シスターズ・ルーム
機乃遙
第一章 シスターズ・ルーム
1
「ちょっと付き合ってよ」
姉さんがそう口にするとき、僕は決まって姉の暇つぶしに付き合わされることになる。それはもう幼稚園のころからずっとそうで、僕が高校一年になったいまでも変わらない。姉さんはいつも突拍子なくて、思いつきで行動する。このときもそうだった。
何の断りもなく僕の部屋に入ってきた姉は、片手にアコースティック・ギターを持っていた。手入れはそれなりにしてあったけれど、ずいぶんと古めかしいものに見えた。弦だけは最近になって張り替えたのか、そこだけやけにキラキラと光っていた。
「付き合ってって、なにするの?」
「いいじゃない。付き合ってよ。ほら、こっち」
いつもこうだ。
姉さんは僕の意志など確認せずに、いつも僕を巻き込んでいく。僕が勉強机に向かって課題に取り組んでいたとしてもお構いなし。姉さんは僕の手を掴むと、いそいそと自室へと連れ込んでしまう。
僕はその手を振り払うこともできたのだけれど、生まれてこのかた十五年間、それを拒んだことは一度としてなかった。そして今日も例に漏れず、姉さんの頼みを引き受けたのだ。
姉さんの部屋は、僕の部屋の隣にある。すぐ隣で壁も薄いので、ときおり声が聞こえてくる。隣から「いてっ!」と声が聞こえると、たいていそれは姉さんがタンスのカドに足の小指をぶつけたときと決まっている。
僕は姉の部屋に連れ込まれると、ベッドの上に腰を下ろした。薄桃色のシーツに、小花柄のタオルケットが被せられただけのシンプルなベッド。僕の部屋にあるものとさして変わりない。ただ一つ違いがあるとすれば、枕から姉の髪のにおいがすることぐらいだった。
姉さんはイスに腰掛けると、座ったままくるりと回ってギターを抱えた。足を組んで、そこにギターの腹を乗せる。ネックを左手で掴んで、姉さんは得意顔になった。勉強机には色の剥げかけたギターケースが置かれていて、机を完全に占領している。本棚には教科書がいくつかあったけれど、とてもじゃないが勉強できる状態では無かった。
「なに、姉さんまたギター始めたの?」
「そうよ。このあいだいろいろ教えてもらってね。それでさ、せっかくだからセッションしてみようと思って」
「セッション?」
「そう」
姉さんはそう言うと、おもむろに弦を弾いた。
ぽろん、と調子外れな音。それから少しだけチューニングして、姉さんは再びギターを弾き始めた。
それは僕もよく知っている曲だった。ビートルズの『ヘイ・ジュード』。あまり洋楽に詳しくない僕でも知っているぐらい有名な曲だった。
それから姉さんは少しだけ曲を弾いて、指を止めた。
「雄貴、歌ってよ」
「ええ?」
「ほら、セッションだって。この曲なら雄貴も知ってるでしょ?」
「いや、知ってるけど。歌うなら姉さんにだってできるでしょ」
「わたし音痴だし。だってそれに、歌いながらだとうまく弾けないのよ。だからほら、歌ってよ。わたしのギターに合わせてさ」
「ええ……」
僕は少し閉口した。
だけど姉さんは、僕を澄んだ瞳で見てくるのだ。期待の眼差しというのは、おそらくこういうものを言うのだろう。得意げにギターを弾いて、姉さんはリズムを取る。
僕は姉さんのことが好きだ。僕には、何度だって姉さんの手をふりほどくことができた。だけど、それを断らずに今に至っている。昔から姉さんがプロレスごっこにハマったときも、おままごとにハマったときも、映画にハマったときも、オセロにハマったときも。いつだって僕は姉さんに応えてきた。どうして? と聞かれたら、姉さんのことが好きだったからとしか言えない。
「……せーの。さん、はいっ!」
姉さんは僕に笑いかけて、次の音を待った。
そうだ。僕はいつも姉さんに応えてきたんだ。
僕は恥ずかしながら、へたくそな英語で歌詞をそらんじ始めた。歌うなんてものじゃない。暗唱みたいなものだった。
