そのあとは、ただ怠惰な空気だけが残された。姉さんだけは妙に熱心だったけど、僕らの中には「惜しかった」という思いばかりが残された。しかし気勢が削がれた今では、その思いを補填する気にもなれなかった。

 保志さんは居心地の悪さを感じたのか、セッションが終わってしばらくしたら帰ってしまったぐらいだ。姉さんが辛うじて「また一緒にやろうね」と声をかけたからいいものの、もしそれがなかったら、僕らからドラマーの存在は完全に消えていたかもしれない。

 夏の陽は長い。だけど今日ばかりはとても短いように感じられた。千鳥の親父さんは八時過ぎまで戻ってこないとの話で、楽器店も六時には店じまい。夕暮れが地平線の向こうに沈んでいくのを見ながら、円さんが一人で閉店準備を始めていた。

 僕と姉さんも帰る支度をしていた。いつまでも人の家でグダグダしているのも失礼だ。たとえ幼なじみの家だったとしても。

 姉さんは明らかに顔の奥にかげりがあった。無理もない話だったけれど、隠しきれないその思いが、僕には痛いほど分かった。


 夕飯はカレーだった。もらいもののナスが妙に余ってたらしく、ルウのなかには夏野菜ばかりが転がっていた。

 僕は姉さんよりも先に食べ終えて、さっさと風呂を済ませた。男の風呂なんて、カラスの行水だ。シャワーだけ浴びて頭を洗い、体を洗えば、適度に湯船に入って終わりだ。

 湯船に浸かっているとき、僕は何か口ずさもうとした。だけど、数時間前のことが脳裏によぎって、やっぱりやめた。

 あのとき、僕は一瞬だけロックスターになれたような気がした。ほんの一瞬だけど、初めてセッションしたときと同じ感覚になれたのだ。僕の声と、姉さんのギターとの境界が限りなくゼロに近づいて、溶け合う。あの感覚がしたのだ。

 ――もっとあの感覚を味わいたかった。

 僕はそう思いながら、鼻の下まで湯に浸かった。そして音を立てないようゴボゴボと泡を立てながら、『ロックンロール・スター』を口ずさんだ。


 風呂から上がると、僕は自室に戻ってしばらく呆然としていた。

 僕の部屋にはエアコンがない。昔はあったけれど、ずいぶん古い型のもので、一昨年とうとう壊れてしまった。おかげで去年からは扇風機だけで暑さをしのいでいる。

 うだるような暑さだ。窓を開けても、たいして気温は変わらない。ただ扇風機の風に当たっているときだけは、風が皮膚を愛撫し、すこしだけ体温を下げてくれるような気がした。でも、昼になればそれも無駄なこと。僕の部屋は西側に窓から思い切り西日が差し込む。そのため朝から恐ろしいぐらい暑くなる日もある。

 一方で、山側に窓のついている姉の部屋は、僕の部屋よりも少しだけ涼しい。だから、夏場はよく姉さんの部屋に涼みにいったりしたものだった。いまもそうだけれど。

 一階から母さんが見てるドラマの音が聞こえた。姉さんは風呂に入っているはずだが、もちろん水音が二階まで響いてくることはない。

 母さんが見ているドラマは、まるで昼ドラのような愛憎劇だった。女性がヒステリックな声を上げて、男を罵る声が聞こえてくる。

「もう付き合えないわ!」

 女がそう言った直後、ピシャリと肌を叩くような音が響いた。

 それから口論の音が一階から響いた末、エンディングの曲が流れた。最近流行っているポップシンガーの曲だった。僕はその歌手のことは詳しく知らないけれど、朝から晩までCMや着メロでしょちゅう耳にしていたから、曲だけは知っていた。でも、正直その曲が好きだとは思わなかった。そのシンガーは、姉さんたちが好きなアーティストとは明らかに何かが違う。時代? 国? ジャンル? それだけじゃない。何かが決定的に違う気がした。

