第二章 イカロス

 夏休みのあいだ僕らはずっとバンド活動に明け暮れていたと思う。お互いに都合のいい日を作っては、スタジオを借りるか円さんの家に行ってみんなで合わせたし、毎晩僕と姉さん二人での練習も続けた。練習が進んでいくたび、僕は『シスターズ・ルーム』という曲も、バンドもより完成に近づいていると感じていた。


 それは八月の終わりごろ、日曜の昼間のことだった。来週には高校がはじまるころだったけど、その日になってもバンド活動に明け暮れ、宿題など微塵も手をつけていなかった。

 町に唯一あるスタジオは、公民館の隣にある。僕らはその一室を借りて、これからセッションを始めるところだった。ただ、まだ一人メンバーが来ていなかった。保志さんだ。

「おそいね、保志くん。どこで道草食ってるんだろ」

 スタジオの壁に寄りかかって、姉さんはスマホに目をやった。LINEの既読はまだついていないらしい。

「休みだからって、昼過ぎまで寝てるんじゃないか?」

 円さんがベースをアンプにつなぎながら言った。

「まさか。そんな大学生みたいなこと」

「大学生だろ、おまえら……」

 楽譜の書かれたノートを譜面台に広げる。今日も今日とて『シスターズ・ルーム』の練習。まだ改良点があると円さんが豪語するので、みんなで調整しながら曲を仕上げている最中だ。

 しかし、ドラムがいなければ始めることもできない。

 集合時刻からすでに八分がすぎている。レンタルスタジオの扉は、まだ揺れていなかった。


 保志さんが到着したのは、集合時間の二十分過ぎだった。入って来るや否や、円さんは彼に怒号を浴びせようとした。円さんは何かと時間にうるさい。

 しかし、今日はそうはならなかった。というのも、保志さんが妙に焦っていたからだ。それも遅刻しそうだったからという焦りぶりではなく、もっと別の感じだ。だから円さんも声を上げなかった。

 彼は息切れした状態で入ってきた。両膝に手を突いて、ぜえぜえ言いながら呼吸を整えている。

「ちょっと、保志くん。何があったの?」

 姉さんが弦を弾いて遊びながら問うた。

 しかし、保志さんはしばらくしゃべれる状態ではなかった。彼はぜえぜえ言いながら「ちょっとまってください……」と何とか言葉を発する。それから一分ほどして、ようやく落ち着いた。

「あの。俺が商店街にあるバーでバイトしてるって、話しましたっけ?」

 みんな一斉に首を横に振る。僕も初耳だった。バイトをしている、とは聞いていたけれど。

「実はっすね、その店、月一でバンド演奏をやってるんですよ。町の楽器やってるヤツとか、マスターの知人なんかを集めて。で、そのライブが来月の下旬にあるんすけど……さっきマスターから連絡があって、元々出る予定だったメンバーに問題を起きて、出られなくなったって……」

「問題と言うと?」と円さんがすかさず問う。

「交通事故っす。全治二ヶ月とか言って、今は車椅子か松葉杖無しじゃどうにもならないって。しかもほかのメンバーも急に人事異動で海外に行かなきゃならなくなったとかで、もう代わりのメンバーを用意するだけじゃどうにもならないってんで……。マスターから『代わりに演奏できるバンドを探してくれ』って頼まれてるんです。でも、俺この街に来てまだ半年ですし、それに急にそんなこと言われてもわかんなくって……。とにかく一大事なんす! 俺がこの件を片づけたら、ボーナスももらえるって話なんですよ! もし良かったら誰か知り合いのバンドとか教えてくれませんか……?」

 そう言って、保志さんは膝立ちから土下座に変わった。頭を深く下げる。

「そう言われてもな、来月だろ? バンド演奏のできる知り合いならいるが、望み薄だろうな」円さんは冷淡に言った。「ウチの親父でも紹介しようか?」

「それは違うんじゃない、円?」

 姉さんは、肩からさげていたギターをおろす。そして、腰を屈めて保志さんを見た。ちょうど彼の目線の高さまで、姉さんは腰を落とした。

「保志くんさ、つまりこういうことでしょ。その代わりのバンド、わたしたちがやればいいって」

「なっ!?」

 後ろから円さんの奇声。

 円さんは、それから続けざまに自分たちがいかに未熟であり、人前で演奏――しかもアマチュアといえどちゃんとした場所で――なんてことは無理だと説明した。とても早口でなんと言ってるか聞き取りづらかったけれど、言ってることは正解だった。でも、姉さんはそれを完全に無視していた。

