夢か現か分からなかった。

 似たような感覚は今までに何度もあったけれど、今回のは特にキツかった。頭がクラクラして、ともすれば足を踏み外してしまいそう。体が火照って、頭がぼーっとして、平衡感覚が狂ってしまって……。

 帰り道、僕は何度も足を側溝に落としかけた。それぐらい気が動転していた。現実を認識しきれていなかった。

 ――奏純さんが、僕に、キスをした……?

 思い起こすと、さらに頭がクラクラしてくる。夢か現実か分からない。


 結局、普段の倍以上かけて駅から自宅まで戻ってきた。着いたころには、もう頭は覚めていたけれど、しかし浮ついた感覚はそのままだった。

 冷え切った外気に冷静さを呼び覚まされ、僕はいつものように帰宅。玄関を開けて、条件反射的に「ただいま」と口にした。

「おかえり」と母さんの声。

 キッチンからは、醤油の香りと母さんの声が流れてきた。母さんはお玉を手に取り、鍋の中身を味見している。どうにも今日は大根と豚肉の煮物らしい。

「もうすぐご飯だから。手洗って、早く着替えてきなさい」

「わかった」

 僕は短く答えて、階段を駆け上がる。

 姉さんはリビングには居なかった。


 久しく三人そろっての夕食だった。母さんが土曜にパートが入ってないのは久しぶりのことだ。税金対策のために年末はシフトを減らしてもらっているとのことらしい。

 夕食を終えたあとの時間は緩やかに流れた。洗い物をする母さんと、ソファーに座ってテレビを見る姉さん。僕はダイニングテーブルでデザートのプリンを食べていた。

 テレビは、『○○年代名曲特集』などという企画をやっていた。僕らのおじいちゃんの世代から、つい最近のヒット曲まで。その年代に流行った曲を垂れ流すという企画だ。

 僕は、姉さんがその番組を興味をもって見ていたようには思えなかった。姉さんは、顔にこそ退屈さは出していなかったけれど、僕には分かった。いつも姉さんが聴いている、あるいは弾いている曲と触れあっている時と、今の姉さんは目の色が圧倒的に違ったからだ。

 そのうち八〇年代後半に差し掛かると、母さんが洗い物ついでに歌を口ずさみ始めた。

「懐かしいわねぇ。二人には分からないかもしれないけれど、母さんが若いころはみんなこの曲を聴いてたのよ。父さんだって、昔はギターで弾き語りしてたぐらい」

「ふぅーん」

 ソファーの上で、姉さんが怠惰な声を上げた。

 かと思うと、姉さんはソファーから腰を上げた。

「お母さん、わたし先にお風呂入ってくるから」

「あら、もう沸いてたっけ?」

「さっき沸いたってアラーム鳴ってたじゃん。先入るから。いいよね、雄貴?」

 姉さんが僕のほうを見た。

 僕は、思わず目線をそらした。そして何も答えなかった。

「じゃあ、お先。ああ、それと雄貴、あとで話したいことがあるから」

 そう言って、姉さんは僕の肩をポンと叩いて、居間を出て行った。

 僕は何も言えず、ただ目を伏せていた。


 姉さんがお風呂を上がってから、続けて僕が入った。母さんは好きなドラマが始まったらしく、風呂どころではなかった。

 服を脱いで洗濯かごに放り込んでいるとき、僕はたまたま視線が鏡にいった。洗面台にある三面鏡だ。

 僕はそのとき、鏡に写った自分の顔を数秒間まじまじと見つめていた。そして、ふと疑問に思った。南――いや、奏純さんは、この顔に口づけしたのか、と。

 僕は誇りよりも、恥じらいと罰の悪さを感じて、鏡から目を反らした。そして、逃げ込むように浴室に入った。

 浴室には、まだ姉さんが洗髪をしたあとがあった。シャンプーの残り滓――シャボン玉が宙に浮かんでいた。でもそれはすぐに弾けてしまって、代わりに石鹸のいい香りをまき散らした。