 僕はその音漏れをぼんやりと聞きながら、ベッドに横たわっていた。先日、夏用のシーツに変えたばかりなのでスースーして気持ちよかった。


 エンディングが終わって予告が入り、CMに入ったところで階段を上がる音が聞こえてきた。姉さんだった。

 階段を一歩ずつ、トントンと登ってくる音。僕はその足音に耳を澄ませた。姉さんは僕の部屋の前で足を止め――おそらくそこで逡巡した――それから自室へと戻っていった。

 それからしばらくして、壁伝いに何かをあさる音がした。まもなく扉が開く音がして、また足音が僕の部屋の前で止まった。

「入るよ」

「うん、いいよ」

 僕はベッドから腰を上げた。姉さんが来るのは分かっていた。

「ちょっと付き合ってくれない?」

「なに、練習するの?」

「それもあるけどさ。さっき、円ちゃんからメールが来たの。今日の演奏、実は録音してたんだって。その音源をコピーして送ってきてくれたの。一緒に聴かない?」

「いいよ」

「よし。じゃあわたしの部屋ね。っていうか、雄貴の部屋暑いわね」

「西側だからね。仕方ないよ」

 僕らはそう言って、姉の部屋に入った。

 姉さんの部屋はいつもと変わりない。薄桃色のシーツを敷かれたベッドがあって、勉強机にはギターケースが置かれている。その隣にはノートパソコンがあって、本棚には少しだけ折り目のついた『教育学概論』が倒れていた。

「これこれ。これなんだけどね」

 と、姉さんは机上にあったパソコンを取り上げ、メーラーを開く。

 一方で僕は、窓を開けて扇風機の電源を入れた。首振りで、風力は弱。山際から涼しげな風が吹き込んできた。

「流してみてよ」

「うん。ちょっと待ってね、アイチューンズ起動するから」

 パッドを操作しながら、姉さんはベッドに腰を下ろす。僕はその隣に座った。

 まもなく、録音された音声が流れ始めた。

 はじめに流れたのは、何の統一性もない音の羅列。闘牛のように荒れ狂うドラムビートと、ざあざあと降る雨のようなベース。聴いていて心地よさはない。しかし次の瞬間、晴天の霹靂とでも言わんばかりに雷が轟いた。姉さんのギターの音だ。それが雨雲をつんざいて、一気に雨模様を快晴へと変えてしまった。

 それから、『ロックンロール・スター』が始まった。千鳥の親父さんが戻ってくる、そのときまで。

 自分たちの演奏を聴くというのは、なんともこそばゆいものだ。ある意味で、僕が感じていた『自分の声が自分のものでなくなるような感覚』は、その恥じらいをいくらか止めてくれていたのかもしれない。

 ただ、このとき僕が感じていたのは、やはり惜しさだ。もう少し演奏が続けられていたら、姉さんの奏でる音と僕の歌声との距離がゼロになったその先、さらに高みをめざせるのではないかと思った。でも、現にそれは失敗した。

 録音は、親父さんが出て行ったところで切れていた。姉さんのパソコンは、そこで再生を終了した。

「どう思う?」

「どうって。良かったけど……なんか……なんだかね」

 僕は、その何かを表せる言葉を探した。しかし、僕の頭のひきだしからでは、なかなか言葉は見つからない。なくした課題のプリントを探すみたいにすったもんだしていると、姉さんが僕の言葉を遮った。

「そうだよね。やっぱりさ、他人のふんどしで相撲をとるのはどうかと思うんだよ」

「え?」

 僕は驚いた。僕の思うイメージとは、まったく異なる言葉が姉さんの口から飛び出したからだ。

「自分たちの曲を作るべきだと思うんだよ、バンドをやるならさ。ほら、他人の言葉で口説くやつがいるかって話だよね。それって、ロックじゃないじゃん?」

「ロックじゃないって……?」

 僕は何も言い返せなかったけれど、ただ姉さんの言葉に従おうとだけは思った。

「そうと決まれば作曲だ! ねえ雄貴、歌詞考えてよ。わたし歌作るからさ」

「ええ……僕、詞なんて書いたことないんだけど」

「そんなこと言ったら、わたしだって曲書いたことないよ。でも、それってロックじゃん」

 姉さんはそんなことを言いながら、アコギを引っ張り出してきた。そしてベッドに腰掛ける僕に対面するようにして、イスに座り込んだ。ギターを構えて、姉さんは適当に弦を弾いて見せる。