「やろうよ。これをわたしたちシスターズ・ルームの初お披露目にしようよ」

「まじっすか!?」

 言い出しっぺの保志さんも少々引き気味だ。円さんも、例によって頭をもたげている。

 姉さんの思いつきは、いつも突飛でもない。バンドを始めようとか言い出したときもこんな感じだった。そして、今度は人前で演奏すると来ている。

「マスターさんがオッケーっていうなら、わたしはいいと思うよ。みんなはどう?」

 僕は首を傾げた。正直、決定権は僕にはないと思ったからだ。ロックバンド『シスターズ・ルーム』の方向を左右するのは、みんなの意志。空気感。そしていつもそれを取りまとめているのは、姉さんだったからだ。

「僕は姉さんについてくよ」

「じゃあ雄貴はわたしに賛成ね。円は?」

「……しょうがない、やってやろう」

 円さんが重い腰を上げた。堅く結んでいた腕組みを解きほぐす。

「じゃあ決まりね。それじゃあ保志くん、先方にそう伝えてくれるかな。『その代役、我々シスターズ・ルームが引き受けましょう』って。あ、ちゃんと名前を強調してね。これが初お披露目、目立たなきゃ意味ないんだから」

「りょ、了解っす! そうと決まったら今夜にでも伝えておくっす!」

「よろしい……それじゃ」

 姉さんは振り返った。

 ギターを手に掴む。本来は、ここから練習のはずだった。だけれど、この調子では大幅な予定変更を強いられそうだ。そして現に、姉さんの頭の中には、もはや練習のことなどなくなっていたのだ。

「それじゃあ、新曲を作ろう!」


 姉さんの突飛でもない意見に、まず冷静なコメントを下すのは円さんの役割だった。彼女はバンド内でも副将的な役割で、しかも音楽の知識はメンバーのなかでも随一。なので、ある意味で『シスターズ・ルームのご意見番』というような立ち位置だった。

 そしてこのときも例に漏れず、円さんが真っ先に姉さんに突っ込んだ。

「おいおい、オリジナル曲ならすでにあるだろう。『シスターズ・ルーム』が。もしライブをやるにしても、基本はカバー曲をやればいいだろう」

「でもさあ、それじゃあ味気なくない? やるならさ、もっと盛り上がる感じのオリジナル曲がほしくない? 『シスターズ・ルーム』は、どっちかっていうとゆったりした曲だしさ」

「だからって、これから曲を作るのか?」

「うん。間に合わなかったら、別に大丈夫だけど。ちなみにね、わたしはオアシスの『ロックンロール・スター』とか『モーニング・グローリー』とか、あとビートルズだったら『ヘルター・スケルター』みたいなのがいいな」

「あ、俺はドラムが目立つ曲がいいっす!」

「はいはい。考えておくね」

 姉さんはそう言ったが、果たして素人仕事にそんなマネはできるだろうか。

 僕は一瞬そう思ったけれど、しかし姉さんならできてしまう気がした。昔から姉さんは、どんなことだって、そつなくこなしてしまう。バンドの件だってそうだった。急に曲を作ろうなんて突飛でもないことを言って、僕が適当に言った言葉に音楽をつけて、それで曲にしてしまったのだから。

「じゃあ、とりあえずそういうことで。それじゃあ、まずは今日の練習、はじめましょう」


     *


 作曲は、姉さんと僕との秘め事だった。夜な夜な僕はノートを片手に姉さんの部屋に上がり込んで、ことははじまる。姉さんはすでにギターを弾きながら僕を待っていて、僕がやってくると「あ、ここなんだけどさ」とか「このフレーズよくない?」とかすぐに切り出してくる。僕らの趣味的な作曲は、そんな何気ない会話みたいなものだった。