 それは姉さんの匂いだった。

 僕も同じシャンプーを使っているはずなのだが――だいたい母さんが特売の日にまとめて買ってくるものだ――それでも、僕と姉さんでは違う匂いになる。僕がいくら姉さんと同じシャンプーで洗髪しようとも、僕からは僕の匂いがするだけ。いくらがんばっても、姉さんにはなれない。姉さんには近づけない。

 シャワーを浴びて、無心で身体を洗った。肌をすべてけずり落とすような勢いでアカスリを身体に這わせた。顔から目鼻をこそぎ落とすような勢いで洗顔した。

 でも、不安は変わらなかった。

 泡だらけの全身を温水で洗い流し、それから曇った姿見を手のひらで拭った。にごった鏡面には、にごった自分の顔が映っていた。

 それは果たして、僕自身がにごっていたからなのか。鏡がくすんでいたからなのか。それとも、水滴の付いたまつげがそう見せているだけだったのか……。


 風呂から上がって部屋に戻ると、すぐに姉さんが僕を訪ねてきた。でもそのときの姉さんは、ドアをノックしてから、ただ「入るよ?」と確認をとるだけだった。

 僕は控えめな声で「うん」と答え、姉を招き入れた。

 姉さんは、その手にノートパソコンとルーズリーフを抱えていた。パソコンを床の上で開くと、舞結姉さんは急に説明を始めた。

「この間さ、わたしの作詞で曲作ってるって言ったじゃん? 大学の友達と、円ちゃんと一緒で」

「言ってたけど……」

「できたんだ、曲。それでさ、次のライブで演奏しようと思って。今日ね、円ちゃんと一緒に合わせてみたの。歌はわたしが歌ったから、ちょっと下手っぴだけどさ。音源と歌詞は用意したから、ちょっと確認しておいてくれない? 明日の練習でやるから」

 そう言って、姉さんはルーズリーフを一枚僕に手渡した。そこには丸っこい女文字で詞が書かれていた。僕よりも、ずっと綺麗な字で書かれた言葉たち。だけどどうしてだろう。僕はそれがとても汚いものに見えた。姉さんだけじゃない、ほかの誰かがベタベタと触りまくって、ようやく僕の手元に回ってきた。もう廃棄寸前の図書館資料みたいに。

 僕はその紙をおそるおそる手に取った。タイトルは、『マイ・グッド・ラック・ソングス』作詞は泉舞結と控えめに記されていた。

「音源、雄貴のアイポッドにコピーするからさ、ちょっと貸してくれない?」

「いいけど……」

 僕はハンガーにかけた制服のポケットから、青いアイポッドナノを取り出した。姉さんはケーブルをつないで、すぐさまコピーを送った。ほんの一瞬のことだった。

「じゃあこれ、聴いておいてね。わたし今日は眠いから、もう寝るね。明日早いし」

「うん。練習は何時からなの?」

「十時から。九時半に円ちゃんが迎えにくるって。明日はね、オアシスの『フォーリング・ダウン』と、さっきの『マイ・グッド・ラック・ソングス』。あと時間があれば『シスターズ・ルーム』と『イカロス』もやる予定だから。ちゃんと覚えといてね」

 姉さんはそう言いながら、大あくびをあげて部屋を出ていった。

 姉が立ち上がって、扉を開けて、僕の部屋から出て行こうとする。

 僕はその後ろ姿に何か言葉をかけようとした。だけど何を言うべきかすっかり失念してしまって、結局まぬけに口を開けているだけだった。


 零時をまわったころ、僕は一人、暗い自室の中でベッドに潜り込んでいた。布団の中では、アイポッドの青白い光が瞬いている。いま部屋にある光は、それだけだった。

 姉さんが帰ったあと、僕もすぐに寝ようとした。一時間ぐらい格闘したと思う。羊を数えたり、楽しかったことを思い出したり。でも結局寝付けなかった。頭のなかにあの感触がよぎったからだ。