「ヘイ、ジュード……ドンメイキットバッド……」
*
僕、泉雄貴と姉さん、泉舞結の泉姉弟は、いたってふつうの仲のいい姉弟だった。僕が生まれたのは姉さんが三歳のときで、すでにそのころから僕はお姉さん子だったという。
姉さんは僕とはぜんぜん違った。明るくて、活発で、いつも思いつきで行動して、しかも飽き性。だから姉さんが「ねえ付き合って」と僕に声をかけてきたときは、たいがい何かにハマったときで、それは一ヶ月を待たずしてブームが過ぎ去ったりする。
それでも姉さんは、僕を引っ張ってくれる人だった。飽き性でテキトーで、本当に計画性なんてものは微塵もないのだけど、それでもみんなをまとめてくれる人だった。
舞結と書いて、まゆ。舞っているものを結びつける……。名前の通りの人だった。
そんな姉さんがギターにハマりだしたのは、大学に入る直前だったと思う。僕が高校受験を終えて一段落したころ、姉さんもまた大学受験を終えて暇だった。そんなとき、姉さんは家の物置から、むかし父さんが使っていたというアコースティック・ギターを引っ張り出してきたのだ。もう何十年も前のヤマハのギターだった。
姉さんはほこり臭いギターを片手に、その日も僕に「ねえ、ちょっと付き合ってよ」と言った。
でも、僕も姉さんもギターなんて弾いたこと無かったから、その日はロクに曲も演奏できず、ただベンベンとテキトーに音を鳴らすだけで飽きてしまった。半日もかからなかったと思う。
持ち主の父さんは単身赴任中で、我が家にギターについて知っているような者はいなかった。母はといえば、昔ギターを弾いていた父に一目惚れをして恋に落ちたというけれど、見てるきりで演奏はすかんぴん。結局、アコギは一日で物置にしまわれた。
……と、僕は思っていたのだが、どうやら違ったようだった。
*
いま、姉さんはイスに座ってギターを抱えている。小学生のころから使っている勉強机備え付けのイスに座って、スタンドライトで手元を照らしながら。机上にはギターケースと、使い古した教本がのっている。カバーも外れて、小口も茶色く焼けてしまった教本。『初心者向けギター入門』とタイトルだけ付された物寂しい表紙。でも、使い込まれていい味が出ている。
僕は歌うのが恥ずかしくって、目が泳いでいた。そのせいで、姉さんの部屋のいろんなものが視界に飛び込んできた。その中古で買っただろうギターの教本だとか、新品同様な『教育学概論』とかいう難しそうな本とか。あとはカラーボックスの上に乗った古めかしい怪獣のぬいぐるみだとか。壁にハンガーでかけられた高校時代のセーラー服とか、いろいろ。
そうして一曲歌い終えると、僕は顔から火が出るような思いになった。だから恥ずかしさをごまかすように、矢継ぎ早に言葉を口にした。
「姉さん、まだギターやってたんだ。誰から教わったの?」
「えへへ、うまくなったもんでしょ?」
と、姉さんはカッコつけてワンフレーズ弾いてみせる。どこかで聞いたことある曲……たしか、ディープ・パープルの『スモーク・オン・ザ・ウォーター』だったと思う。
「姉さんの思いつきがここまで長続きするのも珍しいね」
「そうかな? あのね、ギターは
「ああ、円さんか……なるほど」
僕は得心して、すこしため息のような吐息を漏らした。
円さん――千鳥円さんというのは、小学校時代からの姉の親友で、僕らの幼なじみだった。近所で楽器店を営んでいる家の一人娘で、中学のころからどんな楽器をやらせても上手かった。でもその当時、姉はプロレスに熱中していて、残念ながら円さんと一緒にギターを始めようとは思わなかった。
「それでね、春休みの間に円ちゃんから集中講義を受けてたの。そしたらずいぶん弾けるようになってさ」
言って、姉さんはまた得意げにディープ・パープルを弾いた。