 しかし、『シスターズ・ルーム』に続く新たな曲の制作は、難航していた。


 九月の初めだった。学校が始まって、まだ三日しか経っていなかった。いつも通りの学校生活が戻ってきて、でも暑さは尾を引いていて。そんな暑い日だった。

 僕は授業を耳から耳へと受け流しながら、詩作に励んでいた。古文を読んだところで何がなんだか分からないし。数学は記号の羅列をみているだけで目眩がしてくる。だから僕は、言葉に取り組んだ。姉さんの言ったとおり、日々の何気ないことを言葉にして、それをリズムに合わせることにしたのだ。

 気がつくと、真っ白な授業用ノートの隣に、びっちり書き詰められた作詞用ノートが並ぶことになっていた。

 そうして詞を書き連ねて授業が終わり、また何気なく一日も終わっていくかに思われた。しかし、その日は五時間目の授業が終わったところで急に雲行きが怪しくなり始めたのだ。文字通りの、雲行き。

 放課後になって僕が帰るころには、空はどす黒く濁っていた。つい数時間前まで澄んだ夏空だった姿は、もはやどこに求めようもない。いわゆるゲリラ豪雨。まるでスコールのような大雨だった。


 僕はその雨粒たちを、昇降口の傘置き場前から眺めていた。校庭はすっかり泥だらけになり、てらてらと妖しげに輝きを放ちながら、ホームベースを飲み込もうとしている。ベンチ脇のプレハブ風の小屋では、野球部員たちが恨めしそうに窓を見つめていた。

 ただ、目下僕の問題は校庭の泥ではなかった。傘だ。

 今日の予報では、確かに雨が降ると言われていた。もっともここまで強く降るなどとは考えていなかったけれど。だから僕は、快晴の朝から傘を持って登校したのだ。やすいビニール傘だったけど。

 問題は、その傘がないということだった。つまり僕を豪雨から守る盾を、誰かがいけしゃあしゃあと盗んでいったのだ。

 傘を盗まれるというのは、どんな人間でも人生に一度は経験することだと思う。現に僕もそうだった。あれは確か中二のころだったと思う。その日も今日みたいな土砂降りで、しかも午前中は快晴というひどい天気だった。お天道様と天気予報士に裏切られた生徒たちは、傘を求めて傘置き場を漁った。その結果として傘は、持ち主とは違う者の手に渡ったのだ。

 僕の傘もそうだった。前日に買ったばかりの黒い傘で、千円はしたものだった。母さんが僕に買ってくれたのだ。しかし、それは翌日の雨とともに消えていった。僕は傘置き場で黒い傘を探しているとき、初めは新しいものを初めて使う興奮を覚えていた。だけど、傘が見あたらなくなるにつれて、ただ不安だけが心を支配していった。そうしてとうとう傘が見つからないと、ただ絶望と雨音だけが僕の脳を支配した。

 そんなとき僕が考えたことは一つだった。

 それは、傘を盗むということ。

 ――誰かが僕のを盗んだんだ。そいつのせいであって、僕に非はない。きっと僕が盗んだ傘の持ち主も、もれなく誰かの傘を盗むだろう。あるいは、僕の選び取った傘は、もとより持ち主のいない傘かもしれない。

 そんな言い訳を頭の上に並び立てながら、僕はちょうどいい傘を一本――やすそうなビニール傘だった――を見繕って、外へ出た。

 初めはいい気分だった。濡れずに済んだのだから。しかし家に着くや否や、僕は罪悪感に襲われた。その傘は、僕を罪の意識から守ってくれるほど強くはなかったのだ。

 それ以来、僕は傘を盗むことは絶対にしないようにしている。さいわい、その一件以降、土砂降りの日に傘がないことは一度もなかった。今日という日をのぞいては。

 一瞬、僕は外へそのまま出ようかためらった。下駄箱前の傘立てには、骨の折れ曲がった傘がいくつも並んでいる。きっと持ち主から見捨てられたものだ。そいつらを再利用してやってもいいのでは、と僕は思った。だけどすぐさまあのときの罪悪感がよみがえってきて、僕に警告した。

