も続けばいいほうだ。だからギターもそろそろやめると思ってたけれど、なかなかやめそうにない。僕も結局それに付き合ってるし、それが楽しいと思っている自分に気づいて、もうすこしこの趣味が続けばいいのにと考えるようになっていた。

 今日はちょうど姉さんがギターを初めて半年だった。姉さんは飽き性だけど器用で、何事もそつなくこなしてしまう。いまやギターの腕前も、学生ライブに並んでもおかしくないぐらいには上手くなっていた。

 七月の中頃、とにかく暑かった。蝉がそこここで羽音をかき鳴らして、熱帯に彩りをそえたりしている。でも、山際からは涼しげな風が吹きすさんで、心地よくもあった。

 その日は高校の終業式で、僕は午前授業だけだった。校長の長い話を聞いてから、僕は一人トボトボと自宅に戻った。帰り道のアスファルトは、輻射熱でむせかえりそうなぐらい暑かった。自転車のペダルをひとこぎするたびに、脚に汗が流れてズボンが肌に張り付いた。

 やっとの思いで家の近くまでやってくると、少しは落ち着いて涼しくなっていた。

 早くクーラーの効いた部屋にこもって、冷たい麦茶でも飲もうと思った。けどその前に、僕は意外な訪問者がいることに気づいたのだ。

 うちの前に停められた一台の軽自動車。黒のハイゼットが熱気をはらんで陽炎とともにたたずんでいる。僕はその車に見覚えがあったけれど、誰のものだか思い出せなかった。

 そのうち自転車を停めていると、車内から一人の女性が降りてきた。黒いショートカットの、背の高い女性。作業着のような半袖のジャージ姿で、下はゆるい長ズボンを履いていた。

「あ、こんにちは」

 僕は思わず声をかけた。

「ああ、ひさしぶり」

 そう返す彼女は、僕と姉さんの幼なじみ。円さんだった。姉さんにギターを教えたという人だ。楽器店の一人娘で、高校までは姉さんと同級生だった。

 円さんは、ハイゼットのトランクを開けて、中から何かを取り出した。かなり大荷物だった。

「ちょうどいい。雄貴君、手伝ってくれないか」

 そう言って、円さんは後部座席から何かを引っ張り出した。それはギターケースだった。

 彼女は僕にそれを渡すと、さらにもう一本ケースを取り出した。そっちには僕も見覚えがあった。高校時代、円さんがよく使っていたケースだ。彼女が愛用していたのは、リッケンバッカーのベースだった。年季の入った良い品だと、円さんがいつも自慢していたのを覚えている。実際、彼女は学祭でベーシストとして活躍していた。

「これ、どうしたんですか?」

 僕はギターを担ぎながら言った。

「舞結から聞いてないか? あいつ、本格的に音楽やってみるって言うからさ。ウチから要らないギターを持ってきたんだ。オヤジのお古だよ。年代物のエピフォン・カジノ」

「エレキギターですか?」

「そうそう、正確にはフルアコ。アンプも一応持ってきた」

 僕と円さんは、腰丈ぐらいあるギターとベースを担いで玄関へ。すると玄関を開けたところで、二階からドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。姉さんだった。

「いっらしゃーい、円。いまお茶出すわね。って、雄貴も一緒だったの?」

「さっきそこで会って。……というか、姉さんエレキギター弾くんだ?」

「円がくれるっていうから、お言葉に甘えてね。友情に感謝だね」

 姉さんはそう言うと、キッチンのほうへはけていく。食器をあさる音がしてから、コポコポと水を注ぐ音が聞こえてきた。

「じゃあ、あたしたちは先に荷物を運んじゃおうか」

「あ、はい」

 円さんがベースを持ち上げ、アンプと一緒に二階へ。さすが幼なじみというべきか。円さんがうちに来るのは数ヶ月ぶりだったけれど、案内なしに姉の部屋へ上がっていった。


 さすがに三人もいると、姉さんの部屋も狭く感じた。そのうえアコギ一本、エレキ一本、ベース一本とあるのだから、余計に狭く感じる。

 円さんは背の高い人だった。僕は一七五センチあるのだけど、円さんはそれより少し小さいぐらい。おかげで、姉さんの部屋はさらに狭く見えた。姉さんがずっと小さく見える。

「へぇー、これを円ちゃんのお父さんが使ってたっていうの?」

 姉さんはギターを持ち上げて、得意げに構えてみた。

 艶のあるメープル色。焦げ茶色の濁った縁取りから、中心に向かって淡いに変わっていく。飴のように艶やかで、触ったら体温で溶けてしまいそうなぐらい美しかった。

「もう何十年も前のエピフォン・カジノだよ」

 円さんはカーペットの上にあぐらをかいて、姉さんが持ってきた麦茶と煎餅を頬張った。女性があぐらをかくというのは少し粗雑にも見えるが、円さんがやると不思議に格好が付いた。