「やってみようよ。ね、付き合ってよ」

 やっぱり、姉さんの考えはいつも突飛でもない。

 だけど、それに応えてしまうのが僕だった。

 

 姉さんは僕にまっさらな大学ノートを渡すと、それをアイディアノートにするといいと言った。そこに詞を書き込むんだという。僕は部屋から自分の鉛筆をとってきて、言葉と格闘することに決めた。しかしこれが想像以上に難しかった。

 いっぽう姉さんは、何かいいフレーズがないかと探し回るように弦を弾いていた。

 ぽろん、ぽろんと指の隙間から水が落ちるみたいに、音がこぼれ落ちていく。たまに出てくる調子っぱずれな音は、手の中から飛び出した鉄砲水だろうか。とにかくその飛び出た水たちは、ただ床を濡らすきりで、何か流れを作るようなことはなかった。

 僕はその音を聞きながら、ただ真っ白いノートを見つめていた。

「詞なんて書けないよ」

 僕はノートを傍らにやった。

「深く考えちゃダメだよ。ほら、学校で習った詩とか俳句だって、日常のふとした何気ないことを書いてたじゃない。そんなんでいいと思うんだよ」

「日常の何気ないことって……それならいくらでも書けるけど、それを詞にして歌うんでしょ?」

「そう。リズムをつけて。やってみようよ」

「うーん……」

 僕はノートを閉じて、ぼんやりと姉さんの部屋を見た。

 日常の何気ないこと。

 せっかくだし、姉さんの部屋についてでも書こうかと考えた。姉さんの部屋。そこには何があるのか、言葉にしてみようと思った。

 ふと目線をあげると、天井にシミがみえた。白い天井に、何か黒ずんだ痕がある。それはまるで瞳みたいで、誰かが僕らを見下ろしてるようだった。

「姉さん、あんなシミあったっけ?」

「シミって?」

「ほら、天井の」

「ああ、昔からあったよ。雄貴ってば気づいてなかった?」

「まあ、いま気づいたけど……。なんかあれ、目みたいで気味悪くない?」

「そう? わたしはね、見守ってくれてるんだと思ってるよ。お父さんや、お母さん。天国のおばあちゃんも、みんな。あの目を通してわたしを見守ってくれてるんだって。そう考えたら怖くないよ」

「見守ってくれてるか……」

 僕は姉さんのベッドに転がった。そして、大の字になってシミを見た。

 黒ずんだ瞳のようなシミ。それが、目となって僕らを見ている。僕らが――僕らが歌うのを見ている。

「……天井のシミがボクらを見てる。ボクらが歌い出すのをシミは見てる……」

 ふと、それを言葉にしてみた。詞にするみたいに。

 すると姉さんが弦を弾く手をいったん止めた。

「あ、それいいかも。ねね、こんな感じはどうかな。……天井のシミがボクらを見てる。ボクらが歌い出すのをシミは見てる」

 僕のつぶやきが、一瞬で歌に変わった。

 僕はその瞬間を見逃さなかった。聴き逃さなかった。それは今日感じた声と音が一体になった瞬間より、よっぽど煌めきを帯びたものだったから。

 僕の心はそれに突き動かされた。

「いいね。そのまま続けようよ。そうたとえば……」

 立ち上がって、目線を姉さんの部屋にあるものに移した。

 まだハンガーに吊されたままの高校の制服。もう着ないのに、きれいなまま押入の横にかけられている。でも、まるで血みたいに赤いリボンが首からほどけていた。

 その隣には本棚があった。棚に並んだ小説やコミック。懐かしいマンガから、きっと授業で使ったんだろう小難しそうな本までたくさん。その中には、古ぼけた『絵本ジョン・レノンセンス』があった。古本特有の甘い香りがする。僕はにおいを肺に取り込んで、それも詞にしようと思った。