 けっきょく僕は、豪雨の中を傘もささずに歩くことにしたのだ。


 雨の中、鞄を傘代わりに頭に乗せて走った。自転車を押しながら、降りしきる豪雨の中を。まるでシャワーを浴びているような気分だった。顔面に打ち付けるのは、残暑に熱せられたなまあたかい水滴。それが肌に張り付くたび、気持ちの悪さを全身に残していった。

 しかし初めは雨に対して抵抗を覚えるが、しばらくすればそれもどうでもよくなる。熱い風呂のように。

 十分ぐらい歩き続けていると、走るのに疲れたので歩調を遅くし始めた。そのころには雨も徐々にゆるみ始めていた。

 頭の中では、『雨を見たかい』が流れていた。誰の曲かは詳しく覚えていない。けど、確かむかし円さんか、親父さんが弾いていたのだと思う。だから耳の片隅に残っていた。

 ――雨を見たかい?

 そう問われたら、僕はなんと答えるだろう。

 疑問に思いながら、また今度は脳裏に『雨に唄えば』が流れてきた。これはよく覚えていた。まえに姉さんが映画にハマったとき、一緒に付き合わされて『時計仕掛けのオレンジ』を見させられたのだ。僕の部屋にテレビはなかったから、姉さんの部屋で、姉さんのパソコンで一緒に見た。姉さんは「名作だって言うからさ。やっぱり、映画好きならこれぐらい見なきゃと思って」とか言っていたけど、僕は正直あの映画にいい思い出はない。ただ気まずかったことだけを覚えている。姉さんを隣にした状態で、女性をレイプするシーンだったり、性的なイメージを思わせる家具が出てくるシーンだとかを見たのだ。当時中学生で性意識に目覚め始めていた僕は、気まずさを感じずにはいられなかった。

 でも、思えばあのときの姉さんはまじめな表情をしていたと思う。まじめに、まっすぐに作品に向かっていたと思う。あれはきっと、いま音楽にのめり込んでいる時と同じ姿勢だと思う。姉さんは一度ハマると、飽きが来るまでとことん入り込む。むかしからそういう人だった。

 自転車を押しながら、『雨に唄えば』を口ずさんで、ようやく自宅近くの通りにまでやってきた。家まではあとは道なりで、十分も歩けば着く距離だった。

 止まれ、の看板がある三叉路を右折して、集合住宅の群から徐々に離れていく。

 すると角を曲がったところで誰かが待っていた。霧雨のせいで輪郭はぼやけていたけれど、それは女性で、傘を差していたとわかった。淡い桃色をした大きな傘を。

 それは、姉さんだった。

「ちょっと雄貴、傘は!?」

 僕を見つけると、開口一番姉さんは叫んだ。

 水たまりの中をスニーカーで駆け抜けて、姉さんは僕のもとへ。差していた傘のなかに僕を招き入れた。

「盗まれたよ」

「盗まれたって……。それで、なんで濡れて帰ろうと思ったの?」

「なんとなく」

「連絡くれたら、迎えに行ったのに……」

「姉さんこそ、なんでここにいるの?」

「あんまり土砂降りだし、帰ってくるの遅いから心配になったの。LINEも返さないし」

「ああ……」

 そういえば、スマホは鞄の中に入れたままだった。黒い革鞄は、汗をかいたようにしずくを滴らせている。携帯はその中に突っ込んだまま。LINEをチェックしてる余裕はなかった。

「まあいいや。風邪ひくといけないから、早く帰ろう」

「うん、そうだね」

 僕は姉さんと相合い傘のまま進み出した。

 姉さんの傘はとても大きかった。僕の持ってたビニール傘に比べれば、ひとまわりも、ふたまわりも。しかしその傘でも、僕らを雨から守ることはできなかった。二人で傘の中に入ると、僕の左肩と姉さんの右肩に水滴がしたたり落ち、跳ねていった。


 家に帰ると、僕はすぐに風呂に入ってあったまるように言われた。母さんではなく、姉さんにだ。

 母さんはこの時間、パートタイマーでスーパーのレジ打ちに行っている。だから自宅にはいない。そのせいか僕は、よけい姉さんが母親に見えた。高校を卒業してからというものの、たまに姉が自分よりも大人に見える瞬間がある。いつもは好奇心旺盛で飽き性で子供っぽい姉が、とたんに母親のような――女の顔をするときがあるのだ。