「それって高いの?」

「それなりに。もう親父も使う予定ないって言うし、何なら使ってくれる人にあげたほうがいいって」

「あの……お金は?」

「いいよ別に。親友料金でタダにしてあげる」

「やった! 円大好き!」

 姉さんはギターを置いて、円さんに抱きついた。しかし彼女は、ベタベタとくっつく姉さんを気にする様子もなく煎餅にかじり付いていた。肝の据わった人だった。

「それより、ちょっと貸してみて。試しにあたしが弾いてみる」

「あっ、うん。はい、円」

「どうも」

 円さんはエピフォンを受け取ると、慣れた手つきでアンプにつなげた。よいしょ、と言いながら彼女がギター片手に立ち上がると、妙に決まっていた。

「いつもは左なんだが……まあ、たまには」

 そう言った、次の瞬間だ。

 つなげられたスピーカーから、大地が爆ぜるような轟音が響いた。その爆音は僕の心臓を鷲掴みにして、軽やかに流れていった。

 『いとしのレイラ』。それを奏でるエピフォンは、どこか軽やかで、しかしズシンと胸を打つものがあった。円さんのテクニックもあるのだろうが、僕は正直一目惚れだった。

 一通りサビのメロディを弾き終えると、円さんはうなずきながらギターを手放した。

「いい感じだね。舞結も試しに弾いてみなよ」

「うん、やってみる」

 言って、姉さんはエピフォンを受け取り、ストラップを肩に掛けた。


 試しに姉さんは『スモーク・オン・ザ・ウォーター』を弾いてみせ、続けて『ヘイ・ジュード』も弾いてみた。やはり姉さんは着実に上手くなっていた。初めて僕が合わせて歌ったときよりも、ぎこちなさが格段になくなっている。

 まあたしかに、円さんと比べたら拙さが目立つ。それはきっと経験の差だろう。でも、それでも姉さんは上手くなっていた。

 僕と円さんは、姉さんのソロプレイを煎餅と麦茶とともに楽しんでいた。僕は薄桃色のベッドに座って。円さんはカーペットの上にあぐらをかいて。濃い口醤油の堅焼き煎餅をかじりながら。

「うまくなったもんだな」

 円さんは麦茶をゴクリと豪快に飲み干すと、感心したように言った。

 だけど正直、僕は内心あまり感心できてなかった。というのも、確かに姉さんの技術は上がったように見えるのだが、何かが違うような気がしたからだ。普段、僕と一緒に演奏するときとは、何か違うような気がしたのだ。

 僕は初め、その違和感とでも言うようなものを口に出すべきか否か迷っていた。姉さんの指は気持ちよさそうに弦の上を踊っているし、円さんも文句はないというような顔をしていたからだ。

 しかし、『ヘイ・ジュード』を弾き終わったところで、姉さんは首を傾げた。そこで僕は、この感覚は間違ってなかったんだと気が付いた。

 姉さんは少しだけ逡巡するようなふりをして、それからうなずいた。

「……ねえ、雄貴。歌ってよ」

「ええ?」

 僕は思わず頓狂な声をあげた。

「なんかさ、わたし、雄貴が歌ってないと調子が出ないみたい」

「まさか、そんな無茶苦茶な。僕が歌わないとって……ここで?」

「ここで」

 姉さんは屹然とした態度で言った。基本的に舞結姉さんは天然で、気分屋で飽き性だけれど、ときおり我の強い一面が現れるときがある。このときがそうだった。

「あたしなら構わんぞ。むしろ聴いてみたい」

 円さんは煎餅をバキッと豪快に歯で折りながら言った。

「ほら、円も言ってるし。あ! ならさ、円のベースも混ぜて見ようよ。一緒にさ!」

「姉さん、またそんな思いつきで……」

「あたしなら構わんぞ」

 やはり円さんは不思議な人だ。

 煎餅を噛みくだすと、円さんはもう一度麦茶をぐいと飲み干し、持ってきたベースを引っ張り出した。リッケンバッカーベース・4001。黒と白のツートンカラーのベースを持ち上げると、円さんは不敵に笑んだ。