 ――奏純さんの、唇の感触。

 それが不意に思い起こされて、僕はなんとも言えない罰の悪さを覚えた。なんだか後ろめたくなるような、やってはいけないことをしてしまったような、そんな感覚に襲われた。

 仕方なく、僕はそれを忘れるためにアイポッドに手をつけた。姉さんが僕抜きで作ったという曲。怖いもの見たさからか、それを聴きたいと思ってしまった。

 イヤホンを着けてから、僕はバックライト頼りにルーズリーフを手に取った。歌詞の書かれた姉さんのメモ。歌う上で注意するポイントまで丁寧に書かれている。だけど僕には、それが姉の言葉には見えなかった。

 やがて僕は、意を決して再生ボタンを押した。まもなく、こぼれ落ちるようなギターの音が聞こえてきた。


     ♪


 メイビー きっとそうなんだ

 この時間が長くは続かないってこと

 ベイビー わたし思うんだ

 君は大きくなって どこかへ行ってしまうと


 まだ涅槃のときじゃない

 Nevermind そうでしょ?

 屈折する星屑じゃない

 Definitely maybe そうでしょ?


 まだ大丈夫だから 上手くやってくから

 まだ大丈夫だから 上手くやってくから……


 メイビー たぶんそうなんだ

 始まりっていうのは、いつか終わるってこと

 ベイビー わたし気づいたよ

 それでもわたし大丈夫だってこと


 愛には引き裂かれない

 Blue Monday そうでしょ?

 屈折する星屑じゃない

 Definitely maybe そうでしょ?


 まだ大丈夫だから 上手くやってくから

 まだ大丈夫だから 上手くやってくから……


 まだ涅槃のときじゃない

 Nevermind そうでしょ?

 屈折する星屑じゃない

 Definitely maybe そうでしょ?


 もう大丈夫だから 上手くやってくから

 もう大丈夫だから 上手くやってくから……


     ♪


 どうしてだろう。僕は、姉さんが作った歌、『マイ・グッド・ラック・ソングス』に涙していた。それも、感動の涙ではない。かといって、悲しくて泣いているのでもない。自分でも、どうして涙が出ているのか分からなかった。ただ、その正体不明な感情の発露として、僕は涙を抑えることができなかった。

 リピート再生にした姉さんの声が、いつまでも僕の耳朶を叩き続けた。どこかぎこちない姉さんの歌声。弾き語りのような優しいギターの音。静かなベースの響き。ドラムスが入ってきて……しかし、僕はそこにいない。

 この曲は、確かに姉さんの曲かもしれない。でもこれは、シスターズ・ルームの曲ではない。

 僕は直感的にそう思って、身を守るように布団を被った。体を丸めて、ぐっと縮こまった。

 涙はあふれ続け、タオルケットを濡らした。


     *


 翌朝、僕は涙と唾液でぐっしょりの布団とともに朝を迎えた。姉さんが八時前に起こしにきてくれたのだ。「今日は練習なんだから、遅れないでね」そう口にしながら。

 しかし、僕は正直なところ乗り気ではなかった。姉さんの歌を歌う気にはなれなかったのだ。

 起き抜けの僕は、アイポッドに映る『マイ・グッド・ラック・ソングス』の文字を苛立たしげに見つめていた。


 それでも僕は、円さんの運転する車に乗り込んで、貸しスタジオに向かった。内心乗り気でないことは確かだったけれど、それでもサボる気にはなれなかった。

 車内には、シスターズ・ルームの曲が流れていた。録音したものを円さんがCDに焼いて、カーステレオに用意しておいたらしい。流れているのは、『マイ・グッド・ラック・ソングス』のデモテープ。よりにもよってそれだった。これからその曲の練習をするのだから、当然といえば当然かもしれないけれど。