 そういうとき、僕は姉さんがひどく遠くに行ってしまったような気分になる。

 ともあれ風呂に入ることに関しては僕も賛成だった。生ぬるかったといえど、雨は雨だ。冷えとなって身体を蝕むことは当然のこと。

 僕は熱いシャワーを浴びて、身体に張り付いた汗と水滴を流し落とした。このとき、以前のように罪悪感がこびりついていることはなかった。


     *


 僕は翌日の朝を、うだるような熱気と倦怠感とともに迎えた。ひどいだるさを覚えて、一階へ降りるのも億劫に感じたぐらいだった。

 案の定、風邪だった。体温計で熱を計れば一発だった。三十八度四分。一般的な風邪だ。

 起きたのは朝七時。それからベッドに戻ったのは七時二十分ごろ。母さんに言われて、僕は薬を飲んでからすぐにベッドに戻った。

 その時間、まだ姉さんは起きていなかった。


 次に目を覚ましたのは、午後三時頃だった。

 あまりの気だるさに押し負けて、僕は半日中眠りのなかにいた。それも風邪をひいたときに見るような気色の悪い夢もなく、一瞬闇の中を通り過ぎただけだった。気がついたら、もう三時過ぎだったのだ。

 金曜日は、母さんが昼過ぎから夕方までパートだ。だから家はしんとしていた。隣の姉さんの部屋を除いて。

 姉さんの部屋からは、アコースティックギターの音が漏れてきていた。ぽろん、ぽろんとこぼれ落ちるように響く音たち。姉さんは新曲を作ろうとメロディを探しているらしい。

 そのうちエレキギターの音も聞こえてきた。鋭く、しかし甘い音色。それが壁伝いに鳴り渡った。でも、まだ曲としては完成していないようだ。ただ気に入ったのであろうフレーズを繰り返し弾いて、それに続くものを探しているようだった。

 僕はその音色に耳を傾けながら、ゆっくりと身体を起こした。すると、姉さんのギターに合わせて調子外れの音が響いた。僕の腹の虫だった。それは食いしん坊の権化みたいに、大声で飯を求めた。

 きっとそれが姉さんの部屋にも聞こえたのだろう。とたんにギターの音が消え入って、何か物音が響いた。それからドアを開ける音がした。

 コンコン、とノックの音。

「雄貴、起きてる?」

「うん」

「入ってもいい?」

「どうぞ」

 姉さんは静かにドアを開けて入ってきた。病人に対する配慮だろうか。

「具合はどう?」

「今朝より良くなったと思うけど」

「本当?」

 と、姉さんはベッド脇に腰をおろした。

 そして先ほどまでピックを握っていた手で、僕の額に触れたのだ。外気は生ぬるかったのに、姉さんの手はひんやりとして気持ちがよかった。

「うーん、熱は下がったかもね。おなかは空いてる? 食欲ある?」

「うん」

「だよね。さっきすごい音してたもん。おかゆでも作ってあげるよ。だから、横になって待ってて」

「わかった」

「うん。今度は雨のなか傘もささずに歩いて帰ってこないように」

 姉さんは微笑みながら僕をたしなめ、一階へと降りていった。

 きしきしと階段が鳴り響く。それからキッチンの電気をつける音、ガスコンロに火をつけるチッチ……という音。周りが静かだったからか、いつもよりいっそう音に集中できていた。

 僕はそれをバックミュージックにしながら、身体を横にした。


 厚めの器のなかに、白と黄色の模様が流れている、湯気を立てながら。卵と出汁の素だけの非常にシンプルなおかゆ。料理があまり得意でない姉さんでも、これぐらいのものはできた。

