6
土曜は半日授業で、試験対策の特別授業を受けさせられた。僕は金曜に小テストの補修もあったから、いかんせん金曜から土曜にかけてまったく週末という感覚がなかった。しかし、それでも半日授業が終わると、ようやく解放されたという安堵感があったし、なにより僕には約束があった。
放課後、僕は昇降口で南さんと再会した。彼女は僕を待っていたようで、もう靴も履き替えた状態で玄関前に立っていた。彼女はときおり、下駄箱を通過するクラスメートと言葉を交わしつつ、それでいて僕を待っていたのだ。なんだかむず痒かった。
南さんは僕を見つけると、必要以上の言葉は語らなかった。ただ顎で外をさして、無言で「はやくして」と言うだけだ。だから僕は急いで靴を履き替えて、学校を飛び出した。
彼女が口を開いたのは、学校を出てから五分ほどしたとき。信号を二つまたいだあとのことだった。
「あーあ、おかしいったらありゃしない」
突然、南さんはそう言って笑いだした。今の今まで吹き出すのをこらえていたみたいに。
僕は先ほど同様に沈黙を守っていて、何も言わなかった。
「いやさあ、さっき昇降口のところで泉君のところ待ってたじゃない? そしたらさ――たぶん泉君が来る五分ぐらい前かな――軽音部の二人が来てさ、『今日このあとスタジオで練習するんだけど、一緒に来ないか』って言うのよ。それでアタシ冗談めかして、『先約があるから無理。これからデートなの』って言ったのよ。そしたらアイツらすごい形相でさ、『俺たちのが演奏はうまいぜ』とか何とか抜かすの。アタシの気を惹きたいのね。で、あげく背負ったギターを引っ張り出そうとまでしてさ。アタシなんだかおかしくって……」
「それ、笑える?」
「笑えるよ。ほんと」
彼女は、笑いの副産物として出た涙を拭った。おかしくて腹の底までよじれているらしい。
「だってさ、アタシってば『ロックシンガーとデートだ』って言ったのよ。そしたら連中張り合っちゃってさ。しかもアイツら、もちろんその相手が泉君だなんて知ってないわけ。それを考えたら楽しくってさ。泉君がロックシンガーなのを知ってるのって、考えて見ればウチのクラスでアタシだけってことでしょ? なんか楽しいじゃん」
「楽しいって……」
僕はぼつぼつと語りながら、そのじつ頭の中では様々なことを考えていた。
まず第一に、彼女が平然とデートだと口にしていること――もちろん冗談だろうが。第二にクラス内において僕らだけの秘密ができてしまったこと。僕はその秘密を保持するということが、まるで姉さんとの秘め事のように思えてしまったのだ。かつて、姉さんと二人きりで趣味に興じた日々。あの小さな部屋での、小さな遊びの思い出。それが突然、脳裏にふっと蘇ってきたのだ。
「そうよ、楽しい。なんだかんだでアタシ、泉君たちのバンドに一目惚れしちゃったみたいだしさ」
「そうなの?」
僕がそう問うと、彼女はうなずいて、
「そう、一目惚れよ。泉君の歌も好きだったけど、なによりお姉さんのギターソロ。カッコよかったじゃない。なんかパンクって感じで。まあ、きっと前の列にいた男どもは、お姉さんのスカートがヒラヒラ揺れてるんで興奮してただけなんだろうけどさ。アタシはちゃんとパフォーマンスに注目してたから。その点、アタシはあの場では唯一正常な視点でシスターズ・ルームを見ていたファンと言っても過言ではないかな」
「……あのとき、やっぱりみんな姉さんを性的な目で見てたわけ?」
「じゃないの? 男ってほんと単純よね。……なに、泉君、もしかして妬いてんの? パンツぐらいならアタシの見せてやってもいいけど」
「いいよ、そんなの。別に」
「そんなのって言い方はひどくない?」
南さんはそう言って、僕にあっかんべーして見せた。
自転車を押して、駅の方向へ。女の子と二人で歩いている。そんなことが、まさか起きるとは僕自身予想していなかった。でも、これは果たしてよいことなのか。僕は姉さんに問いたかったけれど、そんなことはできない。
駅舎が見えてくるころには、僕らはこの間のライブの話から、いつしか音楽の趣味の話。それから今日いく場所の話と、たくさんの雑談を繰り返していた。