僕はそれを聴きながら、姉さんのベッドからゆっくりと起きあがった。それから立ち上がると、カーテンを開けて窓の外を見た。姉さんの部屋からは、ちょうど山のほうが見える。正面には林と狭い道路だけがあって、明かりの切れかけた電灯が誘蛾灯になっている。春になるといちめん桜色になって美しいのだが、五月の今では葉桜が見えるだけだった。
「姉さん、ほかに何の曲が弾けるの?」
僕はその景色をぼんやりと眺めながら、姉さんに言った。実際外を見たのは、歌ったのが恥ずかしくて、姉さんに顔を向けるのがイヤだったからだと思う。
「えっとねー、えっとね……そうだね、お姉ちゃんはこれが好きかな」
ポロン、とまた姉は白く細い指で弦を弾いた。
今度はオアシスの『ホワットエヴァー』だった。
僕は姉が奏でる音楽に耳を傾けながら、静かに葉桜を見ていた。青い葉が一枚、風に煽られたか蛾にぶつかったかして、地面に落ちていった。
「ちょっと、歌ってよ」
イントロが終わりそうなところで姉が呼びかけた。
「ええ、また?」
「だって、たのしいじゃん?」
初心者だからか、ゆっくりとしたテンポだった。だから僕も入りやすかった。姉の誘いの手がすっとどこかへ行ってしまう前に、僕は声にして手を掴んだ。
「アイムフリィーイー、トゥビワッエバーアーイ……」
*
姉のブームは、だいたい一ヶ月か二ヶ月もすれば終わる。中には半年近く続いた趣味もあったけれど、それでも飽き性の姉さんはすぐにやめてしまうことが多い。だからギターもすぐにやめてしまうものだと思った。
姉さんが弾ける曲を、僕が歌う。そんなことが続いて、結局姉さんのレパートリーが先に尽きて終わるんじゃないか。僕はそうなるとばかり思っていた。だけど、今回ばかりはそうもいかなかったのだ。
帰宅部だった僕は、家に帰るとすぐに勉強机にかじり付いて課題を終わらせた。姉さんが帰ってくるまえに、やることをすべてやっておくのだ。
それから七時過ぎぐらいに姉さんは帰ってくる。姉さんはバス通学で、大学からは三十分ぐらいの距離にある。姉さんは田舎から出ていくつもりはないらしくて、その大学を受験した理由もそうだった。もし落ちていたら都会での一人暮らしは免れなかったらしいけれど。でも姉さんは合格して、いまも実家に住んでいる。部屋もそのままだし、僕が姉さんの部屋に呼ばれて一緒に暇つぶしする関係もそのままだ。だから僕は、それで良かったのだと思っている。
七時過ぎに帰ってくると、姉さんは一目散に僕の部屋のドアを叩く。それで、いつもお決まりの台詞を言う。
「ねね、ちょっと付き合って」
「なに、新しい曲は弾けるようになった?」
僕は机上に開いていた参考書を閉じて、シャーペンを筆入れにしまった。
「ちょっとは。そっちは?」
「まあ、それなりに歌の練習はしてみたけど。……あ、そういえば『天国への階段』は弾けそう?」
「いやぁ、練習はしてるんだけどね。やっぱりアレは難しいよ。ちょっとは弾けるようになったけど」
「聴かせてよ。どうせ今日も練習するんでしょ?」
言って、僕はイスから立ち上がる。ついでに本棚から一冊のノートを手に取った。表紙にはただ『01』とだけ書かれている。そこには、姉さんが弾ける曲の歌詞と、歌い方のメモが書いてある。
僕はなんだかんだで姉さんと歌っているのが好きなんだと、最近になって気づいてきた。初めは歌うなんて、中学の合唱じゃないんだからと思っていた。けれど二人で一緒に、何か一つのものを作っていると、楽しくなってきたのだ。曲が形になっていくにつれて、それが僕と姉との暇つぶしから、本物らしさを帯びていくにつれて……僕は悦びを感じていた。創作の悦びというのだろうか。
僕はノートから赤い付箋のついたページを開いた。付箋のついていないところは、もう満足に弾けも歌えもできる曲。赤い付箋がついているのは、姉さんも僕もまだうまくできない曲。黄色い付箋は、姉さんのギターか僕の歌のどちらかが上手くいってない曲だ。『天国への階段』は、赤い付箋だった。