「どうする? あーんする?」

「いいよ。もう子供じゃないんだから」

 僕は起き上がって言った。

「それもそうだね。はい、どうぞ」

 僕は布団を這い出てから、おかゆとスプーンを受け取った。

 姉さんのおかゆは少しだけ水っぽかったけど、風邪っぴきにはちょうどいいぐらいだった。お茶漬けをすするみたいに白米を食べると、徐々に腹の虫も治まっていった。

 腹が満たされると、ふつうは自然と眠くなるものだ。けれど今日は半日じゅう寝てたせいか、ぜんぜん眠くなかった。

「ごちそうさま。おいしかった」

「お粗末様。どう、少しはよくなった?」

「たぶん。でも、これ以上寝れる気がしないよ」

「ずっと寝てたもんね。風邪のときって、暇で暇で仕方ないんだよね。わかる」

 お茶碗を手に取って、姉さんは洗い物へ戻ろうとした。それが終わったら、また姉さんは作曲をするのだろう。

 そうして立ち上がったとき、姉さんはふと僕の机の上に目を止めた。そして茶碗を机上においたのだ。

 姉さんが目を止めたのは、僕の作詞ノートだった。昨日は机に出したまま寝てしまってらしい。

「詞、見ていい?」

「いいよ。姉さん曲作ってたよね。さっき、向こうで」

「うん。なんとなくいいフレーズは思いついてきてさ。詞はどう?」

「思いついた言葉なら、そのノートに適当に書いてあるよ。だから、姉さんが気に入ったのが見つかったら、それにすればいいと思う」

「ふぅん……借りてっていい?」

「いいよ。っていうかさ……」

 僕は身体を横にした。少し頭がクラッときたが、横になるとすぐに治まった。

「今から曲作ろうよ、ここで」

「無理しないの。今日はゆっくり休んだほうがいいよ」

「いいんだ。姉さんの曲を聴いてると、落ち着くんだ。だからさ」

 言って、僕はタオルケットを身体に巻き付けた。そして転がるようにして身体を起こした。簀巻きにされたみたいに。

「やろうよ。作曲をさ」

「わかったわかった。食器片づけてから、ギター持ってくるから」


 予告通り姉さんは食器を片づけると、ギターを持って僕の部屋までやってきた。小脇に作詞ノートと、作曲ノートを挟んで。

 僕はタオルケットにくるまって、床の上に腰をおろしていた。マットレスを背もたれ代わりにして。

「無理しないでよね」

 姉さんはそう言って、僕の隣に腰をおろした。

「わかってるって。それより、ギター聴かせてよ」

「オッケー、オッケー。でもその前に、詞を見させてもらうからね」

 はらりと大学ノートのページを繰る。

 なんだかこそばゆい感覚だった。僕の書いた言葉を、姉さんが選別している。端から端まで目を通して。

 姉さんは、ときおり詞を口ずさみながらページをめくっていった。そして、あるページで手を止めた。

「これ、いいんじゃない」

「どれ?」

「ほら、これこれ」

 姉さんの白い指が、僕の書いた黒鉛の軌跡をなぞった。

 それは『イカロス』と題された詞だった。書いたのはおそらく二、三日前だったと思う。タイトルこそ何か意味深長なイメージを想起させるけど、実のところ別段これといって深い意味はない。ただ頭に思い浮かんだ語を適当につけただけだ。

「これ、バンド結成の話を詞にしてるんだね」

「うん。だって、姉さん何気ない日常を詞にしようって言ったでしょ。だから、今年の夏のことを詞にしたんだ。姉さんと僕からバンドが始まって、円さんが加わって、保志さんが加わって……そういう話」

「へぇ。でもさ、イカロスって太陽に近づこうとして落ちた人だよ。ちょっと縁起でもない気がするんだけど」

「深い意味はないから。それに、なんかかっこいいし。響きもいいなと思っただけだし」

「まあ、それでもいっか。でさ、でさ。これにわたしの作った曲をつけてみようと思うんだけど」

「やってみてよ。姉さんのギター、聴きたいから」

「じゃあ、弾くから合わせて……って、風邪っぴきに歌わせるわけにはいかないか。わたしが歌おっかな」

「姉さんの歌、聴きたい」

「音痴だなんて言わないでね……じゃあ、やってみよっか」

 白い指がギターの弦を弾く。心地よい音。さっきまで壁伝いに聞こえていたフレーズが、すぐ隣から聞こえてくる。

 姉さんはそれを繰り返し弾きながら、頭の中で歌詞を反芻し、徐々に形を変えていった。そして二十回ぐらい似たようなリフをやり続けたところで、ようやく口を開いた。



 キミが弾いて 曲が産まれ

 キミを見つめ 言葉ができて

 キミはすすみ ボクはついていく

 You just play. And I'll sing for you.