「曲はさっきのでいいんだな」

「うん。有名だし、簡単でしょ?」

「そうだな」

 言って、円さんは音出しと言わんばかりにベースの弦に指を這わせた。円さんの指、手仕事の痕が見える優しい手が、まるで銃撃のように弦の上で弾けた。そして雷鳴のように太い音が響く。まるで轟く稲妻だ。

「さっすが円ぁ! じゃあ、やろっか。ね?」

 姉さんが僕を見た。

 あの瞳。きらきらと輝く黒い眼。何か興味のることを見つけたときに姉さんがいつもする、宝石のような煌めき。僕はそれに勝つことができない。

「……わかったよ」

「よし。じゃ、始めよっか。せーのっ!」


 正直、そのとき僕がちゃんと声を出せていたかどうかは分からない。自分の声はよく聞こえなくて、ただ姉が奏でるギターの音色だけが聞こえてきていた。そしてそれを支える円さんのベースライン。僕はその音に背中を預けるみたいに声を出していた。だから、自分の声がどれかなんて分からなかった。これは姉が奏でているギターの音なのか? それとも僕が口から発している詞なのか?

 そうして気づかぬうちに、すべてが終わっていた。

 演奏が終わってからしばらく沈黙があった。僕は自分が何をしていたかもわからず、ただ流れる汗を拭くので手一杯だった。思えば今は夏で、窓には山から吹き付ける涼風と、アスファルトに熱せられた熱風とが吹きつけている。それらが混じり合った生ぬるい風に額を撫でられて、僕はようやく現実に戻った気がした。

 沈黙を破ったのは、やはり姉さんだった。

「……ははっ……あははっ……すごいよ、わたしたち、すごい!」

「確かに、今のは良かった」

 円さんがグラスに麦茶を注ぎながら言う。彼女はそれから、一気に煽った。

「舞結の言うとおり、いまのほうがキレがあったように思えるよ。それに、雄貴君もなかなかだね。うん、いいよ」

「本当ですか……?」

「ああ」と、円さんは太鼓判を押すように。

 僕は少し自慢げな気持ちになった。

「じゃあさ、じゃあさ! わたしたちでバンド組もうよ。これからもこうやって集まってさ、演奏するんだよ」

「でも姉さん、近所迷惑で怒られるかもよ」

「えー。今までアコギでやってても怒られなかったじゃん」

「エレキで爆音かき鳴らすのとは話が違うでしょ」

「そりゃそうかもだけどぉ……」

 姉さんは、あからさまにしょげて見せた。魂胆が見え見えだ。

 でも、正直僕も少し残念に思っていた。あのときの感覚。姉さんの奏でる音と、僕の発する声との距離が限りなくゼロに近づいた、あの瞬間。僕は、それをもう一度感じたいと心の中では思っていた。

 そう考えていると、横から円さんが。

「ウチの店ならできるぞ。演奏のブースが一応あるから、練習できなくはない。趣味でやる程度なら、あたしが店番の時ならかまわないと思う」

「本当!? やっぱり持つべきものは友だね、円!」

「でも問題はあるぞ。本格的にバンドやるっていうなら、ドラムが必要だ。ギターとベースとボーカルだけじゃ、ちょっと釈然としない」

「円ってドラムできたっけ?」

「できるけど、あたしがやったら誰がベースを担当するんだ」

「じゃあ、円はベースか。うーん……だとしたら……」

 姉さんの目が横に泳いでいく。

 はぐれた魚の一匹は、ちょうど僕のところで魚群を見つけたのか、そこで静止した。

「ちょっと待って、僕にドラムをやれって?」

「だって人いないし」

「じゃあ誰が歌うの?」

「歌いながら叩けばいいんじゃない?」

 姉さんは簡単そうに言う。太鼓の達人のバチでも持つようなポーズをして、僕に微笑みかけた。

「なんだかイーグルスやCCBみたいだな……」と円さんが横やり。

「えー、だめ、円ちゃん?」

「まあ、最悪いなくてもいいし、打ち込みでもいいかもしれないが……」

「うーん……」

 姉さんは首を傾げる。それから、必死に何かを思い出すみたいに、ずっと首を傾げ続けた。円さんが帰ってからも、ずっと。

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