姉さんの部屋はいつもと変わらない。
僕は物心ついた時から、姉の暇つぶしに付き合っている。姉さんの部屋での、姉さんと僕だけの秘密の遊戯だ。
学習机には、まだギターケースと教本が転がっていた。もうセッションを始めてから二ヶ月近くが経とうとしていたけれど、『教育学概論』の本は新品同様のまま。ギターケースも粗雑におかれたままで、教本と増えていく楽譜だけが年季を重ねているようだった。
姉さんはいつものようにイスに座って、ギターを抱えた。
「じゃあ、ちょっとやってみるね」
と、弦を一つ弾いて見せる。
初めよりはいくらか成長したけれど、それでも拙い演奏だった。
レッド・ツェッペリンの『天国への階段』は、ギターソロが難しいとして有名だ。ギターを弾かない僕でもそれは知っているし、姉が悪戦苦闘する姿を見ていれば、イヤでもわかる。
姉さんは、初めこそ慣れた手つきで演奏し始めた。冒頭部だけはイヤというほど練習したのだろう。でも、それから先がなかなか進まないようだった。
僕はノートを開いて、英語の歌詞を見た。大学ノートには、英語とカタカナ、それから日本語訳が書いてある。
――英語の勉強にもなるし、楽しめるし、一石二鳥じゃない?
そう言ったのは姉さんだった。
でも、この曲の歌詞はひどく抽象的で――というより、洋楽の歌詞なんてみんなそんな気がする。姉が好きな曲は特に――高校一年生が訳そうなんて無理な話だった。
だから僕はライナーノーツを見たり、ALTの先生に少しだけ聞いてみたりもした。アメリカから来たというギブソン先生は、『天国への階段』の詞をみると興奮して僕にいろいろ教えてくれた。つたない日本語だったから、全部は分からなかったけれど。
先生は、僕に「君もバンドをしているのかい?」と問いもした。彼も本国にいたとき、大学で学生バンドを組んでいたというのだ。
そのとき、僕はなんと答えればいいかよく分からなくて、結局彼の言っていることがわからないフリをして切り抜けた。
――姉とバンドをしている?
それはちょっと違う気がする。僕と姉さんのこれは、一種のお遊び。姉さんの部屋の中で、僕と姉さんがちょっとした暇つぶしをする。その程度のことなのだ。
だから僕は、ギブソン先生には悪いことをしてしまったな、と思っている。
しかし、それでも彼のおかげで多少僕の歌は良くなっている気がする。英語の発音なんて、中学の時はぜんぜん気にしてなかったもの。
「ほら、雄貴。入って」
何度も何度も失敗しながら、ようやく姉がイントロの演奏を終えた。
姉さんはアコギのボディをトントンと叩いてリズムを刻む。僕はそれに併せて、ノートに記した英文を歌い上げた。
「ゼアザレディ、フーズシュアー……」
それからしばらく歌ったけれど、ソロに入ったところで姉さんが何度も失敗した。難しいから仕方ないのだけど。でも姉さんは珍しくまじめな表情で弦を弾いて、それから投げ出したようにあっけらかんと笑った。
僕はそのソロが弾けるまで、姉さんのベッドの上で静かに待っていた。ノートに目を落とすこともなく、ただ小刻みに動く白い指を見つめていた。今にも折れてしまいそうな姉の細い指先。それが、さっきまで僕の歌と一つになっていた。
しばらく姉はソロパートを弾こうと躍起になっていた。僕もそれを待っていた。
でも、時間は早く過ぎるもので、結局姉さんがソロを満足に弾ける前に、一階のリビングから声がかかった。
「舞結、雄貴。ごはんよ」
母さんが呼んでいる。
姉さんは必死にソロパートを弾きながらも、「うん、今行くよ」と答えた。でもそのとき、姉さんの集中力は途切れてしまったのだろう。調子外れな音がピーンと部屋に響いて、それきり弾くのをやめてしまった。
「続きはごはんとお風呂のあとだね」
姉さんは指を弦から離した。
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