 本棚の上には、まだ怪獣のぬいぐるみが乗っていた。その隣には古ぼけた人形も。姉さんが小学生のとき夏祭りの射的で当てたものだった。見た目はかわいらしいけれど、怪獣のぬいぐるみを抱く姉さんの姿は、思い返すと笑えてくる。

 僕は一通り姉さんの部屋を見回してから、頭の中で言葉をまとめた。なんだかイメージが湧いてきた。そう、この曲は姉さんと僕が歌い始めた時のことを歌っているのだ。五月のこと、姉さんが突然ギターを演奏し始めた日。僕はそのときのことを思い出しながら、言葉にしていく。

「……使い古した人形も見てる。ボクらが歌ってるのをじっと見てる」

「いいね、いいね! じゃあそのまま次いこってみよう。雄貴ってば作詞の才能あるんじゃない?」

「そういう姉さんだって、作曲の才能あるんじゃない?」

「えへへ、それじゃあ人気バンドになること間違いなしだね」

「まさか」

 僕らはそう言い合いながら、言葉を出し合い、音を出し合い、そして笑い合った。

 楽しい時間だった。姉さんと僕の二人きりで、一つのモノを作る。何かを作ることがこんなに楽しいだなんて思わなかった。


     ♪


「シスターズ・ルーム……?」

 ノートに書き起こされた詞と楽譜を見て、円さんは静かに声を漏らした。

 初めてのセッションから一週間ほど経ったころ、僕ら四人はあらためて集まることになった。本当はスタジオを借りるはずだったけれど、すでに町に一つだけのレンタルスタジオは予約でいっぱいだった。なので、また円さんの家だ。今日は定休日なので、このあいだのようなことにはならないはずだった。

「そう、名付けて『シスターズ・ルーム』。わたしと雄貴で作った曲だよ。せっかくバンド組むならさ、オリジナル曲で勝負しなきゃダメだと思って。ほら、わたしたちがやろうとしてるのってさ、結婚式とかでやるようなコピーバンドじゃないでしょ?」

「そりゃそうだけど、素人が適当に作った曲でうまくいくものか……?」

「じゃあ、聴いてみてよ」

 言って、姉さんは円さんからノートをひったくった。

 姉さんはギターをアンプにつなげてから、ノートをグランドピアノの上においた。売り物を机代わりにするのはどうかと思ったが、姉さんは止まらなかった。

 円さんはカウンターに背を預けて姉さんを見ている。ベースは肩からさげていたけれど、腕組みをしているので弾くつもりはないらしい。保志さんもドラムセットの前にはいたけれど、二本のスティックを片手で掴んでいた。二人とも姉さんの考えには少し懐疑的のようだった。

 でも、僕には自信があった。

「雄貴、いい?」

「いいよ」

 僕はマイクの前に立った。

 姉さんがピックを振り下ろす。オアシスの『ホワットエヴァー』とか『ドント・ルック・バック・イン・アンガー』みたいなイントロ。似てると言われても仕方なかった。だけど、でもそれで良かった。