 アコースティックギターの小刻みな少し荒れた音色とともに、姉さんの幼げな声が響いた。

 このあいだ言ったとおり、『シスターズ・ルーム』よりも激しめの曲だった。テンポも早くて、パワーコードを多用したノリのいい曲だ。それでいて簡単でわかりやすい。でも、姉さんの声にはちょっと合わなかった。

「どうかな?」

「いいよ。すごくいい。やっぱり姉さん才能あるんじゃない?」

「えへへ。そうかな? ……じゃあ、続きも考えようよ。いまのとこはサビにしてさ。こう、繰り返す感じで。ここの英語の詞とか繰り返すと格好良くない?」

「それいいね。ノートに書いといてよ」

「オッケー、じゃあ……イントロはこのリフをちょっと改変する感じでさ」

 もう一度、姉さんはあのフレーズを何度も弾き始めた。イントロに聞こえるよう調整しながら。何度も、何度も。


 ただ風邪の猛威というのは、僕の精神力を蝕んだ。初めは姉さんの演奏に聴き入っていた僕も、その曲――結局、仮題として『イカロス』と名がついた――の一番ができかけたころには、まぶたが重くなり始めていた。

「寝ていいよ。お姉ちゃん、ここにいるから。なんならわたしに移して、治しちゃってもいいよ、風邪。大学はまだ休みだし」

 言って、姉さんは僕の青いタオルケットの中に入ってきた。人肌のぬくもりを感じる。ちょうどいい暖かさ。眠くなる。

「うん……わかった」

 視界がぼやけてきた。まぶたの重さに筋肉が耐えきれず、瞳が閉じる。

 ギターを弾く姉さんの肩に身体を預けて、僕は眠りに落ちた。徐々に世界が暗くなって、やがて音だけになった。姉さんの弾くギターの音だけに。

 はじめ姉さんは『イカロス』を弾いていた。印象的な力強いサビのメロディは、僕の作った詞を頭の中で再生させる。詞に書いたとおり、姉さんを見ていると――姉さんのギターを聴いてると、言葉が浮かんでくる。勝手に流れてくる。

 それからしばらくして姉さんは違う曲を弾き始めた。ゆったりとした曲だった。まるで子守歌みたいなバラード。それがさらに僕を眠りに誘った。

「姉さん、これ何の曲……?」

「オリジナル。バラードかな?」

「いいね……寝ちゃいそう」

「寝ていいよ。ほら、わたしはここにいるから」

 聴覚もぼやけていく。

 姉さんの子守歌。ゆったりとしたギターソロ。それが徐々に、耳から抜けていった。


 結局、僕がそのあと目を覚ましたのは翌日の朝のことだった。僕はいつのまにかベッドにいたし、布団もしっかりかぶっていた。きっと姉さんがやってくれたのだと思う。

 身体を起こしてみると、昨日よりずっと軽いと気づいた。頭痛もなく、クラリとくることもない。立ち上がると、さらにそれが如実に感じられた。

 ――もしかして、本当に姉さんに移してしまったのだろうか。

 一瞬、そんなことが頭によぎった。姉さんは、「大学はまだ休みだから問題ない」と言っていた。でも、それでいいはずがない。

 しかし、すぐにそんな思いは杞憂だとわかった。

 サイドテーブルに置かれた大学ノート。僕の作詞ノートだ。ノートは『イカロス』のところで開かれていて、右端には丸みを帯びた文字で「ありがとう。いい曲ができたよ」とあった。もちろん僕の文字ではない。姉さんの文字だ。

 しばらくして、壁伝いに音が聞こえてきた。それは昨夜、僕がうつらうつらしながらも聴いていた曲。『イカロス』だった。

 音からしてわかる。姉さんは、ピンピンしてるに決まってる。むかしから姉さんは人一倍身体が強かった。僕よりずっとたくましかった。

 僕はその曲に合わせて言葉を口ずさみながら、階下へ向かった。今日は学校に行こう。元気が出た、そんな気がしたから。

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