「このイントロの部分、シンセサイザーを入れてもいいかもな」

 ステアリングを右へ切りながら、円さんが言った。

「いいかもしれないけど、わたしたちそんな余力ないでしょ?」と姉さん。

「たしかにそうだが。もしメジャーデビューなんてなったら、そうしたいな」

「円ったら、いつもは現実主義者のくせに、こういうことになるとロマンチストになるよね」

「誰がロマンチストだ。あたしは、曲のことを考えているだけだ」

「えへへ。でも、それもいいかもねぇ」

「ストリングスなんか入れてもいいっすね」

 と、今度は僕の隣に座る保志さんが言った。

「ほら、オアシスで言えば『ワンダーウォール』みたいな感じで。どうっすか?」

「いいね、いいね! じゃあさ、それだったら……」

 と、僕を除いた三人が『マイ・グッド・ラック・ソングス』の話で盛り上がる。僕はそれを端から見つめるだけだった。

 僕はシート越しにバックミラーを見て、そこに写る姉さんに視線を送った。だけど姉さんは僕の視線に気づかず、ずっとそっぽを向いていた。僕のほうは見てくれなかった。


 レンタル・スタジオに着いたとき、僕は驚かざるを得なかった。なぜなら、先客がいたからだ。

 それは男だった。僕より十歳ぐらいは年上に見える、大人の男性だ。彼は緩くまとめた黒の長髪に、色白い肌をしていた。長髪も不思議と不潔そうには見えず、むしろ好青年というように見えた。

 その男性に、僕は見覚えがあった。先日のバンドコンテストで優勝したサフラゲット・シティのキーボーディストだ。

 彼は到着した僕らに軽く会釈した。

「どうも。初めましてではないけれど。今日はよろしく」

「こちらこそよろしくお願いします、織田さん」

 姉さんは自然に応えて、スタジオの中へ。挙動不審なのは僕だけだった。

 僕は姉さんがギターを引っ張り出す前に声をかけた。すると姉さんは思いだしたような顔をして、あっけらかんと答えた。

「そっか。あのとき雄貴いなかったもんね、わかんないか。実はね、このあいだのライブのあと、サフラゲット・シティの前座が決まってさ。それで、せっかくだからコラボなんてどうだろうって、オーバーチュアの支配人さんから提案があってね。サフラゲット・シティの織田新斗おだあらとさんと一緒に演奏しようってことになったの」

「一緒に演奏って……?」

「オアシスのカバーで『フォーリング・ダウン』をやるって言ったじゃない? それのさ、リミックスバージョンをやろうって話になって。で、じゃあキーボードが必要だねって」

「それ一曲だけ?」

「一応、いまのところその予定かな」

 姉さんがそう言ったところで、シンセサイザーの前に立ち尽くした織田さんが手を振った。「用意できたよ」と無言で言うようだった。

 姉さんはそれに応えて、それからケースよりギターを引っ張り出した。


 『フォーリング・ダウン』は、僕ら四人でも何度か練習を重ねていた。ただ、シンセサイザーが入るのはこれが初めてだった。

 このあいだのバンドコンテストのときと同じ。サフラゲット・シティと僕らシスターズ・ルームでは技術に差がありすぎる。そのリーダーである織田さんは、特にそうだった。機関銃のように鍵盤を叩きつける指は、痺れるような歪んだ音をかき鳴らす。この曲では、あくまでもメインはギターだ。しかし、それでも織田さんの奏でる旋律は、姉さんに食ってかかるような勢いだった。


 『フォーリング・ダウン』の練習は一時間半ほど続き、昼前に一度休憩となった。

 みんなトイレや外の空気を吸いにいくなかで、僕は一人スタジオの廊下にいた。僕らが借りている第一スタジオ前の廊下には、待合室代わりにベンチが置いてある。それに自動販売機一つと灰皿も用意されていた。

 僕は財布から小銭を取り出すと、一番やすい水を一本買って、ベンチに腰を落ち着けた。一時間ぶっ続けで練習していれば、喉も乾いてくる。一気に水を飲み干し、一息ついた。

 両手両足を広げて、大の字になって腰掛けた。体をだらんとさせて、完全に脱力したみたいに。それだけ疲れていた。肉体的にも、精神的にも。

 ――この休憩が終われば、次は『マイ・グッド・ラック・ソングス』の練習がはじまる……。

 そう思うと、なおさら体から力が抜けていった。

 そんな間抜けな格好をしているとき、不意に誰かが声をかけてきた。

「となり、いいかい?」

 と、低い男性の声。

 僕はすぐに姿勢を正して、声のしたほうを向いた。そこにいたのは、織田さんだった。

 僕はしどろもどろしながらも、小声で「どうぞ」と応えた。彼はそれに軽く会釈すると、ズボンのポケットに手を突っ込み、小銭を引っ張り出した。そして自販機に百円玉を投げ込んで、缶コーヒーを手に取った。無糖のブラックだった。