僕らが向かったのは、隣町にあるショッピングモールだった。つい数年前にできたばかりの巨大複合娯楽施設で、僕には縁のなさそうな服飾店から、ゲームセンターやボウリング場、映画館、スポーツ用品店や楽器店などが所狭しと軒を連ねている。どうにも僕らが生まれる前から計画は始まっていたらしく、何年もかけて土地の権利者と交渉を重ね、ようやくオープンしたというらしい。おかげで、僕らは何もない地元から少し電車に乗れば、こんな娯楽施設に来れるようになった。数年前まではただの農地だったというのだから、まったく僕ら以前の高校生はどこで遊んでいたのか想像できない。
南さんの目当ては映画館だった。街で唯一のシネコンがこのショッピングモールの五階にある。それ以外の映画館といえば、昔ながらの座席指定のない劇場ばかりで、やっている映画といば子供向けのヒーローものか、老人向けの古めかしい邦画ばかり。若者が来たがるようなハリウッド超大作や恋愛映画は、このシネコンでしかやっていない。
しかし南さんの目当ては、話題のハリウッド作でも、女子高生に人気の少女マンガ原作の映画でも無かった。
僕らが映画館に着くと、すでにチケットカウンターにはちょっとした列ができていた。最後尾について順番待ちしていると、南さんがおもむろに財布を取り出した。
「アタシ、ここの会員だからさ。高校生料金よりも安くなるよ」
「そうなんだ。ところで、何の映画が見たいの?」
「あれ」
と、彼女は財布からカードを抜き取り、そのままカウンターにある液晶画面を指さした。
そこに映っていたのは、一日に二回しか上映予定のない作品だった。
「いわゆるSFスリラーかな。低予算映画だけど評判は良くてさ。東京じゃもう半年前に公開してたんだけど、こっちじゃ遅れに遅れて、そのうえ公開は二週間だけ。しかも一日に二回しかやらないんだってさ」
「それ、おもしろいの?」
「評判はいいみたい。というか、アタシは映画じゃなくってさ、好きなバンドがこの映画のサントラをやってるっていうから見ようとおもっただけで。でも、なんだか女子高生一人でこういう映画行くのもどうかと思うじゃない?」
「そうかな?」
僕は姉さんの例を思い出した。姉さんは映画にハマっていたとき――それは高校二年のころだった――僕と二人でしか見に行かなかった。思えば、姉さんが一人で映画館に行っているとこなど見たことがない。
「たしかに、そうかも」
「でしょ。かといってこういう人を選ぶタイプの低予算映画ってさ、女子はぜったい見ないの。見るとしたらあっち」
と、今度はメンバーズカードの先端が右端の液晶に向かった。空席率がバツ印になった映画がある。最近流行りの恋愛映画だった。
「たまにならああいうのも見てやってもいいけどさ、アタシの趣味じゃないんだよね。かといって、ほら、男子が見たがるのはああいうのでしょ?」
メンバーズカードは真ん中へ。ハリウッドのアメコミ映画をさした。
「まあ、アタシもアクション映画好きだけどさ。でも、男子ってだいたい女子に気使ってあっちの恋愛映画のほうを見せたがるのよね。ほら、軽音部のアイツらもそうだったの。アタシはそんなのよりね、サヴェージズが劇中でどう使われるかのほうが気になるってのよ」
そう言ったところで、列が一歩先に進んだ。二つ前の親子連れがカウンターに向かう。前のカップルが行けば、次は僕らだった。
「それで僕に白刃の矢が立ったってわけ……?」
「そういうこと。それに、ロックバンドの話もいろいろ聞きたいしね。ちょうどいいと思って」
「僕は気を使わないし、恋愛映画も見たがらない……と?」
「そこまでは言ってないけどさ。でも泉君って、思ってたより話しやすい人だなって思っただけ」
前のカップルが呼ばれ、続けて僕らも呼ばれた。
南さんは慣れた様子でチケットカウンターへ。ポイントを使ってくださいとか、席は真ん中のほうにしてくださいとか。トントン拍子で進んでいって、気づけば二人で千円ずつ出し合ってチケットを買っていた。