 僕はマイクを口に近づけた。姉さんの無理を支えるみたいに。



 天井のシミがボクらを見てる

 ボクらが歌い出すのをシミは見てる

 使い古した人形も見ている

 僕らが歌ってるのをじっと見てる


 役目を終えて吊るされた制服

 真っ赤なリボン、シュルリと抜けて

 カミの甘い香りひとつ手にして

 ふと出た言葉を詩にして歌おう



 そのときだった。

 僕はふと、自分の声の後ろで流れている音色が姉さんのギターだけでないと気づいた。姉さんの作った歌に、共鳴するようにして保志さんのドラムが入ってきたのだ。

 それから続けざまに、円さんが入ってきた。姉さんの作った譜面を見ながら、円さんは「こうか?」と言わんばかりに弾いて見せる。

 僕はその瞬間を聴き逃さなかった。

 僕と姉の二人きりで始めたこと。姉の部屋だけに響いていた音楽が、一気に広がりを持っていった。

 姉さんが僕を見た。一節を弾き終えたところで、姉さんは何か唇をふるわせた。それは『シスターズ・ルーム』の演奏にかき消されてしまったけれど、僕にはよく分かっていた。

 ――やろう、姉さん。

 曲がサビに入る。



 五月の桜に落ちていく

 桃色のなかへ沈んでく

 五月の桜に落ちていく

 花のかおりへ沈んでく



 その旋律に、僕は感動していたのだと思う。ピアノの隣で僕と姉さんが歌い、その後ろから円さんと保志さんが、僕らの思いつきを本当に曲へと変えてしまった。

 間奏に入ったとき、僕は感動を隠し切れず、思わず円さんたちのほうを振り返った。みんないい笑顔だった。このあいだのバラバラな感じも、重苦しい空気もない。ただ、一つのモノを生み出したということに快感を覚えている。僕もそうだった。

 間奏は姉さんの独壇場。夜更け一緒に考えたリフが炸裂している。姉さんは自慢げだ。僕も自然と姉さんを見てて嬉しくなった。

 だが、その次の瞬間だった。

 また保志さんのドラムが空回りしたのだ。妙なところでシンバルの音が入った。

 僕が保志さんのほうを振り向くと、彼は右手でリズムを取りながら、左のスティックで店の出入り口を指していた。その先にあったのは、白塗りのバン。側面には「千鳥楽器店」とゴシック体で書いてある。そこから降りてきたのは、言うまでもなく親父さんだった。

 厳つい顔をした親父さん見て、保志さんは萎縮しているようだった。このあいだ彼はずっと睨まれっぱなしだったし、仕方のないことだった。

「どうする、中断するか?」と保志さん。

「今日は定休日だ。客がいなければ演奏していいと言っていた」

 円さんはそう言ったが、しかし顔には不安の色があった。そしてその不安は、彼女の心から指へと向かって広がり、音となって表出した。重くくぐもったベースサウンド。それが円さんの心境を表していた。

 でも、姉さんは違った。

「続けようよ! いま止めたら、ぜったい後悔する。もったいないよ。……でしょ?」

 姉さんが間奏を弾き終わった。そして横目に僕を見た。同意を求める、あの煌めいた瞳。僕はこの目をした姉さんには逆らえない。

 親父さんが店に戻ってくる。いつもの強面とともに。ドアに手をかける。

 そのとき、僕らは最後のサビに入った。



 五月の桜に落ちていく

 桃色の中で沈んでく

 五月の桜に落ちていく

 花のかおりへ沈んでく


 あなたのなかへ沈んでく

 あなたのなかへ沈んでく



 内心、僕もおびえていた。またあの鋭い目つきとともに、冷めた言葉を浴びせかけられるんじゃないかと思った。親父さんは昔、町一番の荒くれ者だったみたいな噂まである。その腕はいまでも衰えていないはずだ。そんな人をまた怒らせたら? 仏の顔は三度まで? あの人が仏とは思えない。

 しかし、僕らの不安は杞憂に終わったのだ。

 店に入ってきたとき、親父さんはいつもの強面だった。でも僕らの歌を聴いたとたん、強面ぶりは変わらなかったけれど、なぜか彼が穏やかな仏のような笑みを浮かべたのだ。アルカイック・スマイル、というやつ。

 そうして歌いきった僕を横目にしながら、親父さんはバックヤードに向かっていった。そのとき彼は、漏らすように言葉を残していった。

「客のいるときはやんなよ」

 それは、前と同じ台詞だった。

 だけれど、明らかに声色が違った。それだけじゃない。親父さんは、姉さんの弾くアウトロに合わせるようにハミングし、保志さんのドラムに乗るように指を鳴らしながら、店の奥にはけていったのだ。