 彼はコーヒーを手に僕の隣に座った。気まずい沈黙が続いて、プルタブを開くプシュッという音がうるさいぐらいだった。

「このあいだのステージと違って、今日は少し冴えない感じだったね」

 一口コーヒーを飲んでから、彼は唐突に言った。

「ああ、悪い意味で言ってるんじゃない。ただ、このあいだのオーバーチュアでの君たちが凄かったからさ。俺ももしかしたらもしかするんじゃないか、と思ったぐらいで。それと比べると、今日はちょっと調子が出てないように見えてさ。なにか悪いことでもあったかい?」

「そうですね……ちょっと調子悪いですかね……」

 僕はにごすように言って、うつむいた。視線の先には空のペットボトルがある。僕は静寂を埋めるように、そのキャップを開けたり締めたりした。

「何か悩んでいるように見えるんだが。違うかな?」

「いえ、そういうわけでは……」

「そうか。まあ、赤の他人には話しづらいよな。他人だからこそ話せるということもあるが……」

 言って、彼はコーヒーを一気に飲み干した。それから上着の胸ポケットに手を入れて、タバコを取り出した。赤と白のパッケージ、マルボロだった。

「吸っても大丈夫かな?」

「はい。むかし父も同じのを吸ってたので、平気です」

「そうか。すまないな」

 彼はポケットからオイルライターを取り出し、火をつけた。油の匂いがじんわりと広がった。

 灰皿は自販機の隣にあった。織田さんはベンチから腰を上げると、今度は灰皿の隣に立ち尽くした。背中を壁に預けて、僕に相対するように。

「『俺たちは死にかけの夢に住んでいる《We live a dying dream》』、なんて皮肉な歌詞だよな。オアシスは、この『フォーリング・ダウン』を最後のシングルにして解散している。思えば、この曲は彼らの行く末を暗示してたのかもしれないな」

「そうですね……」

「フムン」彼は紫煙を吐く。僕に配慮したのか、真上に向けて。「知ってるかもしれないが、俺もバンドの解散を経験しているんだ。正確には脱退って言ったほうがいいかもしれないが。

 俺は前のバンドでも作曲をやってたんだ、はじめはな。……去年だったかな、レコード会社から声がかかったんだよ。嬉しかったよ。念願のプロデビューだったからね。でも契約の段階になったところで、向こうのプロデューサーが俺の曲にケチをつけてきた。いまどき古い洋楽のオマージュなんざウケないってさ。特に難解なプログレや、乾いたポストパンクの感じはウケないって言われたね。それで俺は作曲から外されたんだ。で、俺達はロックというよりはシンセポップに近いバンドとして再出発するように言われたんだ。売れ筋を狙うつもりだったらしい。俺は、それがイヤになってバンドを出た。事実上の空中分解。解散だったと思うね。自分のやりたかったことが、その空間にいてはできないと分かったんだ」

「それで、サフラゲット・シティを結成したんですか?」

「ああ。ほかのメンバーも俺と同じ、みんなはぐれ者でさ。一匹狼どもが傷を舐めあうみたいにして結成したんだ。だからいまでも田舎のライブハウスを行ったり来たり。昔の同僚たちは、いまやファーストアルバムを出して、日本中をツアーしてるらしいけどな。でも、俺はこれでよかったと思ってる」

 タバコが一本、すべて灰となって消えた。

 織田さんは灰と化したタバコを灰皿にねじ込むと、もう一本くわえて火をつけた。

「昔のメンバーは、俺のことを『逃げ出した』と言った。せっかくのチャンスを棒に振って、チャレンジすることをやめたってな。でも、俺は逃げたとは思ってない。みんなが右を向いていたとき、左を向いてただけなんだ。だから俺は左に行った。それだけの話。