僕らが予約したのは、午後四時半からの回だった。しかし学校を出て、かれこれ一時間。まだ午後二時だ。映画が始まるまで二時間以上ある。そこで僕らは、ショッピングモールの中を見回ることにした。
南さんは、店舗が軒を連ねる通りに入ると、水を得た魚のように動き回った。姉さんもそうだが、女性はこういう場所に来ると落ち着きを失う。右へ、左へ。行ったり来たり。別に買うわけでもないのに、あっちこっちの店を見て回る。
「ほら、こっち。ね、これかわいくない?」
そう言って、南さんは服飾店に駆け込んだ。かわいらしい、と言うよりはフォーマルカジュアルといったような雰囲気の店だった。クリーム色のジャケットを着たスタッフが猫撫で声で「いっらいしゃいませ」と儀礼的に挨拶をした。
南さんが飛びついたのは、黒っぽい紺色のブラウスだった。それを着ているマネキンは、ブラウスの上から黒のチェスターコートを羽織っている。首からはシルバーのアクセサリーをさげ、両手はコートのポケットに突っ込まれていた。
「かわいい、かな?」
僕はそう言いながら、彼女の私服のことを思い出した。
いま、南さんは学生服姿だ。いつもの前髪パッツンの黒髪に、膝より短いスカート。その上にブレザーという女子高生然とした服装だ。けれどこのあいだのライブの時と言えば、彼女の格好はまったく違っていた。髪には耳元から真っ青なエクステが伸びていたし、上はバンドTシャツと黒のパーカー、そして下は赤黒のミニスカートという黒を基調にしたスタイルだった。たしかに彼女にはピンクや白という明るい色は似合いそうにない。ただ彼女の私服は、いわゆるところのパンク……? に近いものがあるように思えた。あるいは、ゴスとでも言おうか。きっと好きなバンドのファッションスタイルに影響されているのだろう。
南さんは、ブラウスを手にとって上半身に当てた。そして僕に向かうように立った。
「どう、似合う? ……って、なに腑抜けた顔してんの? 聞いてる?」
「いや、聞いてるけど……」
実際の所は考え事優先で、そこまで聞いていなかった。南さんはきっとそれを見抜いていたのだろう。
「うそね。ぜったいほかのこと考えてたし。今はアタシとの暇つぶしなんだからさ、こないだみたいに楽しませてよ。ロックシンガーさん」
「だからロックシンガーじゃないってば」
「あのさ、才能あるんだから自己卑下すんなってこないだ言ったばっかじゃん。なに、もしかしてまた往来で歌いたいの? 今日は一段とオーディエンスがいるけど?」
「え? 歌うって、まさか……?」
「そのまさか。それがイヤならちゃんと付き合ってよ」
そう言うと、南さんは僕の手を引っ張って店の奥へ。あっちに良さそうなスカートがあるとか、向こうにかわいい帽子があるとか口にしながら。
僕は彼女に引っ張られるがまま、ショッピングモールを駆けずり回った。誰かに振り回されて、いろんなとこに引きずり出されるのは嫌いじゃない。正直なところ、付き合っているうちに南さんのことを意識せざるを得なくなってきていた。
服飾店ばかりを見回っていた南さんだったが、彼女もある店に立ち寄ると、腰を落ち着けるようにしてそこに居座った。レコードショップだ。
新品と中古のCDが入り交じる店内で、彼女は新作のほうのコーナーに足を運んだ。
「ネットで探すのもいいけど、こういうとこで試聴するのもいいのよ」
そう言う彼女の足取りは、やはり軽やかで、何度も店に訪れているようだった。映画館の時と同じだ。
彼女が真っ先に足を止めたのは、洋楽のロックコーナー。試聴コーナーにはCDプレイヤーがあって、それがヘッドフォンとつなげられていた。南さんは黒のヘッドフォンを被ると、律儀にもはじめから再生を開始した。
しばらくは、南さんは押し黙って曲を聴いていた。ときおり指先がスカートの上で跳ねたり、ローファーが床の上でリズムを刻んだりしながら。
僕は彼女から離れないようにしつつ、あたりにあるCDを見て回った。見れば、クラシックロックのコーナーに円さんが好きな曲がある。また姉さんの好きなオアシスは、Oの棚の中でも比較的大きめのコーナーが作られていた。その近くには、オアシス解散後のバンドのCDもあった。