 僕は一時放心状態にあった。姉さんが弾き終わって、曲がとうとう終わりを告げても、僕は黙って呆然としていた。

 ただ、「やったんだ」という思いだけが胸の内にこみ上げてきていた。


     ♪


 僕の放心状態を解いたのは、やはり姉さんだった。

 演奏が終わってしばらくのあいだ、誰も言葉を発しなかった。楽器を鳴らすこともなかった。ただ三分間ぐらい沈黙が続いていたと思う。

「……すごい……ねえ、ねえ! いますっごいわたしたち『バンド』っぽくなかった! ねえ?」

 沈黙を破った姉さんは、武者震いのように声を震わせていた。

「確かに、それっぽかった」と円さん。

「でしょ、でしょ! だからさ、これはもうわたしたち本格的に一緒にバンド活動するべきだと思うんだ。異議のある人は?」

 誰も手を挙げなかった。首を横に振って、みんな姉さんについて行く気でいる。

「よし。じゃあさじゃあさ、手始めにバンド名を決めようよ。わたしね、いろいろ考えてたんだ! 『テリー・ヘッド』ってのはどう? テリーっていうのは、イギリス英語でテレビって意味でね……」

「そりゃ踊れるネガティヴ野郎だぞ、舞結。それに、いきいなりバンド名を決めようってのは早計すぎる。あたしたちは、まだ何かコンテストやライブに出ようってわけでもないんだぞ。……ただ、もし名前を決めるなら、あたしは『ザ・ディトゥアーズ』に一票だな」

「ええ……もうバンド名決め始まってんすか」

 と、出遅れた保志さんがドラムセットから這い出て来た。

「しかもディトゥアーズって、確かロジャー・ダルトリーのバンドっすよ。テリー・ヘッドも、そりゃレディオヘッドのコピーバンドじゃないんすから……。まあ、そういうというわけで、俺は『ザ・スターズ』に一票!」

「保志くんだから、星ってわけ?」

 姉さんが毒づいた。穏和な姉さんには珍しいひねた口調だった。どうやらバンド名については、みんな譲れぬ思いがあるらしい。

 さっきまでみんな一つにまとまっていたというのに、いきなりあの『音楽性の違いで解散』の片鱗が見えてきた。僕は思わず頭をもたげてしまった。

「じゃあ、『スマイル』でどうだ」と円さん。

「それはクイーンの前身、ブライアン・メイとロジャー・テイラーのバンドじゃないっすか。パクリは禁止! スターズがダメなら『ズヴェズダ』なんてどうっすか?」

「それってロシア語で星って意味じゃん……」とまた姉さんが毒づいた。

 不毛な口論だった。

 姉さんはどこかのバンドからもじった名前を付けようとするし、円さんは有名バンドの前身の名前やら、改名前の名前を押してくる。いっぽう保志さんは自分の名前を押したいらしい。

 僕はなんだかバカらしくなって、近くに腰を下ろした。また足下にタンバリンが転がっていたので、頭に乗っけてみた。今日はよくバランスがとれる。落ちそうにない。

 と思っていた、その矢先だ。

「じゃあ、雄貴はどうなの?」

 突然、姉さんが僕にふったのだ。

 驚いて、僕はタンバリンを落としかけた。すぐにキャッチしたから良かったものの、あわや地面に衝突というところだった。

「ぼ、僕……?」

「そう。詞を書いたのは雄貴だし、ネーミングセンスはわたしよりあるかなと思って」

「ええ、そんなこと言われても……。バンド名でしょ? なにかみんなのイメージとか、目標みたいなのは……」

 すると、一斉に三人から答えが返ってきた。でもその三つともがバラバラで、どうにもひとまとまりになりそうにない。結成前から解散の危機とは最悪だ。

 僕は少し考えて、でも結局気の利いたバンド名は思いつかなかった。だから、茶を濁すように答えた。

「だったら、『シスターズ・ルーム』でいいんじゃないかな? 曲名と一緒で。このバンドだって、元をただせば姉さんの部屋からはじまったんだし……」

「なるほど……悪くないかも、雄貴、それでいこう!」

 姉さんは高らかにグーサイン。僕はあっけにとられた。

「『シスターズ・ルーム』か。いいかもな」

 円さんまでそんなことを言う。

「俺も異存はないっすよ」

 保志さんまで。

 結局、僕の一言が姉さんを乗り気にさせてしまった。

 そして姉さんはあの煌めいた瞳で、今日このとき宣言したのだ。

「よし、じゃあ今ここにロックバンド『シスターズ・ルーム』の結成を宣言します!」

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