 ……って、何の話をしてるんだか。愚痴に付き合わせて悪かった。俺も新しいバンドを組んでからいろいろあってな。君もこれからいろいろあると思うが、自分の好きなようにしたほうがいい。無理をする必要はない。周りからは『逃げた』と言われるかもしれないが、自分自身がそう思っていなければ、『逃げた』とはならない。少なくとも俺はそう思ってる」

 紫煙が天井に浮かんでいく。雲のように。

 彼はタバコを口惜しむことなく、好きなように一気に吸った。その煙はあたりに滞留し、やがて僕の鼻孔をくすぐった。


 休憩が終わってから、すぐに練習は再開された。織田さんは自分のバンドの練習があると帰ってしまったけれど。……僕にとっては、そのほうがむしろ好都合だったのかもしれない。

 もちろん曲は、新曲『マイ・グッド・ラック・ソングス』。実際に演奏をしているところを見るのは、これが初めてだった。まだ完成して間もないからか、演奏はどこかぎこちなかった。保志さんのドラムはどこか駆け足気味だし、円さんのベースは主張が激しかったり控えめだったり落ち着きがない。そして姉さんのギターは、一人先頭を突っ走っているみたいだった。

 僕はその不和に、どこか気持ち悪さを覚えていた。いや、本当はそう思いたいだけだったと思う。

 一時間ほど昼食を抜いて練習を続けていると、段々と演奏もこなれてきた。それに各々が「こうしたらどうだろう」と新たなアイディアを持ち寄って来さえもするようになった。僕らの些細な考えが合わさって、徐々に曲として完成していく……。それはかつて、『シスターズ・ルーム』のとき、そして『イカロス』のとき経験したプロセスだった。

 だけどどうしてだろう。僕はその過程に、創造の喜びを感じなかった。みんなで何かを作っていく、本物らしさを帯びていくことに、なんら快楽を覚えなくなっていたのだ。

 三人とも楽しそうに演奏している。なのに僕だけ、内心気乗りしないまま言葉を口ずさんでいる。僕と姉さんのではない、姉さんとどこかの誰かが綴った言葉を……。僕は『マイ・グッド・ラック・ソングズ』の歌詞を口にするたび、吐き気のようなものを覚えた。



 メイビー、きっとそうなんだ。

 この時間が長くは続かないってこと

 ベイビー わたし思うんだ

 君は大きくなって どこかへ行ってしまうと



 姉さん、この『わたし』は誰のことなの? この『君』は誰のことなの? 考えないようにしているのに、僕の頭はその疑問に支配される。そして、気持ち悪さがこみ上げてくれる。

 だから吐いてしまわないように腰を下ろして、天井を仰ぎ見るようにマイクに向かった。そうすると喉元まで酸っぱさはやってくるけれど、まもなく重力に押し負けて胃へ戻っていった。

 でもそんな僕の思いを、姉さんが知るはずもない。

 姉さんは僕がそんな歌い方をしていると、横から興奮気味に言った。

「わ、すごい。いまの雄貴ってばリアムっぽい!」

 練習の合間に、姉さんはそんなことを口にする。たぶん、悪意はないんだろうけれど、僕は妙な苛立ちを覚えた。

 するとそんな姉さんに、後ろから保志さんが付け加えた。

「いやぁ、そこはイアン・ブラウンじゃないっすか」

「いや、ジョニー・ロットンだろう」

 今度は円さんまでそう言う。

 そうして三人が雑談を交えて、また演奏に戻る。もう一度合わせてみよう、と口にして。

 ――僕のことを、姉さんはもう分かってくれない。

 そう思ったとき、僕の脳裏に織田さんの言葉が蘇ってきた。

 僕は、みんなが右を向いているなかで、左を向いているだけなんじゃないか? だったら、僕が見ている左の先には、いったいなにがあるというんだ?

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