僕がそのCD、ノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズの『チェイシング・イエスタデイ』を手に取ってみた。特に意図は無かったけど、純粋に気になったのだ。
オアシスの話は、姉さんから何度も聞かされていた。姉さんが好きなバンドだったから。彼らは何年か前に兄弟で分裂し、今ではお互いに違うバンドを持っているのだという。兄はソロ活動をはじめ、弟は『ビーディ・アイ』というバンドを結成し、解散した。
僕はその二人の行く先に、自分たち姉弟を照らし合わせたのだろうか。いや、そんなはずはない。僕らはアマチュアもアマチュア。解散とかなんとか、そんなことを言う立場でもないのだから……。
でも僕が、姉さんがどこか遠くに行ってしまうように感じていたのは確かだった。
僕はアルバムの裏面、曲名の一覧をまじまじと見ながら思った。
気がつけば、南さんのウィンドウショッピングに付き合わされて二時間が経過していた。そのころにはもう足は棒のようになってクタクタで、とても映画が見れそうには思えなかった。
いっぽうで南さんはと言えば、まだ元気があり余っている様子で、僕の手を無理矢理引いて劇場まで連れ込んだ。その強引さは姉さん以上だったけれど、正直なところ嫌いじゃなかった。
彼女が見たがっていた映画は、劇場内でももっとも小さいスクリーン、七番での上映だった。入ってみると、僕らが一番乗り。そのあとチラホラと大学生風の男二人組や、仕事休みとおぼしき男性。また老夫婦が入ってきた。でも、若い男女で連れ立って見に来ていたのは、僕と南さんの二人だけだった。
僕らはF列の中央に座った。その列には、僕ら以外誰もいなくて、ちょうど真ん中に二人座るという格好だった。南さんが近くにいると如実に感じられ、なおさら緊張した。
やがて照明が落ちて彼女の顔が見えなくなると、僕は一安心した。けれど、南さんが持ち込んだ飲み物を飲む音や、薄気味悪いシーンで体を震わせたときの衣擦れの音だとか、微妙に感じられるその体温だとか。僕はその一つ一つに緊張せざるを得なかった。
正直、映画を見ていられる状況ではなかった。
*
「いやー、音楽の使い方がうまかったね。あの沈黙するシーンの感じ、すごかったよね。まるで『2001年宇宙の旅』みたいでさ」
鑑賞後の彼女はこんな様子だった。
南さんは、エンドロールの最後の一文字が消えるその瞬間まで決して席を立つことなく、また映画が終わったあとは何一つ口にしなかった。僕は南さんは口の回るほうだと思っていたけれど、このときの彼女は違った。劇場を出るまでずっと押し黙ったまま。それからようやく映画館を出ると、劇場の隣にある喫茶店を指さして、「寄ってこっか」と口にした。これが映画を見たあと彼女が初めて発した言葉だった。
それから店内に入り、注文したカフェラテが届いたとたん、彼女はそれまでため込んでいたものを爆発させた。すなわち、その映画についての感想や考察、すべてを。
「エンドロールで流れたサヴェージズもかっこよかったよね。『ハズバンズ』って曲」
「えっと、それが南さんの好きなバンド?」
「その一つかな。イギリスのパンクバンド。ボーカルの女性がさ、ほんとパンクって感じで。飾らないかっこよさがあっていいんだよね。映画のイメージと確かに合ってるかもしれないね。ほんと、DVD出るまで待とうかと思ったけど、これは映画館の音響で聴いて正解だったね」
南さんはひとしきり感想を言い終えると、ご満悦といった様子でカフェラテを啜った。ただ猫舌なのか、すぐさまカップを口から離して、ふうふうと息を吹いてからソーサーに戻した。
「で、話を本題に戻そっか」
ソーサーとカップが陶器特有のカチャンという音を鳴らしたとき、彼女は僕に目を向けた。
「本題?」
「とぼけないでよ。バンドの話に決まってんじゃない。シスターズ・ルームの話。詳しく聞かせてもらうって言ったじゃない」
「詳しくって、たとえば?」
「たとえば、そうねぇ……そうそう、舞台に立つってどんな感じなわけ? アタシ、今までいろんなステージは見て回ってきたけど、そっち側に立ったことはなくってさ。どうなの実際? やっぱりさ、体育館のステージに立つのとは違うでしょ?」
「そりゃ、学校の体育館とは違うけど……」
僕は口ごもりながら、喉奥から吐き出すべき言葉を探した。
思い起こす。千鳥楽器店での初めてのセッション。それからバー・セヴンでの初ライブ。そして先日のライブハウス・オーバーチュアでのバンドコンテスト……。あのとき、僕はいったい何を感じていたのか。
ひとことで言ってしまえば、それは興奮だったと思う。姉さんの演奏と僕の声とが限りなく近くなり、溶け合って、それがまた熱狂の渦のへとあふれ出していく……そのはずだった。
少なくとも、壇上で無我夢中だったときはそう感じていた。でも、いまはどうだ? 僕はいま、あのステージを憎く感じていた。なぜだかわからないけれど、舞台という魔物が姉さんを奪い去ってしまったような、そんな感じがするのだ。
しかし、僕はきっと見栄を張りたかったのだろう。彼女の前で。女の子の前で。
「気分はいいよ。なんだか、熱気に包まれるような気がするんだ。音の中に埋もれていって、熱くなるんだよ」
「なんか抽象的。でも、作詞家だしそんなもんかな」
「作詞家じゃないって」
「謙遜しちゃって。で、シスターズ・ルームの今後の展望はいかがなもんなの?」
「今後の展望? ああ……実は、年末にまたライブが決まったんだ」
「年末? どこで?」
「また同じライブハウスで」
「オーバーチュア? もしかして『サフラゲット・シティ』と一緒?」
「そうだと思うけど。姉さんが、その人たちの前座になったって言ってた」
「ウソでしょ? いやぁー、いいなあ……。『サフラゲット・シティ』の前座でしょ? アタシぜったいに見に行くよ」
「うん」
僕は短く答えて、ぬるくなったコーヒーに口を付けた。
ただ、その実僕は悩んでいたのだ。姉さんの言われるがまま、年末のライブに参加すべきか否か。確かに舞台に立ったとき、僕は興奮を覚えていた。あの感覚は何にも代え難いものがある。でも……。
そのままでいたら、僕は姉さんが遠くに行ってしまうのを黙って見ているようで、辛くなってくるのだ。ステージという魔物が、姉さんを部屋の中から奪い去ってしまうような気がして……。だから僕はステージに上がってはいけない。そう思った。
しかし、それでも、僕は見栄を張った。僕は、あくまでもロックスターとしての『泉雄貴』を彼女に見せたかった。泉舞結の弟しての僕ではなくて……。
*
その日僕らは公園で暇をつぶすこともなく、夕方には電車に乗って帰った。まったく健全な高校生だ。
地元の駅は、景色こそ先日のライブ後とまったく同じだった。けれど青黒くなっていく空の下、田舎の駅前はいつもより寒々としているように見えた。店は営業中だし、塾帰りの小学生や中学生にあふれているというのに。
改札を出て、階段を下って駅舎を出たところで僕らは足を止めた。僕にとっては、南さんに別れの挨拶を告げるためだった。
「ねえ、雄貴くん」
僕が足を止めたその瞬間、彼女は僕をそう呼んだ。
僕は目を白黒させた。僕を下の名前で呼ぶのは、家族ぐらいしかいなかったから。
「……いやだった? 下の名前で呼ばれるの?」
「いや、そういうわけじゃ」
「そう。なら今後は親しみを込めて雄貴くんって呼ぶから。アンタもアタシのこと奏純って呼んでいいから」
「じゃあ……奏純さん?」
「よろしい。それじゃ、また今度。学校でね」
――奏純さん。
彼女は僕に笑いかけて、それから……。
僕はただ、別れの挨拶を交わそうとしたんだ。「さよなら」って。あるいは、「またね」って。「また学校で」って。
でも、そう口にする前に、僕の唇は塞がれた。奏純さんの唇によって……。
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